斑鳩寺を仰いで

 蝦夷えみしは、和慈古わじこを待たせておいて、奥の間の上座に坐り直すと、泊まりの客を呼び集める。阿倍麻呂臣あへノまろノおみ大伴鯨連おおともノくじらノむらじ巨勢大麻呂臣こせノおおまろノおみ、それに高向臣たかむくノおみ采女臣うねめノおみなどである。そして山背大兄王子やましろノおおえノみこの信書を示して、そのことばを詳しく聞かせておき、

なんじらには手数てかずをかけるが、国の大事であるゆえ、斑鳩宮いかるがノみやもうでて、このふみを届けられたい」

 として、懐に入れた手から、阿倍臣あへノおみへと、一通の封書を渡す。

(はて)

 と入鹿いるかは思う。いつの間に書いたものか、見ていない。

 大臣おおおみ田村王子たむらノみこを推すものと、山背大兄やましろノおおえに誤解されたので、その釈明の為の使いをするのだ、と考えたのは大麻呂おおまろである。うまい企て、占めたもの、阿倍あへ大伴おおともの爺ィなんぞは、この使いを受けてしまえば、知らぬ間に山背やましろ派へ引き込まれるというわけだ。

 斑鳩いかるがへは、豊浦とゆらからは、歩きにはちと遠い。阿倍臣あへノおみらは馬で行く。蝦夷えみしは騎馬の護衛を付けてもやり、北へ向かう一行を、入鹿いるかも見送った。


 斑鳩いかるがの地には、法号を法隆寺ほうりゅうじという伽藍がらんがあり、一般に斑鳩寺いかるがでらと呼ばれている。倭国やまとノくにの寺院としては、早い時期に建立こんりゅうされたもの一つであった。正式な伽藍がらん建築は、四十年ほど前、飛鳥寺あすかでらこと法興寺ほうこうじの起工に始まった。今は倭国やまとノくにを含む畿内諸国うちツくにに五十寺を数えるとはいえ、斑鳩寺いかるがでらほど立派なものは数が少ない。遠い異国の景色が突然に現れたような、新鮮な驚きを誰にでも与えているのである。

 斑鳩宮いかるがノみやは、そのすぐ東に在る。二十七年前、上宮太子かむつみやノみこが自ら建てさせ、その没後は山背大兄王子やましろノおおえノみこが相続した。みやと呼ばれるような建物も、高さや広さ、飾りの大きさ、木材の太さなどでは、他と差を付けているとはいえ、素朴な造りに民家との根本的な違いは無い。それだけがあったのがこの国なのであった。


 山背大兄王子やましろノおおえノみこは、朝方から寝殿しんでんこもったきり、午後になっても雨戸を閉ざしている。きさき舂米王女つきしねノみこと、弟の泊瀬仲王子はつせノなかツみこ、それに境部摩理勢臣さかいべノまりせノおみらは、

「必ずやきみくらいしろしめされます」

 と言って、しきりに励ましているのに、怏々おうおうとしているのが本人である。

 王位を継承する権利は、父が天王てんのうから認められていたものだ。我こそはそれを相続しているのだという確信は持っている。

「いつかいましくらいを譲るであろう」

 天王てんのうは父にそう言い続けた。

「いつかいましくらいを譲るであろう」

 とおおせられた天王てんのうの声を、父の後ろで聞いたことも一度ならずあった。

「いつかいましくらいを譲るであろう」

 そう何度も言われながら、父は太子あととりのままで死んだ。天王てんのうが己の権威を飾るのに、父はただ利用されたのだという思いがある。そのことを恨む気持ちも無くはない。だからこそ、その権利を行使したくもある。

 だがしかし、田村王子たむらノみこの顔でも見れば、泥臭い争いをしてまでも、栄誉を勝ち取りたいという意欲が、心の底からは湧いてこない。田村たむらは確かに自分には無いものを持っている。それはやはり、王族の血の濃さというものであろう。高貴さで山背やましろは負けるという評判も耳に入っていて、心をくじけさせる。

 それに晩年の父は、

しきことをばるな。きわざのみおこなえ」

 そう常々山背やましろら子どもに言い聞かせていた。人と争うなど如何いかがなものか。こちらが降りれば、何事も無く収まるではないか。

 そうあれこれと考えもしながら、

「必ずきみくらいしろしめされます」

 と励まし続けるきさきらに促されて、ようやく蝦夷えみしに真意をただふみを書かせたのであった。

 阿倍臣あへノおみらが来ても、山背やましろは表に出ない。和慈古わじこが取り次ぎをして、蝦夷えみしの返書が届けられる。山背やましろは物憂げにその封を切る。要点はこうである。

いやしきやっこが、何でひとりして易々やすやすおん跡継ぎのことを定め申し上げましょうや。ただ天王てんのうみやまいとこにて聞かせたまいしみことのりを、げて臣連おみむらじどもに告げましたのみにてさぶらう臣連おみむらじどもはみな、

 『みことのりの如くならば、田村王子たむらノみこおのずとおん跡継ぎに当たりたまう。さらに誰かなることやある』

 と申しました。これは皆々の述べましたことにて、とりわけやっこの心ならざる所にてさぶらう。ただやっこが心に思うことありといえども、おそれ多くて人伝ひとづてには述べまつるを得ず。どうかおん目通りをたまわれば、その日には申し上げたくさぶらう

 字は、蝦夷えみしの直筆と見える。これを、阿倍臣あへノおみはじめとする朝廷の重臣どもが、そろって持って来たのだ。もし蝦夷えみしに別の意見があるとしても、趨勢すうせいはもう固まったものとせねばなるまいと、山背やましろの胸の内は悄然しょうぜんとする。それでも摩理勢まりせなどが、

「事は天王てんのうみことのり如何いかんによりましょう。その所をよく確かめさせませ」

 と強く奨める。そう言われてもみれば、望みがあるとも思えるので、どうにかきもを据え直して、

天王てんのうついみことのりとか言うが、どうであったと知りおるのか」

 との問いを和慈古わじこに持たせて、表の間で待つ使いたちへ伝えさせる。山背やましろは、目をつむって待った。眠たいけれど、眠ることは出来ない。ややあって、和慈古わじこが戻る。阿倍臣あへノおみがこう答えたと云う。

やっこどもはその深きことは知りまつらず。ただ豊浦大臣とゆらノおおおみの語らう所を得るのみにて、それによれば、天王てんのうみやまいしたまう日に、田村王子たむらノみこみことのりしてのたまわく、

 『国のまつりごとは軽々しく言うことにはあらぬ。かれいましは慎みてこれを言え。おこたらむことまな

 と。次に大兄王子おおえノみこみことのりしてのたまわく、

 『いましきもおさない。しかしてとよく物言いすることまな。必ず臣連おみむらじどもの言うことに従うべし』

 と。これは近くさぶら諸々もろもろ王女ひめ采女うねめらがことごとく知れる所、また大兄おおえみことあきらかにする所である、とか」

 こう聞かされて、山背やましろはムッと眉の根を寄せた。天王てんのうの口ずから、この耳にたまわった言葉とは、やや違って伝わっているようなのだ。

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