忌みの明け方

 阿倍麻呂臣あへノまろノおみは、大伴鯨連おおともノくじらノむらじの顔に口を寄せて、何やら耳に吹き込んでいる。大伴連おおともノむらじは、大仰に周りを気にする風をして、

「宜しいのかな。かような場にて」

 と声を低くして返す。

「なに、どうせ間もなく明らかにされることだろうて」

 阿倍臣あへノおみは続ける。もう声を抑えもしない。

「先ほど豊浦大臣とゆらノおおおみに聞かされたことでは、天王てんのう御病みやまいしたまう日に……」

 

 ……その時、小治田天王おはりだノてんのうは、田村王子たむらノみこみことのりして、

「国を治めることは大きなるよさしである。もとより軽々しく言うことにはあらぬ。いましつつしみてこれをあきらかにせよ。おこたらむことまな

 と言った。

 次に、山背大兄王子やましろノおおえノみこみことのりして、

いましひとり物言いすることまな。必ず臣連おみむらじどもの言うことを聴きて、つつしみてたがうな」

 ……。


「……然々しかじかのたもうたとか。なればこれぞ天王てんのうの御遺言である。今いずれがきみたるべきだろうかな」

 阿倍臣あへノおみはこう語りつつ、それとなく場を見回す。誰も目を合わせない。再び見回す。大伴連おおともノむらじ欠伸あくびをしている。再三みたび見回す。誰も黙っている。下手なことを漏らせば、身のわざわいになるかもしれないのだ。ここに大伴連おおともノむらじが口を開く。

「全く天王てんのうおおせあるままならんのみ。更に臣連おみむらじどもの言うことを待つべくもあるまいて」

「何ということかな。そのこころを開かれよ」

天王てんのうは何と思おし召せばこそ、田村王子たむらノみこみことのりして、国を治めることは大きなるよさしである、おこたらむことまな、とはのたもうたか。これによりて申せば、きみくらいはもう定まっておる。どなたもなることは言われまいて」

 こう大伴連おおともノむらじが言い終わるのを待って、阿倍臣あへノおみがちらと見遣みやったのは、巨勢大麻呂臣こせノおおまろノおみである。巨勢こせ氏は、蘇我そが氏と同じく武内宿禰たけしうちノすくね後裔こうえいを称する一族で、名があらわれたのは百年ほど前に過ぎない。

(この朽ちた古株どもめ)

 というむっとした顔を巨勢臣こせノおみは向け返す。何とまあ、ろくに勢力もないのに、ふるさだけを誇っていることか。この王位継承の機会に、こやつらをへこませてやりたいものだと、大麻呂おおまろは欲を起こす。

 そこで、

大伴連おおともノむらじの言われた通りで、何もなることは思いおきはべりませぬ」

 と言ったのは、采女臣うねめノおみ摩礼志まれしである。采女臣うねめノおみは、物部連もののべノむらじと同祖に出ると称し、やはり由緒を誇る氏族であった。采女臣うねめノおみが口を開くのに促されて、高向臣たかむくノおみ宇摩うま中臣連なかとみノむらじ弥気子みけこ難波吉士なにわノきし身刺むざしも、大伴連おおともノむらじに賛成する。この中で高向臣たかむくノおみというのは、蘇我臣そがノおみ巨勢臣こせノおみと同じく、武内宿禰たけしうちノすくねに出たとする者で、大麻呂おおまろにとっては仲間であるべき人であった。

 大麻呂おおまろは、酔った頭にかっと来て、いきどおりに口をかせる。

「何でそのくらいのいましめごとをおおせられたのみで、おん跡取りが定められたことになろう。山背大兄王子やましろノおおえノみここそ、上宮太子かむつみやノみこおんむすことして、まさにきみとましますべし」

 この巨勢臣こせノおみの意見に賛成した二人は、佐伯連さえきノむらじ東人あずまひと紀臣きノおみ塩手しおてである。豊浦大臣とゆらノおおおみもまた、血縁の深い山背大兄やましろノおおえを支持するものと、三人は信じている。

 大伴連おおともノむらじは、その声を聞くとも聞かぬとも付かない容子で、ただ眠そうな顔をしている。入鹿いるかの目には、ふっと鼻で笑ったようにも見えた。阿倍臣おへノおみは何も言わずにいるから、大伴連おおともノむらじに賛同しているらしい。

 両氏に対して少しも手応えが得られないので、大麻呂おおまろはやや不安になった。そこで大臣おおおみは何かおおせあらぬかと思ってみても、この座敷の中には姿が無い。蘇我そが一族の長老たる摩理勢臣まりせノおみもいない。大臣おおおみの弟である倉麻呂くらまろも、

やつかれは今ただちに物を申すわけには参らぬ」

 と言ったきりで口をつぐむ。誰も自由に物は言えないのだ。発言は全て、己が属するうじの利益を代表せねばならない。入鹿いるかも隣で叔父おじが黙っている以上は、若輩じゃくはいが私見を述べることは許されないので、ただくちびるを噛んでいる。巨勢臣こせノおみも二の句を継げなくて、残り少ない酒を苦々しく舐めている。

 場がしんと静まりかえる。

 そこに蝦夷えみしが戻って、この席のおわりを告げる。

(隣の間で、今の話を窺っていたのだな)

 入鹿いるかはそう勘付いた。父の考えを尋ねたいが、そのいとまが見付けられない。客たちは、帰るので馬を引かせる者もあれば、蝦夷えみし

「お疲れであれば、休んで行かれよ」

 と勧めるのに従って床を借りる者もある。入鹿いるかもしばし眠ることにした。

 

 入鹿いるかはこの日に、人は眠っている間も考え事が出来るものだと知った。夢に田村王子たむらノみこかげを見る。純血の王族らしい、一目で尊さを感じさせる容姿。その一歩後ろには、妃の宝王女たからノみこが控える。田村たむら以上に王族の血が濃く、人に秀でた女性である。この二人が内裏だいりに並べば、さぞ美しかろうことは、間違いなく思われる。

 山背大兄王子やましろノおおえノみこが、田村たむらと向き合って立つ。入鹿いるかには親しみのある従兄いとこであるだけ、それほどの目映まばゆさは感じない。だからこそ大兄おおえを立ててわがきみとしたいのだ。それが蘇我そが一族の地位にとっても有利であるはずだ。父もそう考えているだろう。そうであらねばなるまい。


 短いねむりからめると、陽は晩秋なりに高く昇り、父の呼び出しを婢女はしためが告げる。父は表の間に、いつも崩さぬ姿勢を、いつもながらに整えて、どっしと坐っている。だが常とは違って、下座に席を取っている。父は、

「そこに居よ。もうすぐ斑鳩宮いかるがノみやよりの使いが来ようから」

 と言う。斑鳩宮いかるがノみやとは、上宮太子かむつみやノみこ居処すまいだった所で、山背大兄やましろノおおえが今はその主人になっている。それがなぜお判りになるのか、とくと、

「人はむを得ずして動くものだ」

 と答えがある。入鹿いるかがその意味をよく呑み込めずに、声の響きだけを反芻している間に、果たして山背大兄王子やましろノおおえノみこの使いとして、桜井臣さくらいノおみ和慈古わじこが現れた。桜井臣さくらいノおみというのは、蘇我臣そがノおみの眷属で、和慈古わじこ蝦夷えみし従兄弟いとこに当たる。

 蝦夷えみしは、上座に和慈古わじこしょうじ入れた。山背大兄やましろノおおえの私信だとして、一通の封書が渡される。その中から一片の便箋が開かれて、読んでおけよと入鹿にも示される。それにはこう書いてあった。

つてに聞くに、叔父おじどのは、田村王子たむらノみこもちきみとせんと思おすとか。このことを聞き及びては、立ちて思い、居て思えども、未だその理由ことわりを得ませぬ。願わくは、分明わきわき叔父おじどののこころを知らせたまえ」

 入鹿いるかには、その字の書き癖に見憶えがあった。この文は、摩理勢まりせが代筆をしたものだと知れた。

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