第02話 理性と感情
状況に理解が追いつかない。心臓だけが狂ったように鼓動をかき鳴らしている。
クマのぬいぐるみが、右手に包丁を握って立っている。
押入れの下段で、哀愁漂う姿で今も座っている筈の存在。
お爺ちゃんかお婆ちゃんが運び出したのだろうか?
——それはない。
あのぬいぐるみは相当重たい。急な階段を下ろすだけでも相当な労力だ。第一、台所に置いておく理由が解らない。
なにより、あのクマ、自立してる。
可愛らしいクマのぬいぐるみだからって油断していた。おかっぱ頭の和服人形と同じ類のお方だった。
いや、もっとたちが悪いかも。
僕まだ捨ててないし。こんな状況になる理由が思い当たらないもの。
——逃げないと。とにかく。
解ってるのに、身体が僕の言うことを聞いてくれない。
喉の潤いが皆無で、呼吸する度にヒリヒリと痛む。痛いのに、呼吸は忙しない。
身体の機能全てが僕と切り離されたみたいだ。
——心臓うるさい。
クマは黙って僕のほうを睨みつけている。
——いや、喋られても怖いけど。もう充分過ぎるくらいに恐いから、本当に勘弁してほしい。
クマの体がゆらりと動いた。握られた包丁の刀身の上を光が流れるように移動する。
僕の体がびくりと跳ねる。喉が小さく鳴る。
やばいやばいやばいやばいやばいやばい。落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。
——無理だ!
(ルナ……の……めに……を……ろす)
喋った! 違う、そうじゃない。僕の内側に直接響いてくるような声。夢の中で聞いたあの声だ。
クマが一歩前へ踏み込む。
動け。僕の身体。頼むから、動いてくれ。
(ルナリアのために……お前を……殺す)
やっぱり殺すんだ! だからそうじゃない。ルナリアのため? 誰のことだ。何故僕を殺すとルナリアって人のためになるんだ。
意味の解らない情報が頭の中をぐるぐると回る。働かない頭で懸命に散らかった思考を整理する。いや、無理だ。
だけど、無理にでも脳を動かしたおかげで少しは落ち着けたかもしれない。
相変わらず、情けないほど身体は硬直しているけど、なんとか動けそうだ。
クマはさらに一歩前へ。
一度、肺の中の空気を全て吐き出す。意識してゆっくりと、今度は空気を吸い込む。
一歩踏み出す度に、クマの身体が大きく揺れる。
家の中の廊下だ。大して距離はない。
数歩分距離が近づいただけで、ぐっと近くまで距離を詰められた気がする。
一、二の……三!
僕は後ろを向いて走り出した。
——おっと、尋常じゃないくらい膝が笑っている。おそらく無様な後ろ姿を晒していることだろう。だけど、今はそんなことどうでもいい。
とにかく逃げる。
どこへ?
外へ逃げようにも、玄関は台所の前を通らないと行けない。
——窓から出るか。
——窓は。お爺ちゃんお婆ちゃんの寝室の前。得体の知れないクマを、そっちには近付けたくない。
僕は階段を駆け上がる。
仕方ない。いざとなったら、二階から飛び降りる。下は土だし、大丈夫なはず。大丈夫……だよね?
階段を上がり、一番近い襖を開ける。僕の部屋だ。
押入れの襖が半分くらい開いている。やっぱり押入れにいたはずのクマだった。
——音や気配で気付けよ僕。
今夜ばかりは、地震で揺れていても寝れてしまう自分の図太さが怨めしい。
ギシギシと階段を上がってくる音が聞こえてくる。
——早い。もう追いついてきたのか。
僕があまりに遅かったから、そもそも引き離せてない可能性も否定はできないけど。とにかく、急がないと。
入り口真向かいの窓へ向かって、転がるように走る。
——窓。開かない。
——そうだ、窓の掛け金を外さなきゃ。本当に自分の身体なのか、疑いたくなるほどに上手く動かない——動かせない。たどたどしくも、やっとの思いで掛け金を下ろす。
ミシリ。背後で不気味な音が鳴る。思わず振り返ってしまう。
異質で、異様。影を纏い、闇をひきつれた魔物が、襖の陰からゆっくりとその顔を覗かせる。
可愛らしく、愛敬のある瞳。丸みのあるフォルム。
人を惹きつけてやまないそれらの特徴が、今は不気味さを演出する装置として、過分な働きをしている。
クマの手に握られた包丁だけが、非現実的な現在の状況において、妙に現実的な生々しさを醸し出している。
(ルナリア……お前が……くう……お前が)
頭に声が響く。いったいなんなんだ。何を言ってるんだ。
クマが僕の部屋の中へ足を踏み入れる。
僕はハッとして、窓に向き直る。鍵は——さっき外した。
——窓。窓を開ける。
夜風が僕の肌を撫でる。汗をかいている僕の皮膚を、冷気が覆っていく。
窓から頭を出して、下を覗き込む。高い。二階って想像より、全然高い。頭はパニックなくせに、妙なところで冷静だ。
いや、迷ってる場合じゃない。飛ばないと、殺される。覚悟を決めるんだ、合田青葉。
サッシを手で掴み、体重を前にかける。窓枠を蹴り、闇夜に飛び出す自分の姿を頭の中にイメージする。いける。いける。いけ……――。
(お前が……彼女の……涙を……止めるんだ)
決断と決行の隙間、声が思考の網をかい潜る。僕の心の奥底の、僕の知らない感情が、僕を振り向かせた。
——涙を止める。
何故かその言葉が引っかかった。無視できない強制力が働いた。
僕は窓のサッシに手をついたまま、クマの可愛らしい瞳を見つめる。
彼女の涙。
僕の思考の片隅で金色の煌めきが揺れた。星を散りばめた、透き通るような碧。
断片的な映像が閃光のように瞬いては消えていく。
——いいから、飛び降りろ! 理性が僕に訴える。だけど、僕の身体は動かない。何故だか、動かせない。
僕よりも大きいクマのぬいぐるみは、もう、すぐ近くまで迫っている。
命の距離。
死へのカウントダウン。
「……あっ……う」
ただ空気が漏れただけのような掠れた声が、僕の喉から零れ落ちた。
言葉にすらなれなかった、出来損ないの声。だけどそれは、たしかに心の核から零れ出た、想いを乗せた音だった。
感情の名前は、声が紡ぐ設計図は、その一端だって僕には解らないけど——。
カラカラに渇いた口の中、無理矢理に唾液を飲み込む。飲み込む液体なんか残ってなくて、思わずむせる。
肺が悲鳴をあげる。僕の体がくの字に曲がる。喉が灼ける。
手の甲で口を強引に拭ってから、顔を上げた。
目の前にクマの丸みを帯びたお腹。毛の質感を見てとれるほどに近い。
クマの可愛らしい瞳が僕を見下ろす。
完全に飛び降りるタイミングを逸してしまった。
だけどもう、僕の意識はそんなところになくて。クマの語った言葉の意味、それが知りたくて、その想いに囚われていた。
クマは体を屈めて、僕の顔の前に自らの顔を近づけてきた。
作り物の黒い目玉が僕を見る。
視線なんて読み取れないはずなのに、たしかに僕を見ていると、解る。
「僕……がっ……涙止めるって……彼女って、ルナリアって」
自分でもなにが言いたいのか、思いつくまま、単語を羅列していく。
擦り切れてしまいそうな喉に構わず、ひたすらに。
目の前の、ひとりでに歩くクマのぬいぐるみに向かって。
(そうだ。お前が……ルナリアの涙を止めるんだ)
今まで以上にはっきりと、鮮明に、クマの声が僕の内側で響く。
(もう……あまり、時間がない)
時間なんて知るか。とにかく説明が欲しい。
ルナリアっていったい誰のことなんだ。夢の中の少女と関係があるのか。
涙を止めろって言われたって、そんなのどうしろって言うんだ。
(だから……お前を殺す)
どうしてそうなる!? 文脈の繋がりが全く解らない。
こんなわけの解らないクマの話を聞くために、僕は逃げ出す機会を棒に振ったのか。
——夢の中の少女。
それがどうしたっていうんだ。
クマの言う、ルナリアって人とあの子に、関係があろうとなかろうと、僕には関係ないはずだ。ましてや、涙を止めるなんて——。
涙。
できることなら止めてあげたいさ。そんなの当たり前だ。
——でも、夢の中の話だ。夢では僕は、無力な傍観者でしかない。話し掛けることだって出来やしない。
僕の脳内がぐちゃぐちゃに攪拌されて、処理の追いつかない思考に撹乱されていると、クマが握った包丁を振り上げた。
——避けないと、死ぬ。
時の流れが絶対的な法則から逸脱し、瞳が映し出す全ての映像がスローモーションになる。
クマの振り上げた包丁は、鋭利な刃先を真っ直ぐにして、のんびりと、僕に向かって振り下ろされる。
——視える。なんと気楽な殺意か。
どうやら僕の封じられた魔眼、
——いや、まあ。もちろん、そんな厨二的な力が僕にあるわけもなく、当然クマの緩慢な動きと同じ速度でしか僕の身体も動かない。
まるでコントでもしているかのように、ひとりと一体はゆっくりとした攻防を展開させる。
銀色の刃が眼前に迫る。無理無理無理。めっちゃ怖い。
僕は懸命に身体を捻る。
無理に捻っているから腰とかやっちゃいそう。
この歳で腰痛持ちとか嫌だけど、包丁でぶっ刺されるよりはいくらかマシだ。
だから遠慮なく、捻る。
刃先が顔のすぐ横を掠める。
——当たってない!? 当たってないよね!?
思い切り捻った勢いのまま、布団の上をみっともなく転がる。
視界がめまぐるしく回転した。
早く起き上がらないと。布団の上に手を付き、身体を無理矢理に起こそうとする。
腰の辺りに電気が走る。あー、やっぱやっちゃったよコレ。
もう気にしない事にして、よろけながらもなんとか立ち上がった。
身体を回転させてクマを振り返る。
後ろによろけたせいで腰が押入れの仕切りにぶつかった。あー、またやったよコレ。
クマと視線が交錯する。落ち着き払ったように悠然と屹立している。
憐れな程に動揺しまくっている僕の小者感半端ない。
——ここからあっしの怒涛の反撃が始まるでやんす。
——いや、そうなったらいいよね。ホント。
現実ってやつは非情で残酷で、嫌になるくらいには平等だ。
人殺しを平然と実行しようとする、クマさんの胆力を素直に褒めようじゃないか。
もしかして人間が牛や豚を殺すくらいの感覚なのかな。見るからに種族が違うもの。
現実逃避の間に、距離がぐっと縮まっている。良くない。非常に良くない。
(お前ならきっと……出来る——)
先生がダメな子を褒めようとしたけど、どうしても思い付かなかった時の、適当な台詞みたいな事言われても、それでハイ殺してくださいとはならないでやんす。
(あの子を……ルナリアを、頼む)
だからルナリアって誰ですか。説明不足にも程がある。
(私がこちらで動けたのなら……きっとお前は向こうで——)
一方的に自分の話や都合を押し付けないでほしい。どうして僕が知らない人の涙を止めるために死ななくちゃいけないんだ。
僕は正義のヒーローじゃない。自己犠牲が高尚な考えだとも思わない。
だから僕は……——。
(私には出来なかった……何も……)
ぬいぐるみが泣くわけがない。なのに、泣いてるように見えた。
——泣いているのが解ってしまった。
悲しくて、悔しくて、無力な自分が何より許せなくて。
毎夜夢の中で感情を共有していた僕だから、目の前で佇むクマさんの激情が解ってしまった。
——僕が殺されれば、貴方の涙は止まるのかな。
——僕にあの子の涙が止められるかな。
あぁ、僕ってやっぱ——
——いい奴だな。
熱っ。
下を見る。お腹に包丁が深々と突き刺さっている。
赤。赤黒い染みが広がっていく。
全身がバクバクと脈打つ。
熱い。寒い。何だコレ。
立ってられなくなって、へたり込む。
押入れの下段にすっぽり。
——これじゃあ僕がクマさんだ。
見下ろすクマさんの視線はどこか悲しげに見える。まあ見えるだけだけど。
意識が遠のいていく。瞼が重たい。
ダメだ。もう開けていられない。
クマさんがぼやける。視界の全てが真っ黒に……——。
(すまない……どうにかあの子を……——)
——悪夢から救い出してくれ。
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