田村王子の憂鬱

 田村王子たむらノみこの居処である崗本宮おかもとノみやは、豊浦とゆらよりやや北へ行った所に在る。ここの装いを改めて王宮とする為に、召集された大工どもは急がせられている。即位の日は、来年の春一月四日と定められた。その間に、田村たむら豊浦宮とゆらノみやに宿っている。

 運命のく先は、山背大兄王子やましろノおおえノみこが身を退いたことで、表向きには何の争いも無く、田村王子たむらノみこと決まった。崗本宮おかもとノみやに仕える古株の者などは、ふたつの目からなみだを流し、しとどあごに交わらせて、

おん父君の道の絶えたるを継がれましたな」

 然々しかじかよろこびを述べる。

 父、押坂彦人大兄王子おしさかノひこひとノおおえノみこは、田村たむらがまだ幼い頃に世を去った。他田王おさだノおおきみの子として、将来を期待されていた王子の夭折ようせつは、近く仕える者たちには、強く遺憾の念を刻み付けたのではあった。

 しかし当の本人は、父の顔や声を憶えてもいず、王座に何の思い入れもしてはいなかった。むしろ倭国やまとノくにの王者として重い責任を負うよりは、ただの王子として富貴な身分をたのしんだ方が良いし、そうしているつもりなのであった。

 田村たむらの人生の見通しを変えたのは、宝王女たからノみこであった。

 宝王女たからノみこは、田村たむらにはめいに当たる。天王てんのうに側仕えをして気に入られているとのことで、良き嫁娶めとりになるであろうとの声がかけられたのは、今より四年ほど前になる。天王てんのうの肝煎りの媒妁ばいしゃくでもあり、王族の男にとってめいとの結婚は一種の栄典とされることでもあって、田村たむらには断るべからざる縁談であった。

 宝王女たからノみこは、高向王子たかむくノみこという人と別れて、生まれた子さえ置き捨て、田村たむらの二人目のきさきとなった。

 田村たむらの一人目のきさきは、故蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみむすめ法堤郎媛ほほてノいらつめであって、もう十数年の関係を持っていた。法堤ほほてとの間には、古人大兄王子ふるひとノおおえノみこが生まれている。

 宝王女たからノみこ崗本宮おかもとノみやに縁付くと、田村たむらの心はたちまちき着けられた。田村たむら前妻うわなりとそのむすこを忘れて、若い後妻こなみねやにばかり通うようになった。一年とたぬ内に、葛城王子かづらきノみこが生まれた。二年目には間人王女はしひとノみこが、三年を過ぎる頃には、大海人王子おおしあまノみこが生まれた。三人の子は、そろって健康に育ちそうだと思われた。

 田村たむらは気付くと、血筋が良いのに加えて、跡取りにも恵まれているというわけで、山背大兄王子やましろノおおえノみこと並んで、王位継承の最有力候補ということにされていた。

 豊浦宮とゆらノみやで、田村王子たむらノみこの身の周りは、ゆるりとはしていない。

 おみむらじともみやつこどもは、即位までに決めておかねばならないことについて、議論を交わしている。論点は、田村王子たむらノみこは何を継ぐのか、という点にあった。倭国やまとノくにの君主であることは決まっている。問題は、倭国やまとノくにの君主とは何者であるべきかということである。こんな問題が持ち上がるのは、知られる限り歴代に無かったことであった。その原因は、

天王てんのう

 という、炊屋姫尊かしきやひめノみこと倭国やまとノくにでは初めて用いた称号にあった。天王てんのうというのは、天上界に在って仏法を守護する神のことである。そこで人間界にいて三宝さんぽうを外護する王者をも、たたえて天王てんのうと呼ぶことが、はるか西の国々で起こった。国君の称号として正式に用いた例も、史書に載せられている。

 その天王てんのうという称号が、弘法ぐほうに力を尽くした炊屋姫尊かしきやひめノみことには、如何いかにも相応ふさわしいものであったことは疑いが無い。しかしこれは一代限りの美称であるのか、それとも世襲すべきものなのかは、誰にも知り得ないことなのである。

 蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみは、豊浦とゆらの屋敷に設けた書庫から、舶来の書物をいくつも持ち出させ、宮の広間に並べて、人々の目を驚かせた。今の問題について討議する材料とする為である。もっとも文章の読み書きの出来る者は、朝廷の重臣の中でさえも、まだ限られている。文章の技能を担う集団を傘下に持っていることは、蘇我そが氏の強みでもありながら、

何時いつまでもこうでは立ちゆかぬ)

 と蝦夷えみし常々つねづね考えている。はるかから天朝みかどの統治をけるたみなら、農家の子どもでも少しは読み書きをすると聞いている。それほどが必要ではないにもしろ、せめておみむらじともみやつこどもの能力がもっと上がらなければ、こんな国は海の底にでも沈んでしまいそうな気がしている。

 しかし今ただちに人々の頭をひらかせるわけにも行かないので、配下の史部ふひとべつどえて、天王てんのうという称号を用いた例を、異国の史書から探してぬきがきを作らせた。それを王子みこたちやおみむらじどもに読んで聞かせ、衆議の判断を求める。意見は、まとまらない。

 田村王子たむらノみことしては、

天王てんのう小治田宮おはりだノみやみよを尊ぶとし、おのれはもとの倭王やまとおうとしたい」

 という意思を、初めから蝦夷えみしには伝えていた。先々代まで、歴々倭国やまとノくにの主君が用いた称号ならば、伝統を受け継いで、いにしえの礼にかなうことにもなる。それに天王てんのうと呼ばれるとすれば、王座にくだけでも憂鬱なのに、なおさら忐忑たんとくとするのである。何せ炊屋姫尊かしきやひめノみことは、あまりにも偉大な女帝でもあるし、仏教の匂いが濃い称号では、山背大兄やましろノおおえに対して後ろめたいような思いもあるのだ。

 これに反して、

「必ずや天王てんのうを絶やすことまな

 との意志を蝦夷えみしに伝えていたのは、宝王女たからノみこであった。炊屋姫尊かしきやひめノみことが四十年になんなんとする治世にいて、仏教を利用することで進めた、最新の知識や技術による発展、国家の権力の拡張は、それより前の三百年間になされたことよりも大きい。今さらもとの倭王やまとおうに戻りなどしては、それを覆すということになり、同盟する国々の離反を招くことにもなりかねない、とうのであった。

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