斑鳩寺に血は流れず

敲達咖哪

女帝の風韻

 かつて倭国やまとノくにという所に、炊屋姫尊かしきやひめノみことという王女みこがあった。生まれつき容姿かおかたちは麗しく、挙措たちいは礼に適い、十八歳にして他田王おさだノおおきみ正妃むかいめとなった。三十四歳にして、他田王おさだノおおきみは没して、それから五年の間に、橘王たちばなノおおきみ泊瀬部王はつせべノおおきみという、二人の兄弟が倭王やまとおうとなったけれども、その在位は咲く花の短きが如くして、いずれも長らえることなく、死によって迎えられたのであった。

 この時に当たって、王者の資格ある兄弟はなく、子どもの世代もまだ未熟であったので、炊屋姫尊かしきやひめノみことが立って王となり、蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみ上宮太子かむつみやノみこがこれをたすけた。炊屋姫尊かしきやひめノみことは、広く海外を風靡せる仏の教えを崇めて、その外護者を以て自ら任じた。

 仏教は、すでにこれより五十年近く前、父なる広庭王ひろにわノおおきみの世に、百済王くだらおうより金銅こんどうの仏像や法具が贈られたことがあった。しかし物部大連もののべノおおむらじはじめとして、大夫どもはみな異国の神なりとして、海へ流し去ろうとした。ただ蘇我稲目大臣そがノいなめノおおおみだけが、その仏像をけてわたくしにこれに祭りをした。稲目いなめが死んで、むすこ馬子うまこが跡を継ぐと、父の遺風を尊んで、仏の教えを重んじたけれども、他に信じるものは少なく、こののりはほとほと亡びようとしていた。

 炊屋姫尊かしきやひめノみことは、母は堅塩媛きたしひめといい稲目いなめむすめであって、馬子うまこ舅父おじに当たった。それで仏教の価値は早くから知っていた。治世第二年には、仏の教えを興しさかえしめよと布令して、自ら天王てんのうと称した。天王てんのうとは、天上に在って仏の法を守護する神であり、また経典を奉じる人間界の国王をも、それになぞらえてそう呼ぶのであった。治世の第十一年に、豊浦宮とゆらノみやから小治田宮おはりだノみやに遷ると、その名を取って、小治田天王おはりだノてんのうと呼ばれるようになった。

 第十二年には、十七条の憲法を上宮太子かむつみやノみこに起草させたが、その第二条にはこうある。

  ――二にいわく、あつ三宝さんぽううやまえ。三宝とは、みほとけみのりほうしなりて、すなわ四生しせい終帰しゅうきするところ、万国ばんこく極宗きょくそうたるものなり。いずれの世にかいずれの人にか、こののりを貴ばざらむや。人にはいと悪しきものはすくなく、よく教うれば従うものなり。それ三宝にらずば、何をてかまがれるものをたださむか。

 その二十年後までに、寺は四十六ヶ所に建ち、僧侶は八百十六人、尼僧は五百六十九人、あわせて一千三百八十五人にまで増えていた。諸国の領主どもにあっても、天王てんのうの徳を慕い、伝国の神器を喜捨もして、仏法の利益りやくを求め、誓盟する者は六十余ヶ国に及んだ。

 その治世第三十六年は、とう太宗たいそう貞観じょうがん二年、高麗国こまノくに栄留王ようるおうの第十一年、百済国くだらノくに武王むおうの第二十九年、新羅国しらきノくに真平王しんびょうおうの第五十年に当たる。

 この年の春二月二十七日、七十五歳の天王てんのうやまいした。三月二日、雲もないのに日が欠け尽きることがあり、吉ならざる時が来るぞと、あまねく人々に知らしめた。日が再びまばゆい光を放ち始めた頃、王宮の奥よりおみむらじどものはべる朝堂に、天王てんのうみことのりが伝えられる。

幾歳いくとせこめあわみのわろきことあり、みな大きにう。いまが為につかて厚くはぶることまな。かりそめに竹田王子たけだノみこはかはぶるべし」

 竹田王子たけだノみことは、天王てんのうの一子で、幼くして命を失ったので、今は昔の人になっていたのであった。その墓に棺を埋めよというので、主君のやまいの避けるベからざることが知られた。貴族であれば、表情をつくろうのが得意なもので、沈痛な面持ちを装いながら、誰が次の国君となるべきか、誰に取り入れば身の為になるかを、みなとくと思慮している。

 跡継ぎはどの王子みこになるのか、指名されていないのである。

 この女帝が自ら生んだ王子みこは、誰といい夭折ようせつして、もう現世げんせにない。かつて将来を約束された、甥に当たった上宮太子かむつみやノみこも、もう六年ほど前に先発さきだっていた。他の王族の中から、年齢、資質、血統などを量度りょうたくすれば、候補は絞られるとはいえ、甲乙を付けがたい幾人かが考えられる。天王てんのうが命のるうちに、名を挙げてくれるかどうかが、津々しんしんと気遣われるのである。

 そわそわとした数日が過ぎて、三月六日、蘇我蝦夷大臣そがノえみしノおおおみが召されて、禁裏きんり寝殿しんでんに通される。蝦夷えみし馬子うまこむすこで、没した父の位を継いで三年目になる。蝦夷えみしと入れ替わりに、宝王女たからノみこが出て来て、次の間に控える。その腕の内には、まだ一歳の大海人王子おおしあまノみこが眠っている。大海人おおしあま王女みこの第三子で、上には葛城王子かづらきノみこ間人王女はしひとノみこが育っている。蝦夷えみし天王てんのうの口ずから、その叡慮えいりょを確かに聞きけると、退がって宝王女たからノみこのそばに伏せ、しんと耳を澄ませる。

 次に、田村王子たむらノみこが召される。田村たむらの父は押坂大兄王子おしさかノおおえノみこ、母は糠手姫王女あらてひめノみこで、押坂おしさか他田王おさだノおおきみと前の正妃むかいめ広姫ひろひめの子であり、母も他田王おさだノおおきみ采女うねめ兎名子うなこむすめであった。宝王女たからノみこ田村たむらの妃で、やはり他田王おさだノおおきみ曾孫ひまごであり、王族の血が濃い一家を成している。

 田村たむら退がると、続けて、山背大兄王子やましろノおおえノみこが召される。山背やましろは、上宮太子かむつみやノみこむすこであり、橘王たちばなノおおきみの孫である。母は刀自古郎女とじこノいらつめといい、母方の祖父は馬子うまこであり、今や唯一の大貴族となった蘇我そが氏との縁が深い。

 田村たむらも、山背やましろも、天王てんのうの口ずから何事かを言い含められて、還り行く時には、哀しいのか、嬉しいのか、ないまぜのような、難しい顔をするのを、蝦夷えみしはちらと確かめた。

 一夜を越して、三月七日である。

 天王てんのうは遠く現世げんせを去り、六道ろくどう輪廻りんねに帰った。倭国やまとノくにの王者として初めて仏教興隆を導き、これまでにない発展をもたらした偉大な女帝を、人々はうしなったのである。

 即日、もがりは王宮の庭に営まれる。

「わが君は天上に転生てんしょうなさり、まこと天王てんのうとなられるであろう」

 と蝦夷えみしは、むすこ入鹿いるかった。

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