第01話 クマさんと僕
緑と青。
二色の絵の具だけで描いたような、単純で、単純だからこそ美しい風景の中を、僕を乗せた車は走っていく。
空と木々の境目に向かって伸びている道を、まるで吸い込まれていくように、ひたすらに、ゆっくりと。
ハンドルを握る父さんと、助手席に座る母さんは、「やっぱり田舎は良いなあ」「そうですねぇ」と、もう何度目か飽きもせず同じようなやり取りを繰り返している。
僕は後部座席で頬杖をついて、窓の外を眺めている。
春の柔らかな日差しを新緑が照り返し、駆け抜ける風が、光の粒をあちらこちらに運んでいく。
僕も田舎の景色は嫌いじゃない。なんだか急に、どうしてもこの風を肌で感じたくなって、僕は窓を開け放った。
——と、同時に車内に流れ込む芳醇な香り。
そうこれはまるで、朝露の煌めく牧場の朝、澄み切った空気と頑健な牛達の排泄物が織り成すオーケストラのハーモニーのように重厚な香り……いや、ちょっと待って、めっちゃ臭い! 無理無理無理! うんこ臭っ!
僕は慌てて窓を閉める。が、時すでに遅し。車内には牛さん達の主張強めのパルファンが充満していた。
「うんこ臭ぇ!」
僕よりも、父さんよりも先に、母さんが普段より低めの声で叫んだ。
僕と父さんは驚きのあまり、目を点にして母さんを見る。
母さんはその視線に気付く様子もなく「クソが! めっちゃくっせ! ヴボエェ!」と、鼻をガシガシと擦りながらえずいている。
僕のせいとはいえ、ちょっと……いや、だいぶひいた。
僕達一家を乗せた車は、そんな母さんの生まれ育った実家、つまりは僕の祖父母の家へと向かっていた。
なぜなら僕、
この春、無事に義務教育課程を修了した僕は、四月からは晴れて高校生となる。
毎朝家から通うには遠い、偏差値そこそこの進学校をわざわざ受験し、なんとか合格してしまった僕は、通学時間を大幅に短縮できる母さんの実家に下宿させてもらうことになった。
僕の座席の隣には愛用のリュックが一つ、うな垂れるように置かれている。
大体の荷物は一足先に、祖父母の家に届けられているはずだ。
僕は膨らむ期待と一抹の不安、それから愛用のリュックを持って、新天地へと想いを馳せる。
いや、くっせぇな!
「あーくん、よく来たね」
お爺ちゃんとお婆ちゃんは僕を優しく出迎えてくれた。
「疲れたろ。さあ、中へ入って。まずはお茶にしよう」
「櫻井さんところの、もなかがあるよ。あーくん好きだったでしょ」
「ありがとう。お爺ちゃん、お婆ちゃん」
僕は一度、これから住むことになる家を見上げた。
瓦屋根の一軒家は、歴史を感じさせる味のある佇まい。
年に数回、家族で遊びに来るだけなのに、いつ来たってこの家には「ただいま」って言いたくなるから不思議だ。
玄関を通り、廊下を歩くとすぐ、広々とした居間がある。規則正しく並べられた畳が床一面に敷き詰められ、居間の中心には大きな四角い座卓が置かれている。
まずはみんなでひと休み。
お婆ちゃんがお茶を入れてくれて、僕の大好きなもなかを食べた。優しい甘さのあんこがたっぷり入っている。やっぱりこのもなかは絶品だ。
お爺ちゃんお婆ちゃんの家にいると、畳の上に大の字で寝転がりたくなるのはなんでなんだろう。
そのあと、家に帰る父さんと母さんを、三人で見送った。
随分あっさりとした別れになったけど、今生の別れでもなし、ちょくちょく様子も見に来るらしいから、そんなものだろう。
早速僕は、三年間生活する自分の部屋を見に行くことにする。片付けもしなくちゃだし。
僕の部屋は二階。
生まれてこのかた、マンション暮らしの僕にとって、家の中に階段があることは憧れのひとつだった。ワクワクするなあ。急な階段を手をつきながら上っていく。
階段を上ってすぐに僕の部屋はあった。襖を開けて中に入る。和室だ。畳の青い匂いがなんだか落ち着く。
今回新調してもらった真新しい勉強机と椅子が置かれ、その横にダンボール箱が積まれていた。
このくらいならそんなに時間もかからないかな。
僕は入り口の真向かいにある窓を開けた。柔らかい風が部屋に流れ込み、僕の前髪を撫でる。一瞬車での出来事が頭をよぎったけど、杞憂だった。新鮮な空気をゆっくりと深く吸い込む。
さて。窓を背に部屋を見渡す。正面に入り口。そして右側にも襖があり、隣の部屋と繋がっている。
襖を外して隣の部屋とひとつにして使っていいと言われたけど、広すぎても持て余すだけだし、当分はこのままでいいかな。
左側には押入れがある。
そういえば、今まではベッドで寝ていたけど、今日からは布団で寝るのか。
残念ながら、寝床が変わったからといって寝られなくなるほど、僕は神経質ではないから、今夜もぐっすりと寝てしまうのだろう。
なんとなく、換気も兼ねて、押入れを開けてみる。
ん?
押入れの中にはクマがいた。もちろん、熊がいたわけではない。田舎だから、絶対にないとは言えないけど。僕が発見したのは、クマのぬいぐるみだ。
デカッ。
僕の身長と同じくらいあるんじゃないのか? 上段と下段に分かれた押入れの、下段で壁にもたれかかるように座っている。どこか哀愁を感じさせる佇まいだ。
少し興味が湧いてきたので、持ち上げてみる。
重っ。
これ、ぬいぐるみだよね? 綿だけでこんな重くなるのかな。綿じゃなく、別の何かが詰まってるんじゃないのか。
——いや、怖いよ。なんだよ、別の何かって。しかも、やっぱり僕の身長と同じくらいデカい。下手したら僕よりも若干デカい。
考えてもよく解らないから、僕はクマを元に戻すことにした。
お爺ちゃんお婆ちゃんの大切な物かもしれないしね。
荷物が多いわけでもないし、押入れの一角くらい、自由に使ってもらおう。
それに、クマのぬいぐるみくらい可愛いものだ。和服を着たおかっぱの女の子の人形とかだったら捨ててたかもだけど。
——いや、ダメだ。それ、戻ってくるやつだ。
気を取り直して、僕は部屋の片付けを始める。夕食の時にでもそれとなく聞いてみよう。
お爺ちゃんとお婆ちゃんは、僕のために寿司を取ってくれていた。寿司は大好物だ。
「あーくん、部屋の片付けは進んだかい?」
「うん。もう大方片付いたよ。あとは明日にしようかな」
「そうかそうか。ゆっくりやればいい」
お爺ちゃんもお婆ちゃんも、僕が寿司を食べるのを見ながらニコニコしてる。うんうん。孫冥利につきるね。
「そういえば、僕の部屋の押入れに大きなクマのぬいぐるみがあったんだけど、何か知ってる?」
「クマのぬいぐるみ? 母さん、わかるかい?」
「 ……さあ、記憶にないですねえ。紅葉のかしらね?」
紅葉は僕の母さんの名前だ。
お爺ちゃんもお婆ちゃんも、知らないのか。
「邪魔だったら、倉庫にでもしまおうか」
「うーん……まあいいや。別にあっても困らないし。ちょっと気になっただけだから」
あの重さのぬいぐるみを、離れにある倉庫まで運ぶのは骨が折れる。当然、お爺ちゃんに運ばせるなんて言語道断だ。
僕は考えるのをやめて、目の前の寿司に専念することにした。
新生活初めての夜、僕は夢を見た。これから何度も見ることになる少女の夢。
お城の中のような広くて立派な部屋。
一人の少女。輝く金色の長い髪。宝石のような碧い瞳。白く透き通るような肌。
僕は少女を天使だと思った。その美しさは現実離れしていて、まるで絵画の中の登場人物だったから。
天使は床にぺたんと座り込んで、古ぼけた絵本を広げて読み始めた。
時折、読んでる絵本のページをこちらに見せて、微笑みかけてくる。
細められた瞼の奥で、光の粒が瞬く。
僕は、僕ではない誰かの視線、それから感情を共有しているのだと理解する。
少女の微笑みを見て、安堵するような、嬉しくなるような、そんな感情が流れ込んでくる。
そして、その誰かは動けないし、話せないのだとわかる。
少女が一方的に何かを語りかけているだけだ。
だけど、それは僕の知らない言語で、なにを言っているのかは解らない。どこかの国の言葉なのだろうか。少なくとも僕の聞いたことのない言葉だ。
少女の小さな口から紡がれる声は、理解できない言葉なのに、何故だかずっと聴いていたいと思ってしまう。
そんな声をしている。
クラシックを理解できるような高尚な知識も音感も持っていなくたって、モーツァルトの音楽に心奪われてしまうように。
鼓膜から全身に沁み渡っていくような、柔らかく優しい声色だ。
天使には似つかわしくないかもしれないけれど、僕は少女の声から風鈴を連想する。
しかし心地の良い音色はその実、意思を具現化した言葉だ。届けたい感情があって、届けたい相手がいる。
届いているのかもわからないまま、世界に溶けていく感情の旋律。それを独り奏で続けるのは、哀しくて痛い。
それでも少女は笑いながら、届けたい想いを音にしている。
それがもどかしくて、でもどうにもできなくて。ただ少女のあどけない微笑を見守る以外に、出来ることを知らなくて。
僕達を置いてけぼりにして、少女の時間だけが、ゆっくりと流れていった。
唐突に目が覚めた。目に映る見慣れない天井。体を少し起こして周囲を見渡す。知らない部屋。緊張が走る。
——いや、待てよ。そうだ。お爺ちゃんお婆ちゃんの家だ。そりゃそうだ。起きたら異世界にいるなんて漫画や小説の中だけだ。
それにしても、夢の中に美少女天使が出てくるなんて、これは確実に良いことが起きる暗示だな。いやあ、楽しみだなあ。
大きな欠伸をひとつして、僕は布団から抜け出した。春とはいえ、朝は少し冷える。
それから、午前中で部屋の片付けを終わらせて、午後は家の周りを歩いてみた。
ひと通り周囲を探索し終えて、歩き疲れて帰ってくると、お婆ちゃんが夕飯を用意してくれていたから、ご飯を食べて、お風呂に入って、自分の部屋で引っ越す前に地元で買った小説を読んだ。
疲れていたためか、眠くなってきたから、早めに布団に入る。
ふう。今日はたくさん歩いたから、よく眠れそうだ。
ん? おやおや? 今日一日過ごしてみても、驚くほど平凡な一日だった。良いことどころか、取り立てて言及するほどのこともなかったぞ。強いて言うならば、家の周りを探索した帰りに犬のフンを踏んだくらいだ。
金髪の美少女が『ウンがつく』なんて、ダジャレを言うとも思えないし……まあ、いいや。寝よ。
気がつくとあの部屋にいた。少女は椅子に座って、熱心に編み物をしている。
やっぱり何も出来ないまま、少女を見守る。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。朝だ。
二日続けて同じ少女が出てくる夢を見るなんて、いったい僕はどうしたんだろう。
知り合いではないと思う。あれだけの美少女、会ったら忘れない自信がある。
次の日も、その次の日も、僕は少女の夢を見た。絵を描いていることもあったし、椅子の上ですやすやと寝ていることもあった。
夢のことは気になるけれど、かといって、夢のことばかり気にしているわけにもいかず、夢から覚めたなら、こなさなければならない現実があるわけで。
その内のひとつでもあり、新生活の重要なイベント、入学式を無事に終えた僕は、正式に高校生になった。
なんてことのない日常も、慣れるまではそれなりに大変で、それなりに慌ただしく過ぎていく。
それでも、少女の夢は毎夜見続けていた。
最初に見たのは何度目のことだっただろう。
夢の中で、少女は泣いていた。どうして泣いているのかは解らなかったけど、理由を聞いても楽しい話ではないんだろうなってことは判った。
涙の理由はわからないまま、僕は少女の泣いている姿を何度も見ることになった。
理由がわかったところで、傍観者でしかない僕にはどうすることもできないことは、重々承知している。
だからといって、誰かの、ましてや女の子の泣いている姿を見て、気にするなと言うほうが無理な話だ。
そんなモヤモヤとした心の燻りを抱えながら、変わらない、変えられない少女の夢を一方的に傍観し続ける。
目覚めれば、有って無いような変化を繰り返す日常の中へと、溶け込んでいく。
その日も同じ夢の中にいた僕は、何故か不意に数学の課題が出ていた事を思い出してしまった。
うーん、すっかり忘れていた。まだ全く手を付けれていない。これは絶望的だな。
今起きればやる時間もあるのかな。でも寝ちゃってるからなあ。夢って自分の意思で目覚められるものなのか?
——そんな事を考えていたら本当に目覚めてしまった。
まだ日も出ていないようで、部屋の中は薄暗い。
「うーん。出来ちゃうなあ——数学の課題」
僕は寝転んだまま、手を頭の後ろで組みながら、とっても残念そうに呟いた。
(見つけた……)
声が聞こえた。
聞き覚えのない誰かの声。
なのに僕に対しての言葉だと、何故だかわかる。不思議で奇妙で異様な声。僕ではない誰かの声のはずなのに、内側から直接響いてきた。
——幻聴だろうか。だけどそれにしては気味の悪い程にはっきりと、頭の中に響いてきた。予期せぬ事態に困惑する。脳がうまく働かない。
それともこれが心霊現象というやつだろうか。怖すぎるからやめてほしい。
——数学の課題やらないとなあ。でも幽霊怖いからなあ。
とりあえずもう一度眠る事にした。今度は夢も見ずにぐっすりと、目覚ましがけたたましい音を鳴らすまで寝ていた。
勿論数学の授業では先生にちゃんと怒られた。
たとえ平凡で退屈な日常であっても、僕の現実は代わり映えのない時間の積み重ねの中にあるのだ。
いつしか声の正体への疑問どころか、声そのものを忘れてしまっていた。
季節はゆっくりと、だけど確実に夏へと移り変わっていく。昼間は半袖一枚でも、気持ちよく過ごせるようになっていた。
僕は相変わらず少女の夢を見ていた。僕にとって一日の終わりの日課でもあり、新しい一日の始まりの日課にもなっていた。
やっぱり少女は泣いていた。
もう何度も見てきた光景だけれど、何度見ても少女の涙は僕たちを憂鬱にさせる。
目を逸らすこともできない僕は、少女の泣いている映像をただ眺める。
(ルナリ……めに……おま……を……ろす)
突然、僕の内側で得体の知れない声が反響し、体中に緊張が走る。あの声だ。一秒を永遠に感じるほど、緩慢に無だけが流れていく。
対照的に、鼓動はどんどん速くなる。
いったい誰だ。もう声は聞こえない。だけど、いる。確実に、そこに、いる。
僕は見られている。誰かが見ている。絡みつくような粘っこい視線が、意識だけの僕を縛りつけようとしている。
逃げたい。一刻も早く目覚めたい。
僕の自由を奪おうとする視線は、少しずつ僕の内側に入り込み、侵し、踏み躙ろうとする。
助けて。誰か。呑まれる。誰か……――。
目覚めると寝巻きがぐっしょりと濡れていた。
布が体に張り付いて気持ち悪いし、汗が冷やされて寒い。加えて目覚めてからずっと、爆ぜるように鳴り続ける心臓がうるさい。
僕は体を起こして真っ暗な部屋をひと通り見渡した。
正確な時刻は解らないけれど、どうやらまだ真夜中みたいだ。
息が上がっていることに気付く。忙しなく、細かい呼吸を繰り返す。
まだ心臓がうるさい。
——まったく。お爺ちゃんとお婆ちゃんが起きてしまったらどうするんだ。いや、二人に聞こえるわけがないことくらい解ってるけど。
——違う。
そんなことよりも、なんだったんだ、あの声は。あの気味の悪い視線は。
耳元で話されるよりもはっきりと、鼓膜を直接震わせるように響いてきた声。
少しずつ体の自由を奪っていく蛇の毒のように、内側から破壊し、蹂躙するような視線。
手の甲で額の汗を拭う。張り付いた前髪が皮膚を擦る。
悪夢を見たわけではない。明確な危険があったわけでもない。それでも、この身を侵しているのはきっと、恐怖だ。
理解が及ばない事象、情報の不足した不明瞭な状況は、恐くて怖い。
僕は布団を引き剥がし、闇を分け入るように立ち上がった。
水分を失ったせいか、緊張からか、喉が渇いてチクチクする。とりあえず水が飲みたい。
ゆっくりと慎重に、暗闇を進み始める。音を立てないように階段を下り、台所に向かって歩く。
頭の中に家の間取りを思い浮かべながら、闇の中を手探りで進んでいく。
少しずつ暗闇に目が慣れてきた。
もうすぐで台所だ。右手の手の平で喉をさする。あとは真っ直ぐ進めば突き当たりに台所が……――。
——なんだ? 台所の入り口に、黒い塊がある。大きい。僕の身長と同じくらいか、それ以上かもしれない。
一度立ち止まって、塊を観察する。
徐々に黒い塊から、闇のベールが剥がされていき、その全容がぼんやりとだけど見え始める。
心臓がまた暴れ始める。
筋肉が硬くなって、自分の身体が石のようになっていく。静寂の中で僕の忙しない呼吸の音だけがやたらと響いている。
——クマが、いる。
だけど、熊じゃない。田舎だから、もしかしたらその可能性だってあるのかもしれないけれど、今僕が見ているのは熊じゃない。
野生の熊が台所で食べ物を漁っていた——そんな状況だったら、驚いたとしても、事態を飲み込むことはできたかもしれない。だけど、台所の入り口に佇んでいるのは、クマのぬいぐるみだ。
こんな所にあるはずのない、いるはずのない、クマのぬいぐるみだ。
隠れていた月が顔を出したのだろう。台所にある窓から、月の淡い光が入り込んだ。
クマの右側に光が当たり、左側に色濃く影がついた。不気味さが、より一層その度合いを増す。
右手。右手になにか握っている。月の光を反射して、鈍い銀色の光を放つ、なにか。
理解が追いついた途端、戰慄が全身を駆け抜ける。咄嗟に強く息を吸い込んで、喉が変な音で小さく鳴った。
——包丁。
包丁を握りしめたクマのぬいぐるみが、僕を睨みつけるようにして立っていた。
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