クマと少女と涙と剣と

ヲダ

第00話 クマさんといっしょ!

 僕はクマさん。


 愛くるしいまん丸黒眼に、ふわふわの毛並み。むにむにの体。ぷにぷにの肉球。トレードマークの青い斜め掛け鞄。

 まさしく愛されるために生まれてきたような存在。


 ——それが僕、クマさんだ。


 僕が丸いお腹を突き出して踏ん反り返っていると、後ろからてとてとと弾むような足音が聞こえてきた。

 その直後、僕の体は無邪気な温もりに包み込まれた。


 僕の丸いお腹に回された華奢な手。僕の毛むくじゃらの背中に顔をうずめ、擦るようにぐりぐりと頭を左右に振る。


 毎日必ず行われるお決まりの行動。


 ほよよぉ天使すぎ。キュンの過剰摂取で召されそう。


 僕は体をぐるりと回して後ろを振り返る。

 僕の顔のすぐ下には、月の光を絵の具にして塗ったような、輝く金色の髪の毛があった。


 その頭が上を向いた。


 吸い込まれるような碧眼が僕を見る。

 その瞳は大きくて丸い。僕の眼の数億倍は愛くるしい。


 少女と女性の境界線に立っているような、思春期特有のあでやかさを纏っている。


「はよー」


「おはよう」


 僕たちは朝の挨拶を交わす。「んー」まだ眠そうな声を出して、彼女は僕にしがみつきながら、もう一度自分の顔を押し付けてくる。


 おーよしよし。い奴よのう。


 よし。まずは朝ごはんだ。


 寝惚けまなこの彼女を食卓の椅子に座らせて、僕は炊事場へ。

 朝はホットケーキが定番化しつつある。というのも、彼女がホットケーキを大層気に入っているからだ。


 うん。なかなか上手に焼けた。お皿に盛って、バターと蜂蜜をたっぷりと乗せる。

 生地の熱でじんわりと溶け出した透明なバターと、黄金色の濃厚な蜂蜜とが混じり合って、魅惑の輝きを放っている。

 極上の液体が、狐色の生地の上をゆっくりと流れていく。


 甘い香りが食卓を包み込んだ。


 香りを嗅いだ彼女は、さっきまでの寝惚け眼は何処へやら、瞳をきらきらと輝かせている。


「いただきます!」


 挨拶を済ませると、彼女はフォークとナイフを手に取って、ホットケーキを丁寧に切り分けていく。

 彼女はお行儀が良いのだ。感心感心。


 食事の出来ない僕は、彼女の食事風景をじっくりと、舐め回すように眺め——見守っている。


 彼女は小さく切り分けたホットケーキをひと切れ口に入れる度に、にへらと力の抜けたような顔で笑っている。


 うん。何時間でも見れるなコレ。


「ごちそうさまでした!」


「お粗末さまでした」


「おそま——さ、した……?」


 彼女はきょとんとした顔で首を傾げた。


 何この生き物、可愛さ成分のみで構成されてるの?

 カタコトの日本語って可愛いよね。最近は彼女の日本語もめきめきと上達していたから、久々の感覚だ。

 なんだか感慨深いな。


 ——さて。


 今日は何をしようか。何をして遊ぼうか。何を話そうか。


 僕たちはお城の中を手を繋いで歩く。


 僕たちの笑い声だけが、響いては空気に吸い込まれていく。

 僕たち二人だけが暮らしているお城。


 大きくて広いお城の中で、僕たち二人は寄り添うように手を繋いでいる。

 お互いを確かめるように、温もりを交換するように。


 僕たちはゆっくりと、取り留めのない話をたくさんする。

 二人だけが聞こえる声で、二人だけの言葉で——。


 僕たちは聖堂にやって来た。


 天井がずっと遠くなって、天辺で綺麗なアーチを描いている。

 ステンドグラスから差し込む光の帯が、聖堂の中をより一層神秘的な空間へと変えている。


 なんという宗教の聖堂なのかは、僕には解らない。

 祭壇に髪の長い女の人の石像が祀られている。崇拝しているのは女神さまらしい。


 彼女は毎日欠かさずお祈りをする。昔からの日課なのだという。


 祭壇の前で跪くと、胸の前で腕を交差し、眼を瞑って頭を少し下げた。

 数分の間、その姿勢のままお祈りを捧げていた。


 お祈りが終わるとすぐさま僕の元へてとてとと近寄って来て、その勢いのまま抱きついてきた。


 それから上目遣いで僕を見上げた。


「あそぶー」


 よしよし。クマさんがいくらでも遊んだる。


 僕はトレードマークの青い鞄から、色とりどりの正方形の紙を取り出して彼女に見せた。


 折り紙だ。


 彼女はいち枚を僕から受け取ると、表と裏を交互に確認してからきょとんとした。

 いったいこの紙が何なのか、さっぱり解らないといった顔をしている。


 僕はちょっとばかり笑いながら、実際にいち枚折ってみせた。


 出来上がったのは折り鶴。


 折り紙なんてしたのいつぶりだろう。なんとか折れた。僕すげえ。


 体で覚えた事は忘れないと言うけど、本当だったみたい。


 翼を開き、胴体に空気を入れて膨らませてやる。

 そしてそれを彼女に手渡した。


「すごいすごい! とりさん!」


 瞳を爛々と輝かせて喜んでいる。


 もう何枚だって折ってあげちゃう。彼女の無邪気な姿は見ていて微笑ましい。


 彼女は鶴を両の手の平に乗せて、高々と掲げている。光を浴びた鶴はなんだか神々しい。

 僕の折った下手くそな鶴が、格式高い神具にすら見えてくる。

 すげえなファンタジー。


「紙を折って色々なものを作る。これを折り紙と言います。さあ、一緒にやろうか」


「おれがみ、やるー!」


 僕が折り方を教えながら、彼女も鶴を折ってみる。


 眼が真剣だ。集中すると唇が少し尖る。そして折り紙を折る手元と顔の距離が近い。ただでさえ小柄な体が、背中を丸めると余計に小さくなる。


 穏やかで柔らかな時間が僕たち二人を包み込む。まるで綿菓子みたいだ。


 ——こんな時間がずっと続きますように。


 無神論者の僕の願いは、女神さまに届くのだろうか。

 毎日欠かさずに祈りを捧げている彼女だけでも、この時間の中に閉じ込めておけないのだろうか。


「できた!」


 小さな両の手の平で包み込まれるようにして、黄色い折り鶴が凛と翼を広げている。


 頬を赤く染めた彼女の、弾けるような笑顔が眩しい。


 ——良かった。今日も笑ってくれた。


 僕の肩から力が抜ける。ほっとして僕も笑う。


 僕は彼女を笑顔にしたい。


 そこためにここに居るんだと思う。

 そのためにクマさんになったんだと思う。


 彼女がなるべく泣かないで済むように。

 彼女がなるべく傷つかないで済むように。


 だから僕は笑う。

 僕は彼女との時間を精一杯に楽しむ。

 ——そう決めたのだ。


 唐突にいくつもの画面が僕の記憶の中でフラッシュバックした。


 ——悲しい絵本。


 ——肩を小さく震わせながら孤独に泣く姿。


 ——衰弱し切った弱々しい表情。


 ——血だらけの身体。


 ——暗闇に包まれた部屋。


 ——いち輪の花。


 僕の意識は遠ざかる。記憶の波に呑まれそうになる。


 頭の上に温かいものが乗っかって、それが僕の頭を優しく撫でた。


 僕の虚な瞳は慌てて生気を取り戻した。


 僕の顔を心配そうに見つめる碧い瞳。

 目一杯伸ばした手で、僕の頭をゆっくりと何度も撫でている。


「ありがとう。僕は大丈夫だよ。さあ次は何を折ろうか」


 ——僕は笑った。


「んー……クマさん!」


 ——彼女も笑った。


 ——。


 明日は何をしようか。何をして遊ぼうか。何を話そうか。


 どうせ僕は眠らない。彼女が眠っている間に、ゆっくりと考えればいい。


 彼女はお行儀良くベッドに入る。


 先っちょにボンボンの付いた三角帽子が可愛らしい。


「てにぎる」


 彼女の顔の横から白い手がぴょこんと出てきた。


 もうっ甘えん坊さんなんだから。


 僕は彼女の手をそっと握った。


 ほえぇやらかぁ。すべすべやぁ。


「そうかそうかあ。無防備に眠る女の子の手を握りながら、一夜を過ごせるのかあ。成る程成る程お。あ、大丈夫大丈夫。僕は紳士だからさ。安心して眠ってていいよお。ジュルッ」


「……いやらしい」


 おや? 安心させてあげようと思っただけなのに、何故か軽蔑の眼差しが僕に向けられているぞ。


 なあに。握ってしまえばこっちのものよ。ぐへへ。


 僕たちはぽつりぽつりと言葉を交わす。


 ゆっくりと。気の向いた時に。


 やがて小さな寝息が聞こえてくる。

 僕は無防備な寝顔をそっと覗き込む。


 いや寝顔も天使だな。可愛さ24時間体制とかツラっ。可愛いすぎてツライ。


 僕は明日の事を考える。


 彼女が明日も笑ってくれればいい。

 それだけでいい。


 それだけで——。


 僕はもう一度彼女の寝顔を覗き込んだ。


「おやすみ。また明日」




 



 

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