山背大兄の立つ瀬

「このついみことのりをば、その耳できし者やある」

 山背大兄王子やましろノおおえノみこは、再び和慈古わじこを通して、表の間へ、阿倍麻呂臣あへノまろノおみらに問わせた。

 しかし舂米王女つきしねノみこは、

阿倍臣あへノおみどもに問いなされてもらちがあきますまい。いま一度ひとたび蝦夷えみしめに御言みことたまいませ」

 と奨める。和慈古わじこが戻って、

やっこどもはその奥深きことを知りまつらず」

 との阿倍臣あへノおみの答えを伝える。山背やましろはそこできさきの意見を是として、墨を持たせ机を引き寄せた。今度は手ずから筆をらねばならないという心持ちで、内容については二、三のことを相談した上で、摩理勢まりせも他の誰も下がらせる。型通りの書き出しの後に、こう続けてみる。

うつくしき叔父おじどのは、この不敏おろかおい可愛いたわしと思われればこそ、ただの使いならぬ、重き臣連おみむらじどもを遣わして、教えさとしたまいましたな。これは大きなるめぐみと痛み入ります」

 こう書いて、筆は止まった。考えるのだ。よく考えねばならない。どんな原因であれ、王位に争いが生じるということは、身が危うい状況ということにもなるのだ。迂闊うかつな一言でもあれば、一つのおのれのみならず、親しい人たちの命にまで関わらぬでもない。時は進む。軽い食事を運ばせる。日は傾いてゆき、もとより薄暗い室内を、さらに闇に落としつつある。燭芯そくしんに火をともして、やっと筆を動かす。

「されども、ただいま臣連おみむらじどもがつたえる所の天王てんのうついみことのりは、少しくおのれきし所とたがいてあります。

 天王てんのうみやまいしたまうことを聞きし日、急ぎ小治田宮おはりだノみやのぼはべりおれば、時に中臣連なかとみノむらじ弥気子みけこ、奥よりいでいわく、

 『天王てんのう御言おおみことにより召されますぞ』

 と。さて参進まうすす内門うちツみかどへ向かえば、またおおば栗隈采女くるくまノうねめ黒女くろめの出迎えあり、大殿おおとのに率いて参る。ここに、近く仕えまつる者、栗下王女くるもとノみこはじめとして、女孺わらわ鮪女しびめら八人、全て十数人、御側おおみもとはべりおり、かつ田村王子たむらノみこまたしたり。

 時に天王てんのうみやまいは重りておわし、おのれそなわすことならず、栗下王女くるもとノみこ

 『召される山背大兄王子やましろノおおえノみこ参来まうけり』

 と申し上げれば、天王てんのう、ようよう身を起こしたまいみことのりしてのたまわく、

 『われいやしき身にしてな、きみくらいつとめること久しければ、今しも暦運いのちは尽きるべくして、すでやまいは避けられぬことよ。かれいましもとよりが頼りとする所、めぐこころたぐいなきほどなるぞ。それ国の大きなるもといは、が世のもののみならざる。もとより努めよ。いましきもおさない。慎みて言えよ』

 と。これぞその時にはべりて近く仕えまつれる者どものことごとく知れる所にて」

 云々うんぬん、と記すまでに、また幾時いくときかを過ごした。書くよりも、前を見詰めている時が長い。すっかり暗くなった部屋の中で、ともしびが赤く揺れて、文机ふづくえを向き合わせた几帳きちょうに、け垂らされた刺繍ぬいとりの仏を、ぽっと浮かび上がらせる。

「かれおのれこの大きなるめぐみたまわり、おそれ、いたみ、心に任せず、すべきことを知れずにおりました。よくよく思うに、きみたるよさしは重きことなるに、おのれ未熟わか不賢おさなくあります。いかでか敢えて当たれましょう。

 この時、叔父おじどのや臣連おみむらじどもに語らんと思うに、そのいとまもあらざれば、今まで言わずにのみおりました」

 然々しかじかと書きつつ、もっと昔のことに思い当たる。これも述べておく必要がありはしないかと考える。権力に対して欲深いという印象は持たれたくないのである。

おのれかつて叔父おじどののやまいされし時、見舞わんと豊浦とゆらへ向かい、建興寺こんこうじはべりおりましたよな。その日に、天王てんのう八口采女やくちノうねめ鮪女しびめをば遣わさせたまいて、みことのりしてのたまわく、

 『いまし叔父おじ大臣おおおみの、常にいましためうれいて申せしは、百歳ももとせのちなればきみくらいいましに当たらなむ、とな。かれ慎みてみずかはばかれよ』

 と。既に分明わきわきしくこのことがあります。何をか疑いましょう。さればおのれあに国を貪りましょうや。ただきしことをのみあらわしました」

 正面に仏の姿をキッと見据えてから、最後の一言を墨に語らせる。

四天王してんのう三十三天さんじゅうさんてん、及び国神くにツかみよ、これをあかしたまえ」

 と。

 阿倍臣あへノおみたちは、斑鳩宮いかるがノみやに宿りして、返書を待つだけの一夜を、ゆるゆると過ごした。朝になって、和慈古わじこ山背大兄やましろノおおえの言葉を告げる。

「これをもって、天王てんのうついみことのりを確かめたいとおもう。なんじらはもとよりほこの中を取り持つことの如くにして、よく物を言い伝える人どもである。かれよろしく叔父おじどのに申すべし」

 この言葉とともに、一通の封書を受け取って、阿倍臣あへノおみらは南へ還って行った。


 豊浦とゆらの屋敷で、蝦夷えみし山背大兄やましろノおおえの返書を受け取ると、それをすぐには開かず、阿倍臣あへノおみらは帰してしまった。入鹿いるかの心は、居ても落ち着かず、立っても行く所を知れない。大兄おおえが父とどんなり取りをしているのか、父が大兄おおえを支持してくれるのかどうか、しようもなく気になりつつも、父が教えてくれない限り、強いて見せてくれとも言えない。


 斑鳩宮いかるがノみやでは、遅くとも翌日には返答があろうと、山背やましろはそう思っていたのに、二日が経ち、三日が暮れても、まだ何も言って来ない。それで山背やましろは、叔父おじに対して何かまずいことを書いたのではないかと、心をくよくよとさせる。

「気を強くお持ちあそばせ」

 そう言って、舂米王女つきしねノみこは励ます。泊瀬はつせ摩理勢まりせも、

「父上の口惜しさをお忘れめさるな」

 などと言って支えようとする。この三人は、父の身代わりとしてこそ自分を王位にかせたいのだな、と山背は感じている。しかし相続したはずの継承権を棄てるのは、確かに惜しいものだという気持ちも、湧いてこないでもない。三度みたび墨をらせる。

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