葬喪の夜

 蘇我入鹿臣そがノいるかノおみは、蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみむすこであり、馬子うまこの孫、稲目いなめ曾孫ひまごに当たる。

「火葬をもちてわが君にたてまつらせられぬとは、心苦しきことよ」

 と、父は嘆きささやく。

 小治田天王おはりだノてんのうの棺は、秋九月二十四日、竹田王子たけだノみこながの眠りにく所に、あわせ納められることとなって、その式典には王侯貴族がこぞってかおを連ね、入鹿いるかも時の大臣おおおみの跡取りとして、その列に加わっている。

 竹田王子たけだノみこはかは、小さいものであった。うじの長老どもの中には、倭国やまとノくにの王者の塋封おくツきとしては、仮の埋葬という名目であるにもせよ、とても相応ふさわしくない、という思いを口にする者もあった。

 入鹿いるかには、そうした見方は古臭いものである。

 仏教をおこすには、その教えを行う人である僧侶と、行う場所である伽藍がらんすなわち寺というものが必要である。その建築の為に海の外から、それまでは無かった技法が取り入れられた。うろこなすかわら屋根、精巧で神妙な装飾、天を舎利しゃり塔。その威容を見れば、この国の古い墳墓ふんぼなどは、ただ大きさを誇るだけ、何一つとして良い所がない、旧弊きゅうへいの象徴と思えるのだ。

 遺骸なきがらは焼いて骨だけにし、小さい墓に納めるというのが、入鹿いるかたち仏教派の理想なのである。それには幼くして没した王子みこみささぎでも大きすぎる。しかし火葬はまだ出来ていない。そこには固陋ころうな慣習という壁がある。天王てんのうの治世に、伽藍がらん僧尼そうには大いに増えたりとはいえ、礼式や行事の様々な面には、まだまだ仏教化が及んではいない。

 父のそばには、叔父おじ雄当おまさあざな倉麻呂くらまろが従っている。もう一人、蘇我そが一族の長老で、没した祖父の弟である、境部摩理勢臣さかいべノまりせノおみという人は、先ほど挨拶あいさつをしたきりで、いつのまにか姿を見ない。それはさておき、入鹿いるかは一人の王族を目で捜す。

 山背大兄王子やましろノおおえノみこだ。その父は聖徳法王しょうとくほうおうたたえられた厩戸王子うまやとノみこまたの名は上宮太子かむつみやノみこと、母は刀自古郎女とじこノいらつめという。刀自古とじこは、入鹿いるかには姑母おばに当たる。祖父の橘王たちばなノおおきみの母は堅塩媛きたしひめ、祖母の穴穂部間人王女あなほべノはしひとノみこの母は小姉君おあねノきみといい、どちらも入鹿いるかの曾祖父である稲目いなめむすめであった。入鹿いるかからは十歳ほど年上の従兄いとこになるが、幼い頃から互いに兄とも慕い弟とも愛でる仲なのである。

 かつて上宮太子かむつみやノみこは、天王てんのうによって王位を約束されながら、譲られぬままで他界したのであった。それで父親の持っていた王位継承権が、山背大兄やましろノおおえに相続されているのだと、入鹿いるかは思っているし、世の中にもそう考えている人は多いはずなのだ。

 入鹿いるかは、やがて山背大兄やましろノおおえ国君こっくんとなり、わが身は大臣おおおみを継いで政治をたすける日を、昔から想い描いている。今やその時は近いのだ。大兄おおえの表情にも、緊張の色が見える。この葬喪そうそうの礼がおわれば、王座をねらう相手と向き合わねばならない。もう一人の有力候補は、田村王子たむらノみこという人である。

 田村王子たむらノみこは、押坂大兄王子おしさかノおおえノみこむすこであり、他田王おさだノおおきみの孫である。父押坂大兄おしさかノおおえは、名君のうつわとして期待されながら、若くして世を去ったのであった。それで、田村たむらにも王位を要求する権利があるというのも、無視の出来ない意見ではある。入鹿いるかは、田村たむらをあまりこころよく思ってはいない。その訳は、入鹿いるか姑母おばである法堤郎媛ほほてノいらつめを、もう十数年も前にきさきとしていながら、この三年ほど前になってにわかに、宝王女たからノみこれて正妃むかいめとしたからでもある。

 貴族たちの多くは、どちらに転んでも良いようにと、いずれの王子みこへも恭々うやうやしく挨拶あいさつをする。天王てんのう臨終りんじゅうきわに、二人を召した時、何か遺言をしたであろうとは、誰もが推し測っていたが、その内容はまだ知られていない。

 葬喪そうそうの地は、天王てんのう居処きょしょとしたことのある、豊浦宮とゆらノみやにほど近い。蝦夷えみしの屋敷も、その豊浦とゆらと呼ばれる一帯の中に在る。それで豊浦大臣とゆらノおおおみというのが、蝦夷えみしの通称になっている。儀式がすっかり済むと、蝦夷えみしはこの豊浦とゆらの屋敷に、おみむらじどもを招いて、さけさかなをふるまう。死にまつわるけがれを、家々に持ち帰らぬように、神酒みきんではらい清めるというのが、こんな席の建前たてまえにはなる。

 招かれた貴族たちは、きっと豊浦大臣とゆらノおおおみの口から、王位のことについて、何か言葉がありそうなものだと、予想はしていながらも、知らぬかおを作りつつ、ちびちびとさかずきを傾けている。酒の席とはいいながら、これほど気遣わしい場もない。特に耳をかれるのは、由緒の正しい名族とされる人の口である。

 古くからその名を知られた、阿倍あへ大伴おおともなどいう氏族は、三百年ほど前に倭国やまとノくにに君臨した古王家の庶流しょりゅうを称し、今では勢力が衰えたりとはいえ、明法家みょうぼうかとしてなお隠然たる権威をたもっている。

 法律といえば、天王てんのうの治世第十二年に発布された、十七条の憲法というものが、この国ではただ一つの、文字にあらわされたものであった。さりながらこれは、大まかな理念を定めてあるのみで、ほとんどの実際の場合にいては、伝統的な不文律がなお有効なのである。こうした慣習法によって判断をするには、先例を十分に知らなければならない。うじの伝統が古ければ古いほど、その知識を多く蓄えているものとされている。

 そうしたうじの長者が言うことともなれば、王位継承の行方を左右することにもなろうと、誰もが酒に酔いきれずにいる。

 こんな席は、ゆるゆると続けて夜を明かすのが、世の習わしになっている。途中で庭に出て散歩をしたり、とこを借りて一時ひとときの休みを取ることもある。王族が席を敷いて集う豊浦宮とゆらノみやとの間を、幾度いくたび往復ゆききする者さえある。

 入鹿いるかはほぼ自分の席にいたままで、人々が出入りするのを観ていた。父は主宰しゅさいとして忙しく立ち回り、落ち着くことが少ない。叔父おじ入鹿いるかと同じように過ごしている。摩理勢まりせの姿はいつからか見ていない。

 朝の匂いが漂い始める頃には、どの酒樽さかだるされて、気怠けだるさがいびきかなでを誘いもする。

 かわやにでも立っていたという風をして、のそのそと席に戻ってきたのは、阿倍麻呂臣あへノまろノおみという人である。隣の席には、大伴鯨連おおともノくじらノむらじという人が、脇息わきやすめに肘を突いて、こくこくと居眠りをしている。

「のう、大伴連おおともノむらじや」

 と、阿倍臣あへノおみが相手の肩を揺すって、話ありげに声を掛けたので、場の人々ははっと聞き耳を立てた。

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