陽炎の太刀(後)

 そして、三日が過ぎた。


 穏やかな眠りから覚めたミリアルデは、いつもと変わらぬ朝稽古の後、離れの井戸端で冷水を浴び、念入りに身を清めた。身体が曇れば剣も曇るというのがベルイマンの信条である。御前試合の前ともなれば、禊に力が入ってしまうのも無理からぬことであった。


「お嬢様。本日は、こちらをお召しください」


 水垢離を終えたミリアルデにイルザが差し出したのは、先日、湯屋に預けていたものではなく、美しい薔薇の刺繍が施された、真新しい衣装の一式であった。


 武器を執って戦場に立つ以上、常に落命の可能性を孕むのが兵法者というものだ。彼らは見苦しい死に様を晒すことをこの上ない恥としており、己が死に際を飾る武具や装束の意匠に並々ならぬこだわりを持っている。騎士が鎧や楯に紋様を彫ったり、傭兵が派手な色彩の衣を纏ったりするのが、その良い例であった。


 武人の端くれであるミリアルデにも、その風習は理解できる。これは、他流試合に臨む彼女のためにイルザが用意した晴着なのだ。


 されど。


「……イルザ、これはいささか派手じゃない?」


 ミリアルデは何か苦いものを噛み潰したような顔つきで、丁寧に折り畳まれている下着を広げた。上着と同様、鮮やかな薔薇の刺繍が施された、真っ白な透かし編みの下穿き。材質も綿ではなく高価な絹を用いているようだ。職人の技と情熱を感じさせる、ちょっとした芸術品である。


「そんなことはございません。武人にとって戦装束とは死装束。戦ではないにしろ、真剣を用いるからには万全を期さねばなりません」

「どんな万全よ……」

「目に見えないところにまで気を配るのが、真のお洒落というものです」

「……やっぱり、いつものやつでいいよ」

「いけません! 前々から申し上げたかったのですが、あの下着はお嬢様の魅力を非常に減じさせてしまいます!」

「なんでよ。可愛いじゃない、しましま」


 ミリアルデは唇を尖らせて反論する。


「あれは邪なのです! お嬢様があれをお召しになると、その、とてもあざといと申しますか、狙っていると申しましょうか……」

「は?」

「とにかく駄目です! 人生の晴れ舞台くらい、歳相応のものをお召しください!」

「……はい」


 イルザは断固として譲らず、ミリアルデは渡された衣装をしぶしぶ身につける。


(イルザって時々、訳の分からないことを言うのよね。透けてるほうが歳相応とでも?)


 両者の服飾に対する感性の食い違いはさておき、清潔な生地に素肌が包まれると、胸のうちが冴え渡り、気持ちが引き締まるようであった。


 ミリアルデは篭手と脛当てのみを装備し、防御の要たる胸甲鎧は纏わなかった。ベルイマンの家の剣術は、遡れば、防具を身に着けるという発想が生まれる以前から存在した流派だ。何が起こるか予測できない旅の道中は、万が一に備えて鎧を着込んでいたが、ここは危険が少ない人里、まして、これから行うのは第三者の邪魔の入らない決闘じみたものである。彼女本来の戦い方を行うには、鎧は文字通り重石でしかないのだ。


 着替えを終えると、塩で薄く味付けした粥で腹ごしらえをする。朝を抜いたほうが軽快に動けるという者もいるが、ミリアルデはきちんと食事を摂らないと力が出ない体質だ。もちろん、食べ過ぎれば動きも鈍るし、判断力も低下する。その上、満腹時に腹部に傷を負えば死亡率が格段に跳ね上がる。故に、彼女は日頃より腹六分を心がけていた。


 迎えの時刻になると、調整を終えたばかりの大小の太刀を革帯に挿して、イルザと供に旅籠を出た。


 軒先には、自警団の馬車が停まっている。


「お勤めご苦労」


 御者に挨拶して、二人は馬車に乗り込んだ。


 鞭の音が響き、ゆっくりと馬車が進み始める。馬の嘶きに驚いた鳥たちが朝焼けの空に飛び立っていった。


 客間に通されたミリアルデとイルザを、バーウェル伯爵は喜色満面の面持ちで迎えた。


「あの大悪党を討ち取った武人であるからには、さぞや名のある剛の者とは思ってはいたが、まさかベルイマン卿のご息女とは。早く申し出てくれれば、もてなしたものを」


 ミリアルデは恭しく頭を垂れた。


「有り難きお言葉。されど、そのようなもてなしは武者修行の身には過ぎるというもの。無礼を承知で、ご挨拶のほうは遠慮させていただきました。それに、悪を討つは騎士の務めにございます。礼には及びません」


 もっとも、まだ騎士の身分ではありませんが、と語尾に付け加える。


「さすがは、神代よりレスニアに仕えた一族。古の武人、エリムの末裔よ。その心意気、まことにあっぱれじゃ」


 バーウェル卿は膝を叩いてミリアルデの器量を喜んだ。

 ベルイマンは家格こそ男爵位と低いが、その血脈は数ある王国貴族の中でも最古のものである。


 レスニア王国が誕生する以前の時代を、俗に神代と呼ぶ。神代のレスニアの大地には、十を超える部族が存在していたが、農耕の発展期ということもあってか、耕作地の権利、飢饉、貧富の差など、様々な理由から諍いが絶えなかったという。


 混乱の大地を平定し、一つの国家として纏め上げたのが初代レスニア王であるが、彼に付き従った十二人の武人の一人が、ミリアルデの祖たるベルイマンなのであった。


 ベルイマンはエリムと呼ばれる部族の出身である。製鉄を司る神秘の一族であり、彼らの在り方は当時から騎士としてのそれに通じていた。類稀なる剣術でレスニア王の危機を救い、建国後も変わらぬ忠誠を尽くしたという。


「それに比べて、我が領地を守る自警団はどうにも情けない。たかが賊一匹に振り回されおって。ここは一つ、古の剣術で活を入れてやってはくれまいか」

「私の拙い技でよければ、ご披露いたします」

「うむ。よく言ってくれた。ベルナをここに!」


 バーウェル卿の言葉に、後ろに控えていた侍女が音もなく動いた。


「失礼いたします」


 暫くして客間に通されたのは、ミリアルデとそう年頃の変わらぬ少女であった。


 上背が高く、女性にしてはかなりの長身だ。腕や太股も逞しく、がっちりしているのが見て取れる。女流の戦士としては恵まれた体躯をしていると言えるだろう。ミリアルデはなかなかの手練だと直感した。


「こやつは自警団の若手の中では、最も優秀な討ち手でな。名をベルナという」

「お初にお目にかかります。私の名はベルナ。貴殿が討った賊が振るっていた大身槍は、私の失態で奪われたものです。取り戻していただいたこと、礼を言わせていただきます。危うく、領民の血税で賜った槍が、守るべき彼らの命を奪うところでありました」

「あなたほどの力量の武芸者が後れを取るなんて、どうやら、あのガラフって奴の口上は的外れではなかったということね。私が勝てたのは、小娘と油断していたからでしょう」

「ご謙遜を。そもそも、詭道は兵法の基本ではありませんか」

「別に好きで騙しているわけじゃないんだけどね」


 ミリアルデは苦笑した。とはいえ、騙されるのも無理はない。彼女は女性の中でも小柄なほうであり、いくら鍛えようが、今以上に腕も足も太くならない。武芸に精通した人間ならば呼吸や足運びから彼女の技量を察するだろうが、さもなくば一瞥して戦士と見抜くのは難しいだろう。女戦士といえば、ベルナのようないでたちを想像するのが一般的だ。


「挨拶は済んだようだな。では、中庭に出るとしよう。今日のために会場の準備をさせているのでな」


 ミリアルデたちは連れだって中庭に出た。青々とした芝生が生えそろい、あちこちに春の花々が咲き乱れ、ちょっとした池まで備わっている。立ち会いの舞台になるであろう、少し開けた場所に自警団の関係者や家中の面々が人垣を作り、彼女の到着を待っていた。


 その中に、ミリアルデを伯爵の言葉を伝えに来た無精髭の男を見つけた。目が合うと、お互いに会釈を交わす。公の席だからだろうか、その腕には先日はなかった隊長を表す腕章が巻かれている。只者ではないと思っていたが、隊長格とは。


 ミリアルデとベルナは五間の距離を取って、座して控えた。


 すかさず、イルザが太刀をミリアルデの左脇へ運ぶ。


 ベルナも両脇に得物を伏して置いていた。小剣と円楯。どうやら、典型的な王国剣術の使い手のようだ。


 ミリアルデは眉をひそめる。


「あの槍じゃなくていいの?」

「はい。確かに、あの槍は私の手元に戻ってきました。ですが、まだ私には、あの槍を手に執る資格はありません。ガラフを倒したあなたを打ち負かさない限り」


 自分の手による奪還が叶わなかったことを気にしているのだろう。ミリアルデの碧眼に楽しげな光が宿る。そういう強気な相手は嫌いではないのだ。


「そう。なら、その資格とやらを奪い返して見せなさい」

「そうさせてもらいましょう」


 側で控えていた検分役が、鐘を片手に腰を上げた。


「それでは、はじめ!」


 鐘が鳴る。

 立ち上がると同時にミリアルデは抜刀、火の構えを取る。


 それに対して、ベルナは右半身を引き、楯を前に突き出す形で構えた。


 上段の構えから繰り出される斬撃は高い威力を備えるが、その分、太刀筋が限定され、防御がおろそかになる。初撃を楯で躱し、その隙を突いて斬り返せばいい。ベルナはそう考え、間合いを詰めるべく、一歩踏み出した。


 その時だ。


 ベルナは目を疑った。上段に構えるミリアルデの姿が、まるで陽炎のように揺らめき、結像しないのだ。姿を捉えようと目を凝らせば凝らすほど、気配が大気に溶け込んでいくかのように希薄になっていく。


 馬鹿な、そんなことがありえるのか。


 ベルナは激しく動揺した。そして、そんな彼の内心を嘲うかのように、ミリアルデは、忽然とその姿を消した。


「なにっ」


 ベルナの驚愕が口に出た。混戦ならいざ知らず、一対一の状況で、目の前にいるはずの相手を見失った。こんなことがありえるのか。ありえるとしたら、どんな仕掛けが――


「そこまで!」


 検分役の声に、はっと息を呑んだベルナ。


 その喉元には、ミリアルデの太刀の切っ先が突きつけられていた。



 +++



「まったく情けない。何という様か。よもや一太刀も交えることなく、敗北しようとは」


 試合の結果に、バーウェル卿は失望も露わに口を開いた。


 再び通された客間にはミリアルデとイルザ、ベルナ、その上司である無精髭の男が伯爵を面前に控えている。


「面目次第もございません」


 ベルナは深々と頭をたれた。


「隊長、そちも部隊を預かる身として、何か言うことがあるか?」


 矛先を向けられ、無精髭の男は困ったように頭を掻く。


「いや、残念な結果でありましたな。とはいえ、うちのベルナが、ただ棒立ちして負けることはありますまい。言い分を聞いてみてもいいのでは?」

「……ふむ。ベルナ、面を上げよ。何か申し開きがあるなら、言ってみるがいい」

「……恐れながら。自分でも信じられませぬが、試合の最中、ミリアルデ殿がまるで陽炎のように忽然と消えたのでございます。目を凝らせば凝らすほど姿が霞んでゆき、やがては見えなくなったのです」


 ベルナの言葉にバーウェル卿は声を荒げた。


「そんな馬鹿なことがあるかっ。現に、わしの目には、ミリアルデ殿ははっきりと映っておったぞ。言い訳なら、もっとましな言い訳をしたらどうだ」

「……いや、ただの世迷言ではないかもしれません」


 無精髭をさすっていた隊長が、伯爵の叱責を遮った。


「剣の極地とは自然との合一と言います。極限まで研ぎ澄まされ、大気に溶け込んだミリアルデ嬢の気配が、ベルナの知覚を狂わせた、とも考えられます。太刀を構えた彼女は、対峙する者の目には風景の一部に映ったのでしょう」

「……ほう、まことか?」


 伯爵は興味が湧いたのか、穏やかに問い返す。


「まあ、ただの勘ですがね」

「では、当人に問うてみるとしよう。ミリアルデ殿、あれは何と言う秘剣じゃ?」

「先程の技は、そちらの隊長殿が仰ったとおりです。剣を通じて己を森羅の一部と化し、相対する者の視覚を欺く構えにございます。特に名前などありませんが、皆様がそう仰られるのであれば、陽炎の太刀とでも名付けましょうか」


 ミリアルデが甲冑を纏わなかった理由の一つは、この太刀を繰り出すためにある。加工された金属は自然界には在らざるもの。鎧は森羅合一を果たすのに不都合なのだ。


 バーウェル伯爵は感じ入ったように何度も頷いた。


「ふうむ。陽炎の太刀、か。見事なものじゃ。是非ともヴェラスに滞在し、我が家臣に、ベルイマンの剣法を伝授してやってはくれまいか」

「有り難いお言葉、恐縮です。されど、私には向かうべき場所がございます。そこへ辿り着くまでは、一所には留まらぬと決めておるのです」

「ほう、それはどこじゃ?」

「アシュランでございます」


 アシュランとはレスニア王国の西の果て、レイガンド地方の行政都市のことだ。国境を擁する僻地であるため、辺境都市との呼び名が高い。


「アシュランにはかの有名な闘技場がございます。そこで開かれる武芸大会で、未だ合間見えぬ強敵と戦い、腕を競い合いたいのです」

「なるほどな。そう言われては、留めおくわけにはいかん。そなたの剣は、いずれはこの国の至宝となるであろう。いまは、己が求める戦場に赴き、存分に腕を磨きたまえ」

「はっ。ありがとうございます」


 その後、ミリアルデはバーウェル伯よりもてなしを受け、更に三日ほど滞在したのち、ヴェラスを後にした。


 若き剣聖は、今日も従者と供にレスニアの空の下を漂流していく。


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少女剣聖伝 -外伝- 白武士道 @shiratakeshidou

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