いかなる時もあわてない
人里から離れたところで日暮れを迎えた侍は、古い社の拝殿で夜を過ごすことにした。
すると真夜中に、赤子を抱いた若い女が姿を見せた。
女が来る場所でも時間でもないので、ばけものにちがいなかった。
侍が用心をしていると、女が笑いながら「お父さまのところへお行きなさい」と赤子を侍に向けた。
赤子はするすると侍に近づいたが、彼が刀に手をかけながらにらんだので、母親のもとへ戻った。
それを「大丈夫ですよ、お行きなさい」とまた母親が突き出した。
しかし赤子は侍に再度にらまれ、もう一度母親のところへ帰った。
このやりとりが何度か繰り返されあげく、「それならば」と女がふいに近づいて来たので、侍はひるまずに斬った。
すると女は一声を上げたのち、四つんばいで壁を伝って天井裏へ逃げた。
夜が明けたあとで侍が天井裏をのぞいてみると、人の死骸に紛れて、大きなクモが事切れていた。
見ると頭から背中にかけて刀傷があったが、それよりも赤子である。
クモに食われた誰かの忘れ形見であろうか。
しかし侍が天井裏を探してみても、赤子は見つからなかった。
代わりに侍の目に留まったのは、転がっている小さな墓石であった。
ところどころにある刀傷を証拠に、その石が赤子の正体に思えた。
赤子をばけものと思い墓石を斬ってしまい、刀が折れ刃がかけたところをクモが取りつく。
ばけものながらうまいやり方ではなかろうか。
参照:高田衛編「江戸怪談集上」の宿直草『急なるときも、思案あるべき事』
面白い話。原文は緊張感があり、リズムも良い。五輪を墓石と訳した。
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