「おはよう」


リビングで顔を合わせると、おばさんは朗らかに言った。


「おはようございます」

「今、ミルクを淹れますからね。ソファーで寛いでいてちょうだい」


僕は言われた通り、リビングの真ん中にぽつんと置かれた真っ白いソファーに腰掛ける。

隣には先客がいた。肩にかかるほどの髪を一つに束ねて、少しやつれた顔の女性だ。


「おはようございます」


僕は彼女にも丁寧に挨拶する。

すると女は僕に厳しい目を向けて、ふん、と鼻であしらった。


「おはよう、ですって?ずいぶん間抜けな顔ね、あの人に生き写し。見るだけで吐き気がするわ」

「父さんのこと?」

「そうよ。本当に、今までどうやって生きてきたのか分からないくらい腑抜けた人だったわね。あんな人、死んで当然だわ。あんたもきっと、ろくでなしなんでしょ」


僕はオフホワイトの壁を見つめる。僕と女の影が、行儀よく並んでこっちを見ていた。


「ねえ。あんた、あっちに座ってくれない?あの人の血が流れてるなんてね、気持ちが悪くてしょうがないのよ。自分勝手で、強情で、そのくせ甘えてばっかり。いつまでたっても子どものまんまの、あいつの血よ。虫唾が走る。分かる?あんたもいつかそうなるというわけ。その体ん中の血をそっくり全部入れ替えるまでね」

「そんなの出来ないよ」

「そうよ、出来ないのよ。だからあんたはあいつと同じなの。かわいそうな子。私にこんなこと言われて。辛いでしょう?」


女はケタケタ笑った。つり上がった目が妖怪のようだ。こんなにお喋りなのに、影の方の女は、つんと気取って僕を見返してくる。


不意に女の声が遠くなった。

頭がぼんやりとして、電話台に置いてある花を活けたガラス製の花瓶が、光に透けて虹色に輝くのに魅入られたようになる。


「かわいそうな子。だあれにも愛されない、一人ぼっちのちっちゃな坊や。かわいそうにね」


――僕の影。君の気持ちはよく分かるよっていう風に、僕に向けて、こくんと一つ、頷いた。君の右腕がそろそろっと伸びて、電話台の上の花瓶を優しく撫でる。僕たちは見つめ合った。それだけで君が何を考えてるか、僕が何を考えてるか、完璧に分かり合えたと思う。


君の手が花瓶を引っ掴む。ガラスの中の水が大きくたゆたって、床に花びらが散った。


「かわいそう、かわいそう」


女はまだ笑っていた。心底おかしそうに、喉の奥から引きつれた声を出す。


「あんたは本当に――」


君は花瓶を頭上に掲げて、女の影にそれを振り下ろした。

女の影が大きく傾ぐ。君は何度も花瓶を振る。二回、三回。四回、五回。とうとう女の影は床に崩れ落ちる。女の手がふらふら宙を彷徨ってもなお、君は滅茶苦茶に花瓶を振って、手当たり次第殴りつけた。


ソファーが血で汚れる。女の笑い声が耳にこびりついている。ソファーをなぎ倒すと、女の体が床に転がった。花瓶が派手な音を立てて割れ、カーペットに染みを作る。



「どうしたの」


飛んできたおばさんは、転がったソファーと、花瓶の残骸を見て顔を青くした。


「何しているの?」


笑いすぎて小刻みに震えている女の体を指差すと、壁に映った君も同じように女を指差す。


「母さんが」

「何ですって?」

「母さんが、そこに」


おばさんは絶句し、ぽかんと僕を見つめる。

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かげぼうし ちこやま @chikoyama

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