冥黙の闘い

 この時、さき大臣おおおみであり蘇我そが氏上こノかみであった馬子うまこの墓は、連年の凶作の為に造営を中断していて、この冬に作事さくじを再開するはずになっていた。場所は、豊浦とゆらより南、馬子うまこの家であった嶋の屋敷の近く、桃原ももはらと呼ぶ土地に在る。

 桃原ももはらには、再開に先立って、人夫どもが泊まる為のいおが用意されて、すでに徴収された領民たちが、そこに集められつつあった。うじの長者の墓を営むことは、うじが一つになる所以ゆえんでもある。それで一族の有力な者ならば、墓造りに各々の領民を出す。この義務を放棄すれば、うじに対する造反うらぎりということになる。

 うじは、一つであらねばならない。もし誰かがこの調和を乱すならば、当主である蝦夷えみしは動かざるを得なくなろう。

 摩理勢まりせは、自分の領地から出した人夫どもに、いおを解いて蘇我そがの田地に帰るように命じる。蘇我そがの名で呼ばれる地域は、倭国やまとノくにの南西部、かつて二百年ほど前には、葛城国かづらきノくにとも呼ばれた辺りで、今は蘇我そが氏の勢力の源となっている。摩理勢まりせもこの一画に、領地の一つを持っているのである。

 蝦夷えみし蘇我そがの当主として、この摩理勢まりせを罰しようと動けば、その足下をすくってやろう。蝦夷えみし田村王子たむらノみこを支持すると明言しないなら、それが知られるようにしてやれば良い。こちらの肩には山背大兄王子やましろノおおえノみこを担いでいる。まず争いを起こして、王位継承の問題を絡め込めば、誰がどちらの敵で味方なのか、おのずと明らかになろう。

 蝦夷えみしが血縁の深い山背大兄やましろノおおえてるとすれば、抵抗を感じる者は蘇我そがの一族に少なくないはずだ。氏上こノかみの地位はおいに譲ったとはいえ、長老として指導力を発揮できるという自信がある。何でおいのひよっこなんどに負けることがあろう。

天王てんのうみものことがある上、夏にはひでりがあったゆえ、この冬も作事さくじとどめられる。よっていおこぼち、家にまかるべし」

 との命令を、蘇我そがのわが家から、人夫どもに伝えるよう、指図をする。まだ空は黒々と暗い時分である。矢継ぎ早に次の手を打とうと、筆の穂を墨に濡らす。宛先は、蝦夷えみしの弟、雄当おまさあざな倉麻呂くらまろである。

なんじ、はた手をこまねきて待つや、また待たざるして立つや」

 斯々かくかく雄当おまさは、蝦夷えみし入鹿いるかに跡を継がせるならば、やはり叔父おじとしておいの風下に立たされることになるのだ。

ときを得てなお立たずあれば、百歳ももとせのちまでもひるみたるとそしりを受くやも。まさ丈夫ますらおなればいざ参らなん」

 同情を込めて書く。おもてを上げると、雀の声が耳を打ち、雨戸の隙にあけが差し込む。外は明るくなりつつあるらしい。墨を足さねばならんな、と思うと、ふっと雀がくちばしを休ませて、

 ――ごそり。

 と部屋の外で人の気配がして、くぐもった声で、豊浦とゆらの屋敷より使いあり、とか聞こえた気がする。

 摩理勢まりせは、胸がギクリとして、何者かに襲われそうな、嫌な感じを覚える。こちらの動きが向こうに伝わって、何かを言ってくるには、まだ早すぎるだろう。だが一体何だろうか。表を見れば、誰もおらず、ただ封書が置いてある。摩理勢臣まりせノおみへと、蝦夷えみしの字で宛名書きされている。封を切って、三つ折りにされた紙を開く。

われ叔父おじ上がことの当たらぬことを知れども、長老おさを敬う義理ことわりあればこそ、妨げることを得ずにさぶらう

 もしひとは当たらずして叔父おじ上は正しくば、われ必ずひとたがいて叔父おじ上に従わん。ただひとは正しくして叔父おじ上は当たらずば、われまさ叔父おじ上にそむきてひとに従わん。さても叔父おじ上はついに従わざれば、われ叔父おじ上とへだてあらん。なれば国も乱れあらん。

 さてはのちの人の言わまく、われら二人して国を破れりと。これのちの世の悪しき名なりてさぶらう叔父おじ上にかれてはさかえたる心を起こすことまな

 云々うんぬん、とある。さてはて、蝦夷えみしは一体何のことを言っているのだろうか。この摩理勢まりせを責めているのは確かだが、それはどのことについてなのか。どう読んでも明らかではない。今朝の動きが向こうに知られたには、やはりまだ早すぎるだろう。そのはずである。だが待てよ。こちらの動静を探られていることはありうる。そうではあるまいか。

 摩理勢まりせは追い立てられる気分で、人を呼んで馬を引かせる。急げ。もし下手に動いたとしても、おくれを取るよりはましだ。斑鳩いかるがへ向かう。二、三の従者のみ付かせて、門を飛び出る。急ぎたいのに、強く揺られると、変に胸が詰まるような気がする。だが急げ。

 斑鳩宮いかるがノみやでは、取り次ぎを待たずに入ることが、摩理勢まりせには許されている。まずは泊瀬仲王子はつせノなかツみこと、はかりごとを検討せねばならない。泊瀬はつせは、山背大兄やましろノおおえの擁立を図る上で、最大の賛同者となっている。

 泊瀬はつせは、この斑鳩宮いかるがノみやの片隅に間借りをして、仲宮なかツみやと呼ぶ小さい家に、部屋住みの身分でいる。斑鳩宮いかるがノみやには、塀の中の広い敷地に、いくつものむねが、母屋おもやの他にも建てられている、その一つである。王族といえども、誰もが立派なみやを持てるわけではなかった。泊瀬はつせにとっては、今より良い暮らしを望めば、兄を王座にかせて、その政治をたすける地位を目指すしかないのであった。

 摩理勢まりせは、仲宮なかツみやに近い裏門に馬を着けて、ただちに泊瀬はつせもとへと向かう。まだ朝の鋭気がきりきりと感じられる時刻である。

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