第03話 ぎゅむりとぐりぐり

 僕は微睡の中にいた。


 身体が溶けて、染み出して、世界に混じり合っていくような、心地の良い感覚。


 なのに突然、意識が急浮上する。

 なんだよ。せっかく気持ち良かったのに。

 久しぶりになんの夢も見ない眠りだった。

 僕だけの眠り。


 無理矢理に引き戻される。

 唐突に視界が開けた。


 豪奢なインテリアで構成されている空間。煌びやかなシャンデリアから降り注ぐ光の雨粒。

 毎夜夢で見る少女の部屋だ。


 ——ん? 夢から覚めたと思ったのに、また夢の中だ。夢の中で夢を見ていたのだろうか。その夢の中の夢から目覚めたからまた夢の中なのか。


 夢夢言い過ぎて自分でもよく解らなくなってきた。


 まあ夢ならいずれ覚めるだろう。










 ——待て!


 僕はどうなった!?


 僕は現実の世界で、クマのぬいぐるみに襲われて、お腹を包丁で刺された筈だ!

 あの後どうなったんだ!? 僕は死んだのか!?


 しかし僕は僕の意識を持って、今こうしてあれこれわけの解らない事をつらつらと思考している。


 生きてはいる……のか——?


 なんだか状況がよく解らない。


 そういえば、僕じゃないもう一人の意識が感じられない。

 いつもだったら五月蝿いくらいに感情の波が押し寄せてくるのに。


 のか?


 現実の世界で僕を襲ってきたクマさんは、恐らく夢の中のもうひとりの誰かだ。

 その(以降テディと呼ぶ事にする)は、僕にを頼むと、涙を止めろと言って。

 それから——どうなったんだ?


 何も解らない。解らないのは不安だ。


 なんだかジッとしても居られない。頭を掻きむしりたくなる。身体が動かない。

 夢の中ではいつもそうだ。いつも通りだ。

 ——いつも通りなのに。


 なんだろう。いつもと少し違う。

 自分の身体なのに動かない感じ。脳からの命令は行ってる筈なのに、機能しない感じ。


 いつもは身体を動かす事が出来なくて苛立つテディを、他人事のように眺める傍観者でしかなかった。僕の身体じゃないんだから、当然動かせないよな——ってそんなふうに眺めていた。筈なのに。


 ——なんだ、なんなんだコレは。


 得体の知れない不安が際限なく膨らんでいく。不安の正体も解らないというのに。


 衝動に任せて叫び出したい。

 声は出ない。

 どこか逃げ出してしまいたい。

 指の一本すら動かない。


 取り留めのない思考だけがぐるぐると、ごちゃごちゃと、脳味噌の中をかき乱していく。


 僕が思考回路の迷宮を迷走していると、白い両開きの扉が開き、部屋の中に誰かが入ってきた。


 夜空に浮かぶ満月のように輝く金色の髪。降り積もった雪のように真っ白な肌。透き通った海よりも青い瞳。


 夢の中の少女だ。


 僕と同じくらいの年齢だろうか。大人びているような、まだ幼いような、境界線の上にいるような、空を逆様に映した硝子玉みたいだ。


 膝下丈の白いワンピースを揺らしながら、部屋の中を音もなく歩く。

 少女は裸足だ。


 僕の方を見やると、てとてとと近寄って来て、ぎゅむりと抱き着いてきた。


 ——温かい。


 やっぱり今までの夢とは違う。僕はテディの感情を共有していただけで、触れられた感触や温もりなんて感じた事はなかった。


 少女は僕の胸の辺りに顔をうずめると、頭を左右に振ってぐりぐりしだした。


 なにこの生き物。可愛い。


 あはは。ちょっとくすぐったいなぁ。こいつぅ。

 いや、待て待て。僕の変態感半端ないな。


 ぐりぐりを堪能し終えたのか、ぎゅむりと抱き着いたまま動かなくなってしまった。


 おや? どうしたどうした? もっとぐりぐりしてえぇんやぞ。


 ぷふう。と息を吐き出して、少女はうずめていた顔を僕から離す。

 前髪がぐりぐりのし過ぎでボサボサになってる。

 両手を使い手櫛で前髪を整えると、照れたように微笑んだ。


 なにこの生き物。尊い。


 少女の小さな唇が僅かに上下に動き、僕に何か言葉を投げかけた——と思う。

 やはりそれは僕の知らない言語で、少女の可愛らしい声音だけが僕の鼓膜を優しく刺激した。


 少女は僕の元を離れると、部屋の中にある天蓋付きのベッドへと向かった。


 そのままお行儀良くベッドに入る。


 そのタイミングに合わせてシャンデリアの灯りが勝手に消えた。どういう仕組みなんだろう。少女がなにかしたのだろうか。まさかオール電化のお城なのか。

 でも火の灯りだったんだよね。うーん、解らん。考えるのをやめた。


 少女がベッドに入ってから割とすぐに、小さな寝息が聞こえ始めた。


 成る程。横向いて眠る派か。僕は正面派。


 ——いや、違うだろ。現状についてちゃんと考えなければ。


 今回の夢はとにかく変だ。客観的だった視点が、主観的な視点に変わったような、妙に生々しい気がする。


 とはいえ、考えようにも情報が少なすぎる。


 そもそもこれは夢なのか? 夢ならばじきに目が覚めて、いつも通りの日常に戻るだけだから問題はない。

 でも現実で刺されてるんだよなあ。しかしあれは本当に現実なのか?


 思考は平行線を辿ったまま、いつの間にか部屋の中に日の光が差し込み始めた。


 夜が明けた。


 暫くして少女が目覚めた。ベッドの上で上半身だけ起き上がると、腕を天井に向かって真っ直ぐに伸ばす。

 手の平を口に当てて大きな欠伸。


 朝に弱いのか、寝癖のついた髪のまま、よろよろと部屋から出て行った。


 部屋の中に静寂が訪れた。唯ひとりの動きを齎らす存在が居なくなり、空間の時が止まってしまったようになる。


 僕の目が覚めない。

 夢から覚めない。


 夢の中に来てから、どのくらい経っただろう。少なくとも半日は経過していると思う。

 時計がないから正確な事は言えないけど、体感では現実と同じ感覚で時間が流れている。


 いくら僕でもそんなには寝ない——と思う。


 だとすれば、いよいよ不味い事になってきた。


 これはもしかすると、現実に戻れない可能性も出てきたか。

 何か行動を起こそうにも、身体は動かせないし、声も出せない。使えるのは出来の悪いオツムのみ。


 今の状況の手掛かりがあるとすれば、やはりテディの言葉か。


 懸命に記憶の断片を探る。でもあの夜は僕も相当に動揺していたから、急に場面が飛んだり不鮮明な映像しか浮かんでこない。

 決して僕の記憶力が悪いわけではない。


 何か重要な事を言っていただろうか。何も言ってなかったとしたら、それはテディの方に問題があるように思う。


 気が付けば部屋の中をシャンデリアの灯りが照らしていた。

 また夜が来た。


 少女は部屋に戻って来ると、真っ直ぐに僕の所へとやって来て、抱き着いた。

 その後のぐりぐりと、ひと通り昨日と同じ行動を繰り返してからベッドに入り、そのまますぐに夢の中へと潜ってしまった。


 やはり灯りは自動で消灯される。


 ぎゅむりとぐりぐりって寝る前のルーティンなの? え、最高じゃない?


 そういえば、僕はまったく眠くならない。やっぱり夢の中なのだろうか。


 少女が寝静まった暗闇の中で、僕はずっとあの惨劇の夜の記憶を思い返している。


 包丁が僕のお腹に刺さっている場面ばかりが、まさしく閃光のように何度もフラッシュバックして、肝心の思い出したい事が思い出せないでいた。


 せめて身体が動かせれば。何か有力な手掛かりを見つけられたかもしれないのに。


 ——待てよ。動きがどうとか、テディが何か言っていた。確か……——。


『私がこっちで動けたなら、お前は向こう側で』みたいな。細かいところは違うかもしれないけど、ニュアンスは大体合ってると思う。


 テディはこっち側だと動けなかったけど、僕の居た現実の世界では動けた。

 僕の場合はこっち側で動けるという事か? でも僕は現実の世界でも勿論動けていた。そうするとどっちでも動ける事になってしまう。


 だがテディがルナリアという人の涙を止めて欲しいと僕に頼むなら、僕はこちら側で動けないとどうしようもない。


 テディがわざわざあんな台詞を言う理由もなくなってしまう。


 もしかして動けるのか?


 動かし方があるのだろうか。考えて解る事だとも思えない。

 とりあえず我武者羅に足掻いてみるか。


 唸れ我が筋肉! 迸れ我が闘魂!

 

 ふんぬぅおおぉぉ!

 動けえぇぇ!


 全身に力を込める。

 指先一本動く気配がない。

 もっとだ。もっと力を込めるんだ。僕の限界を突破した超絶パワーを込めるんだ。どうした。お前の本気はそんなものか。もっとやれるだろうが。お前はもっとやれる。僕はもっとやれる。Ican do it!


 うおおぉぉぉぉぉぉぉ!





 ぷうぅぅぅぅ——。





 あかーん! 放屁ほうひしてもうたー!


 恥ずかし過ぎる。死にたい。無理無理無理。控えめに言って死にたい。


 僕は思わず顔を両手で覆い、しゃがみ込む。それでも全身を貪るような死にたい衝動は抑えられず、抑圧された激情を放出するように床の上を一心不乱に転げ回った。


「んっ……——」


 少女の鈴の音のような可憐な声が暗闇に聞こえ、僕はピタリと動きを止める。


 危ない危ない。少女の安らかな眠りを妨げるなんて、紳士にあるまじき愚行よな。


 僕はいつも通りの冷静さを取り戻す。


 大丈夫。少女はぐっすりと寝てて聞いていないし、この部屋の中には他に誰も居ない。


 よって僕の汚点が世間に露呈する事はない。

 つまりはなんの問題もない——という事だ。


 僕はニヒルな笑みを誰も居ない暗闇に向けてバッチリ決めた後、近くにあった椅子に軽やかに腰掛けた。


 細部にまで施された繊細で美麗な意匠は、思わず溜め息が漏れてしまう程に素晴らしい。

 臀部でんぶを優しく包み込むような柔らかな座り心地からも、匠の丁寧な仕事が窺える。


 僕は椅子の手摺りを手の平で優しく撫でるようにさすった。ひんやりとした感触と滑らかな肌触り。


 窓の外で煌々と輝く月の、神秘的な光を見つめて、ほうとひとつ息を吐く。





 そうなんだよなあ。






 なんか知らないけど。






 いつの間にか——






 ——動けてるんだよなあ。


 そしてもうひとつ。


 無視出来ない事象が、僕の身に起こっている事に気付いてしまった。


 なんかね。僕の手が凄い毛深くなってるの。尋常じゃないくらい。寧ろ皮膚が見えないくらいに、毛の主張が凄いんですけど。


 手の形も人間のフォルムじゃなくなってる。なんか可愛らしいお手てになってる。


 手の平に出現した焦げ茶色の凹凸を触ってみる。ぷにぷに。ほえぇ。気持ちえぇ。


 うん。肉球だわコレ。


 こうなるともう、ほぼ決定的だな。


 僕——


 ——テディになってるね。

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