静かなる敗北

 摩理勢まりせには意外なことに、小さい仲宮なかツみやには、兄と弟がそろっていた。

「これは如何いかなることにや」

 と山背大兄王子やましろノおおえノみこは、一通の便箋を、摩理勢まりせに示す。

「何ゆえなんじあるより先に、これが届いたるや」

 と泊瀬仲王子はつせノなかツみこは言い添える。

「今、阿倍臣あへノおみどもが、母屋おもやにはし所ぞ」

 兄の王子みこは付け加える。

 摩理勢まりせはその便箋を開いて、もう一度ギクリとする。蝦夷えみしの字が、その紙の上には並んでいる。何を言うものかと読むと、こうある。

「この頃、摩理勢まりせやつかれたがいて、仲宮なかツみやかくまわれてあります。願わくば身柄を賜りて、その是非よしかんがえんとおもい申し上げまつる」

 云々うんぬんと。摩理勢まりせは、泊瀬はつせと顔を見合わせる。こちらの動きを先読みされているのだ。そうとしか考えられない。ならば、牽制の手を、何か打たねばなるまい。だがどうするか。そもそも摩理勢まりせ蝦夷えみしたがう、というのが何のことなのか、明らかに書かれてはいない。王位継承のことか、それとも今朝からの動きのことであろうか。

 山背大兄やましろノおおえは、おもてを伏せ顎に手を当てていたが、返辞を書く、と呟いて、机を引き寄せる。

摩理勢まりせは、もとより父上のよみしたまう所にてありし。されば今もしばらおとなうのみにてあります。あに叔父おじどののこころたがわんや。願わくはとがめやることまな

 斯々かくかくと、書いた墨が半ば乾くまで、三人は黙りこくって、寄せた眉を向き合わせた。大兄おおえはその便箋を持って去る。泊瀬はつせは、桜井臣さくらいノおみ和慈古わじこを呼べ、と近習きんじゅに命じて、兄の使ったすずりに筆をひたす。摩理勢まりせが文案を助言する。

おのらが父子かぞこ、並びに蘇我そがの血をけてこそありとは、人々の知れる所にてありける。されば高山の如くにたのみたしとぞ。願わくはきみの位のことはたやすく言いなさることまな

 云々うんぬん、と。口にするなと鎌を掛けておいて、反って言ってくれれば都合が良い。これで田村王子たむらノみこをと漏らしでもすれば上々、もし今さら山背大兄やましろノおおえこそとでも言うなら、それはそれで別の考えもある。泊瀬はつせは、このてがみ和慈古わじこに持たせて、

「ただちに蝦夷えみし還辞かえりごとこそ聞かんとほりすぞ」

 と言い付けると、豊浦とゆらへ走らせる。

 摩理勢まりせは、腕組みをして、じっと待つ。蝦夷えみしに先を行かれるとしても、衝突は避けないとはらを決めている。闘いであるのだから、敵に先手を取らせておいて、後手の利を活かす遣り方だってあるのだ。

 昼下がりの惰気だきが濃厚に漂う頃、和慈古わじこ蝦夷えみしの返書を携えて、仲宮なかツみやに還った。泊瀬はつせは封書をそのまま置いて、兄を呼ばせる。山背大兄やましろノおおえは、深く物を思う顔をして来ると、封緘ふうかんを切って、中を確かめる。こうある。

きみの位のことは、先の日に言いおわりてあります。更になることは無くさぶらう。さればやつかれが何ゆえに、いずれ王子みこかをかろみして、いずれ王子みこかをおもみしまつりますや」

 然々しかじか……と。実に意外、何て奴だろうかと、摩理勢まりせも舌を巻く。並の者なら、おのが意中を旗に掲げて、反対する者をただし、新たな王者に忠義を売り付けたい所であろう。蝦夷えみしがそうであったなら、いよいよ問題が表沙汰になり、摩理勢まりせにしてみれば都合が良い。しかし蝦夷えみしめは、まだとばけていやがるのだ。異常に粘り強いのか、それともただ鈍い奴なのであろうか。

 いずれにもせよ、この答えは山背大兄やましろノおおえくじけさせるものだ。大兄おおえは、人の心をはかろうとして考え込みやすいさがなのである。そして人に譲ることが好きなたちでもある。蝦夷えみしからおのれを支えるという言明が得られないだけでも、田村たむらの為にその身を退こうとしかねない。もし本人が王位を諦めてしまえば、摩理勢まりせにはもう一つのすべだにも残らなくなる。

 何か声をかけようと思うのに、舌が乾くばかりで喉が鳴らない。泊瀬はつせもまた摩理勢まりせと同じ気持ちを浮かべている。

摩理勢まりせや」

 大兄おおえが先に声を出した。

なんじこそは父上のめぐみを忘れずして、来てくれることはいとかなしと思う」

 王子みこが言葉を続けている間は、摩理勢まりせは黙って聞かねばならない。そういう立場である。

「されど今は、なんじ一人の為に、国は乱れなんとするとや。

 さては父上も、命のせたまわんとせし時、我ら子どもにのたまいしくは、

 『悪しきことをばるな。善きわざのみ行えよ』

 とな。われはこのおおせをけたまわりて、永き戒めとせばやとおもいつある。かれ思い残す所あるとも、忍びてぞ怨むることなし。また叔父おじどのと争うことなどあたいもせぬよ。

 なんじは今よりのちはばかることなくこころを改め、ひとに従わなん。退まかることなく国に仕えよ」

 さっと、大兄おおえは立って、庭を母屋おもやへ行く。泊瀬はつせもはっとあわてて、兄の後を追う。外では乾風からかぜが、枯葉かれはを揺らして、からからと音を奏でている。

 からからら、からからららら……と天が謡わせる歌を、摩理勢まりせはじっと坐ったまま、聞くのみであった。

大兄王子おおえノみこ御言みことたがいなさるなよ」

 阿倍臣あへノおみ大伴連おおともノむらじなどが来て、そう言ったらしい。その声よりも、摩理勢まりせ枯葉かれはの歌を聴いていた。からから、からからという音が、わが骨の内からも響くかのように思われる。

 進もうとする先を失って、蘇我そがの地の家に還る。大兄王子おおえノみこに、泊瀬仲王子はつせノなかツみこ舂米王女つきしねノみこでも、翻意を説得できるだろうとは思われない。それから十日余りが、明け暮れを繰り返す間に、蝦夷えみしからは何を言っても来ず、討手うってが差し向けられもしない。こちらから悪あがきの一つとて強いてしようもあるではない。

 摩理勢まりせには、蝦夷えみしがやはりただ鈍いのか、あるいは度量が大きいのか、推し量ることも出来なかった。

 立冬の近い頃で、山はと仰げば、紅葉もみじははらはらと散りつつ、痩せた枝を露わにしていた。

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