1日目①

「おはよう」

 

 どこか聞き覚えのあるような優しい声で目覚める。昨日は何をしていたっけ、家が火事になっていたんじゃないっけ、そこで誰かが私を助けてくれて…。どうもそこで記憶が途切れているみたいだ。その後のことは何も思い出せない。気を失ってしまったのだろうか。


そもそもここはどこなんだろう。私はどのくらい眠っていたのだろう。おはよう、と声をかけてきた人は誰?だって普通火事になったら、消防車とか救急車とかに乗せられて病院に行くはずじゃない?でもここは、到底病室には見えない。クリーム色の壁、淡い水色のカーテン、そしてキッチンとかタンスとか明らかに生活感を覚えることから、今私のいるこの場所はアパートの一室のように思える。というか、何で、私の家って火事になったんだろう?


「色々戸惑ってるみたいだね、でももう大丈夫だよ。ここには暴力を振るお母さんも、お母さんに隠れてセックスを強要してくるおじさんもいない。だって彼らは死んじゃったからね。ほら」


優しそうな顔をした青年がコーヒーカップを片手に、私に切り抜かれた新聞記事を差し出す。今の状況に理解が追い付かなくて、まじまじと彼を見ていると、私はこの青年に見覚えがあるような気がした。必死に記憶を漁る。そして、その記憶はあまりに新しかった。もしかしてこの人は、昨日私を助けてくれた人ではないだろうか。この優しい目、目だけで分かる、間違いない。


「あ、昨日、助けてくれて、」

「お礼とかいいから、今は自分の状況把握したほうがいいよ。今日だってあの火事からもう一日経ってるしね」


そう遮られて彼から新聞記事を受け取る。本当だ、丸一日も私は眠っていたみたいだ。受け取った記事を見る。大体記事の内容を纏めると、火災の原因は恐らく放火、母と母の恋人は焼死、そして私は行方不明ということになっている。行方不明?となるとやっぱりここはどこなのだろう、そしてこの青年は何者なのだろう。


「あの、私が行方不明ってどういうことですか」


彼はコーヒーカップを一気に呷り、中身が空になったのか傍にあるテーブルに置く。そして、にやりと笑って言った。


「僕は君を誘拐したんだ。一昨日の火事に便乗してね。それと、僕ちゃんと自分の状況は把握したほうがいいよって言ったけど。気付いてる?、足のそれ。自分が誘拐されてるって自覚足りないんじゃない?」


そう言って彼は私の足首の方向を指差す。起きてから全く動かなかったせいか全然気が付かなかった。足が、思うように動かない。見ると私の足には、足と足の間に十センチほどの鎖がある重りと鍵付きの足枷が取り付けられていた。


「これは、逃げられないようにするため…」

「よく分かってるね、正解」

「どうして、どうして私を誘拐したんですか!」


その後に、私を誘拐するメリットなんてないのに、と続けようと思ってやめた。彼が悲しい目をして私を見ていることに気付いてしまって、つい言葉に詰まってしまった。よく見ると、彼の眼は少し涙目になっているようにも見えた。でもやっぱり考えてしまう、私を誘拐する意味なんてあるのだろうか。ますますこの青年の考えていることが私には分からなくなった。


「ごめんね」


彼はそう一言言って、台所にあるシンクらしき場所ににコーヒーカップを置きに行った。私は何も言えなかった。


「何と呼べばいいですか」


 青年が私の寝ているベッドの傍にある椅子に腰かけ、近くのテーブルに橙色のマグカップを置き、何やら本を読み始めようとしていたが、私はあまりに退屈だったので、この謎が多い誘拐犯に色々質問をしてみることにした。だって、動けないし。


「透明のとうで、透。「くん」でも「さん」でも呼び捨てでも好きに呼んでいいよ。あ、そうだ、君の名前。いや勿論新聞にも載ってるくらいだから知ってるけど、新しく付けちゃおうか。あんなゴミみたいな親から貰った名前、要らないからね」


最後の一言があまりに冷たく放たれたような気がして、私は頷くことしか出来なかった。


「僕の名前からとって、透日にしよう。「か」は日曜日の日。いいね、綺麗な名前だ。…そうだ、忘れてた。今これしか簡単なのが出来なかったんだけど良ければどうぞ、お腹空いてるよね。あ、変なものは入ってないから安心して。誘拐しといてなんだけど、透日に危害を加えるつもりは全くないから」


「ありがとうございます…」


私は彼から橙色のマグカップを受け取る。そこには温かいコーンスープが注がれていた。思わずお腹が鳴ってしまう。そうか、一日も寝てたんだもの、お腹が空いていないわけがなかった。


「美味しい…」

「でしょ?お手製のインスタントなんだけど」

「全然お手製じゃない!」


思わず彼との会話に笑みが零れてしまった。


 この人は誘拐犯であるはずなのに、私を誘拐した張本人であるのに、それなのに、それなのに私は何故か新しい名前と温かいコーンスープを彼に貰って暖かい気持ちになってしまった。私が単純なだけなのだろうか。


でも、私には、どうしても彼が私の体を目的にしてとかそういう簡単な目的で私を誘拐したようには思えなかった。何が目的なのかなんて想像もできなかったし、全く分からなかったのだけれていたど。そして、何か通ずる部分があったのだろうか、私はこの時もうすでにすっかり彼に懐いていた。それとも、人にこんな風に優しくされたのが初めてだったからだろうか。透日、どことなく響きが良く感じて私はすっかりこの新しい名前を気に入ってしまった。


「そうだ、他に何か食べたいものある?買って来るけど」


 彼にそう聞かれて、私は少し考えてしまった。食べたいもの、さっきスープを飲んでお腹があまり減っていないせいか、はたまたこれまでほとんど酷く冷めた、味のしないコンビニ食で生活していたせいか、何も思い浮かばない。


「透さんの好きな食べ物は何ですか?」


 彼は私の言葉にふっと笑う。この人の笑う顔はどうしてこんなにも私の胸を締め付けるのだろう、初対面から時間がさほど経っていないのに。恋でもない、この何とも呼べない初めての感情に名前を付けることが難しいことを私は初めて知った。


「質問に質問で返すかあ。好きな食べ物ね、何だろう。やっぱりラーメンかな。折角だし、食べに行こうか」

「えっ」


突拍子もないことを言い出したかと思えば、彼は鼻歌を口ずさみながら、何やら部屋の奥のほうにある棚の方から鍵らしきものを取り出して私の方に向かってくる。


「はい、これで立てるかな。見た感じ痕とかはついてないけど、痛くない?大丈夫?」

「え、え?」


彼は取り出した鍵で私の足についていた足枷を外してしまった。私には彼の行動が全く理解できなかった。逃げられないようにするための足枷なはずなのに、こうも簡単に外してしまっていいのか。そして、私は彼にとって人質であるはずなのに外に連れ出そうとしていいのか。彼は私が色々疑問に思ってる様子など気にも留めず、違う部屋にまた鼻歌を弾ませながら入っていった。

 


 立つ分には問題なく立つことが出来た。足枷が重りはあったもののかなり緩くつけられていたおかげで、彼が言ってた通り足には痕も痣もない。けれども、やはり丸一日眠っていたせいか、どうもふらふらする。ずっと立つことは難しく、私はぺたんとその場に座り込んでしまった。するとその様子を見ていたのか、彼がすぐに戻ってきて言った。


「大丈夫⁈」

「大丈夫です。でもちょっと、ふらふらする…」

「そっか。気使えなくてごめんね。今日はラーメン辞めようか、昨日も何も食べてないんだし。急に何か食べ物をたくさんお腹に入れるのは良くない。今日はゆっくり休もうか」

「はい…」


少し、いや本当は結構悲しかった。ラーメン、透さんと食べに行きたかった、そんな思いが渦巻いた。俯いている私を見てか、彼が私の頭を軽く叩いて笑う。


「そんなに行きたかった?ラーメン。今日はゆっくり休みなって。それで明日元気になって、食べに行こう」

「はい!」


何でこんなに、この人には安心感を覚えてしまうのだろう。それとも私に危機感がないだけなのだろうか。何も、何も分からなかったから、この時の私はもうその時の感情に身を任せようと思ってしまった。逃げたいと思ったら逃げればいい、逃げたくなかったら逃げなくてもいい。ただ、今は透さんがくれた温もりを手放したくなかった。それが透さんが繕った温もりでも構わないと思った。初めてだったから、人の優しさを知ったのは。

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足枷と花束 @sai_go

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