10-3 入ってこいって言われたから
最上階に到着すると、ほのかに光が漏れてくる先の部屋に人の気配を感じる。ぼそぼそと話し声も聞こえるので間違いない。
「竹本さん、借用者を渡してください」
柏葉の声がする。偽交渉の最終局面に間に合ったようだ。
「ほらよ」
三十代か四十代だろうか、男のしゃがれた声がする。この声が「中川組」幹部の竹本だろう。
ドアの近くまでそっと近づいてしゃがみ、突入のタイミングを計る。
「確かに受け取りました。これでもうあなた方とは無関係ですね」
「そうだなぁ、なんて言うと思ったか? おい! 入ってこい!」
竹本がひときわ大声で怒鳴った。おそらく部屋の外で待ち構えていたはずの部下達にだろう。だが彼らはすでに鈴木に無力化されている。
世記は笑いを殺しけれず、にやけながら部屋に入って行った。
元々は事務室だったのか、少し広めのがらんとした部屋だ。奥に柏葉、手前に男二人と座った状態のリュウがいる。明かりは部屋の対角線上に置いた二つの懐中電灯だ。
暴れるには問題なさそうな広さだが、懐中電灯が壊れると頼りは外からのわずかに差し込む街灯と、闘気の光のみになりそうだ。
「なんだおまえ」
先ほどから聞こえていたしわがれ声は、入り口付近に立つ世記の左前に立つ男だ。
「入ってこいって言われたから入ってきたんっすよ」
去年不良達に使った言葉遣いを再現してみる。自分でもちょっとウザいなと思った。
世記は肩をすくめて見せた。
「なるほど、援軍をつぶしたってことか」
「暴力団の言うことなんて、全部信用できるわけがないじゃないっすか。やっぱ予想通り借用書すんなり渡す気もないみたいだし。だったら――」
世記が語気を強めて軽く腰を落とす。
何か仕掛けてくるのかと男二人は完全に世記に注目した。
その隙に、眠ったふりのリュウが素早く立ち上がり、世記の横をすり抜けた。
「あ、……くそっ!」
暗がりでも判るぐらいに男達は怒りの表情をあらわにした。
してやったり。
リュウは廊下で待つ寿葉のそばに走った。
「おい、小僧。おまえは今の生活のままで満足なのか?」
男のしゃがれた声は廊下に向けられた。
「ボーリョクダンになるぐらいなら、しせつの方がマシ!」
リュウはご丁寧に「あっかんべー」までした。
男達が激昂するのではと世記はひそかに身構えたが、予想外なことに竹本は鼻で笑っていやらしく口元をゆがめた。
「小僧、おまえは『こっち側のもん』なんだぞ」
竹本が何を言いたいのか、リュウの境遇を聞いていた世記はすぐに判った。
「こんなヤツの言うことなんか聞くことない。早く――」
外に出ろ。
言いかけた世記を遮ってリュウは部屋に戻ってくる。彼の後ろに困惑顔の
「こっち側ってなんだよ。おれのことなんか知ってんのか」
自分の出自に関わる話だと敏感に察したのだろう。リュウは真剣そのものの顔だ。
そんな話は聞かなくてもいい。
のどまで出かかった言葉は、吐き出されることはなかった。
リュウが知りたがってるのに俺が止めてもいいのか?
世記の迷いが、竹本の話を促してしまった。
「おまえの父親はマフィアの男だ。“ストーム・オブ・フレイム”とかいう二つ名持ちのえれぇ
柏葉と寿葉、そして、リュウの息を呑む気配がはっきりと伝わってくる。
「父ちゃんが、マフィア……?」
大きく目を見開いて口も半開きのリュウの顔に、世記は彼らとは違った気持ちで息をつめた。
リュウは今何を思っているのか。
そればかりに気持ちが傾いていた。
なので反応が遅れてしまった。
竹本が闘気を解放した。今まで感じたことのないほどの圧倒的な力だ。
なんだ、この力。
……敵わない。
戦いというものに少しなりとも関わった者が感じる、どうしようもない力の差に、世記は戦慄した。
深緑のオーラに包まれた竹本がリュウに跳びかかり、腕を掴んで部屋の左手まで移動しても、世記は動けなかった。
入口付近に世記と寿葉、右手に柏葉、左に暴力団の二人とリュウ、という位置関係になった。
「いててて、はなせよ!」
リュウの悲鳴で世記は硬直から解かれた。といっても守るべき同志はすでに敵の手の中だ。
「手荒なことしないでっ」
「ふん、心配せんでもこいつは“金の卵”だ。必要以上に痛めつけたりせぇへん。おまえらがおとなしく引き上げるなら元の約束通り、あの女の借金はチャラにしてやる」
寿葉の切羽詰まった声に、どうだ? と竹本は歯をむき出してニヤリと笑う。
そんなことゆるせるはずがない。
しかし三人がかりで挑んでも勝てるかどうかわからない。
どうやってリュウを取り返せばいいんだ。
世記の頭の中で『どうすれば』がぐるぐると回る。
「リュウくんを放して」
パニックになりかけた世記の横に並び、寿葉が毅然と言い放った。
「放してと言われて放すアホがどこにおる。力ずくで取り返してみろ。俺に勝てると思うならなぁ」
竹本は余裕たっぷりだ。
悔しい。
なんとかリュウを取り返したい。
世記の中に闘志が湧き上がってきた。
「俺らの大事な仲間を、おまえらなんかに渡すかよ」
世記は闘気を解放した。赤く輝く闘気が体を包む。
が、竹本の闘気と比べると放出量が明らかに少ない。
「そんなちっぽけな力で俺らにかなうと思っとるんか」
竹本が笑った。
その時。
窓ガラスの一枚が派手な音を立てて割れた。柏葉のそばの窓だ。
黒い大きな塊が跳びこんでくる。
敵の新手かと世記は絶望した。
影が何かをこちらに向けた、と世記が認識した時には、バネ仕掛けの何かが作動した音が聞こえた。
「うっ?」
竹本が呻く。
「駄目ですよリュウくん。相手の挑発に乗らずにちゃんと計画通りに逃げておかないと」
この十日近くですっかり聞き慣れた男の声に世記は安堵の息を漏らした。
極めし者ではないはずの鈴木が現れただけで、なんだか頼もしい。
戦うすべを持たなくても彼ならきっと状況を打開してくれるはずと信じられたのだ。
世記のその信頼は、すぐに現実となる。
竹本の体を覆っていた闘気が急速に力をなくしたのだ。完全に消えたわけではないが、今の放出量なら世記と寿葉でも戦って勝てそうなほどだ。
「クソが。闘気を減らす
竹本の怨嗟に、そんなものまであるのかと世記は驚いた。
柏葉の隣に立つ長身の男、鈴木は無言でにやりと笑う。
「さぁ、形勢逆転ですよ竹本さん。その子にも、彼らにも、二度と手出しをしないと約束するなら今日この場でのことは不問にいたします」
だからリュウを放して立ち去れ、と鈴木の余裕めいた顔が言外に語る。
「……貴様、“セイ”か。六年前うちの事務所にかちこんできた。若や叔父貴をパクりよって。どこまで邪魔する気や」
「あなた方が何の罪もない大学生を監禁して殺害した当然の結果です」
世記達を挟んで十メートル弱、暴力団と諜報員が睨みあう。
六年前に鈴木――“セイ”というのはやはり偽名だろうか――と中川組の間で因縁があったようだ。中川組が大学生を拉致監禁して殺害したことで諜報組織が捜査に乗り出して、鈴木が事務所に乗り込み、若頭達を逮捕させた、という感じか。と世記は情報を整理する。
「今日のことは仕事やないやろ。罪滅ぼしのつもりか」
「あなたに償うことなどなにもありません」
「俺に対してやない」
竹本は鈴木からリュウに視線を移した。
「小僧! あの男はおまえの父親を殺したんやぞ!」
「……え」
リュウのか細い、困惑の声。
「“ストーム・オブ・フレイム”は日本に時々来とった。捜してるヤツがおったらしい。そいつを見つけられとうなくてあの男が殺したんや。なぁ、“セイ”?」
どうせ苦し紛れのたわごとだ。
世記はそう信じたかった。
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