老いらくの野望

 蝦夷えみしは、

さきふみは聞いたままを述べつらくのみ。何で叔父おじどのにたがわんや」

 云々うんぬん、という山背大兄王子やましろノおおえノみこからの今一度の信書を受け取ってさえも、使者の和慈古わじこに会うこともせず、やまいを称して奥の間から出ない。和慈古わじこは、返書をもらいたいと言って粘りはするも、その日はあえなく帰されてしまい、主人のもとへは戻るわけにもいかず、宿を探して豊浦とゆらとどまった。

 翌日、和慈古わじこは改めて蝦夷えみしに呼ばれて、返書を携えた阿倍麻呂臣あへノまろノおみ大伴鯨連おおともノくじらノむらじ中臣連なかとみノむらじ弥気子みけこらとともに、ようやく斑鳩宮いかるがノみやに戻った。

 斑鳩宮いかるがノみやで、境部摩理勢臣さかいべノまりせノおみは、この日も山背大兄やましろノおおえ伺候しこうして、蝦夷えみしの返事が届けられるのを、今か今かと待ち構えていた。和慈古わじこが還って来て、封書を奥の間に伝え、大兄おおえが便箋を取り出す。読まれる間に、阿倍臣あへノおみが用があるというので、蝦夷えみしは庭に下りてつきの枝をくぐる。

豊浦大臣とゆらノおおおみより、言伝ことづてを預かってある」

 と阿倍臣あへノおみは言って、一つの紙片を渡す。二つ折りのそれを開くと、

誰子為王いずれのみこかきみたらん

 との四文字だけが、蝦夷えみしの字で書かれてある。摩理勢まりせには不愉快である。

「このことは、さきじかに問われた日に、わしは答えておるわい。いかでか今また更に伝えて告げることやあるぞ」

 こう火を噴かれても、阿倍臣あへノおみは温厚そうな相好そうごうを崩さない。つらだけの奴め、と摩理勢まりせは胸のうちののしり、握り潰した手紙を突き返して、奥の間に戻る。

 奥の間で、山背大兄やましろノおおえは、まつげを伏せて、思案顔をしている。泊瀬仲王子はつせノなかツみこは、蝦夷えみしの返書を摩理勢まりせに示す。こうある。

広庭王ひろにわノおおきみみよより、小治田天王おはりだノてんのうみよに至るまで、わが父祖おやどもはみな賢々おさおさしくありき。今ただやつかれのみ不賢おさなくして、たまさかに人のともしき時に当たりて、誤りて臣連おみむらじどもの上にはべらくのみにてさぶらう。されば国のもといを定めることも得ずにさぶらう。しかもこれは重きことにてあります。伝えて聞こえさすことあたわざれば、やつかれは老いて疲れあるといえども、おん目通りをたまわる日に申し上げます。それついみことのりのみは誤ることなくさぶらうやつかれわたくしこころにはあらずさぶらう

 斯々かくかくと。

 摩理勢まりせはこれを読んで、年季により深まるしわを、一層その顔に刻ませた。

大臣おおおみは何を言わんとしおるのか。肝心の所は抜けておるやに見えるが」

 舂米王女つきしねノみこも、そう言って声にとげを含ませる。まさにそこが問題なのである。蝦夷えみしは誰がきみたるべきとも、自分の意見としては公言していない。言わずにおいて、運命は田村王子たむらノみこに向いているのかと、こう思わせようとしている。山背大兄やましろノおおえなればこそ、そう仕向けられれば事情を斟酌しんしゃくして、身を退こうかと考えずにはいない。頭が良くて争いを好まず、気を遣いすぎるという、大兄おおえの性格が利用されようとしているのだ。

 猪口才ちょこざい小童こわっぱめ、と摩理勢まりせ蝦夷えみしののしる。


 摩理勢まりせがこのおいねたしと思う心を起こしたのは、そう古いことではなかった。

 二年前、兄の馬子うまこが死んで、朝廷の大臣おおおみと、蘇我そが氏上こノかみという地位は、蝦夷えみしが継いだ。そのことは、相続の法から言って、全く順当なことであった。摩理勢まりせは、ずっと昔に父の稲目いなめから命じられるまま、支族の境部さかいべ氏を惣領そうりょうする役目を引き受けていた為に、蘇我そが氏の相続の順序からは外れてしまっていたのである。

 尊敬する兄が健在である間は、自分の待遇に何の不満もあるのではなかった。しかし兄が去って、おいに全てが与えられるのを見ると、急にこの存在を否定されたような気がしてきたのであった。

 ――おいが受け継いだ全ては、本当はわしのものなのだ。

 そういう感情が湧いてくる。世の習わしでは、兄が死ねば、まず弟が継ぐものではないか。大臣おおおみの子として生まれながら、しかも一族の長老ともなりながら、何で境部さかいべ氏などという弱小氏族の惣領そうりょうで、この命を終えねばならないのか。

 その感情のくすぶりに火がけられたのは、天王てんのうひつぎが埋葬される日の前の夜のことであった。蝦夷えみしは、

天王てんのうが他界せられてのちのことが定まらずにありますな。いずれ王子みこきみたるべきと思われますぞや」

 と問うた。摩理勢まりせは、

山背大兄王子やましろノおおえノみここそきみたらん」

 と答えた。ただ話しの流れのつもりであった。しかし後から考えてみると、何故なぜわざわざそんなことを問うたのか、いぶかしい。蘇我そがとしては山背大兄やましろノおおえを支持するだろうとは、明言されたわけでないとはいえ、誰しもそうだろうと思っていたことだ。摩理勢まりせもそう考えていた。摩理勢まりせがどう答えるかも、蝦夷えみしは知っていたはずだ。知っていて、殊更ことさらに確かめたのは、何か意図があったのだ。

 ――もし蝦夷えみしが期待に反して、田村王子たむらノみこを擁立しようなら、どうであろう。

 摩理勢まりせは、老いた身に自らむちを打って、人生で最後の勝負をやってみる気になったのである。自分はどうでも山背大兄やましろノおおえを立てる。王座を巡って倭国やまとノくにが二分される争いにでもなれば、闘って負けるとは限らない。蝦夷えみしが失脚でもすれば、全てをこの手に取り返して、わが子どもに伝えられもするのだ。


 さて今、蝦夷えみしが誰を支持するのか表明もせずに、山背大兄やましろノおおえ退くことにでもなれば、事は荒立たずに済まされて、摩理勢まりせには逆転の機会が、二度とは巡っても来ないことになろう。

 摩理勢まりせれる。胸の底がじりじりとする。とにかく動かなければ、今にも手を塞がれてしまいそうに感じるのである。

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