39.出立の時間

 だがそれでも経済活動というものはタフだった。ジナイーダとゾーヤは、その喧噪の中、ようやく灯りのついている店を見つけ、少なくなっていた食料を大急ぎでかごに放り込むと、もう閉めたいんだ、とぶつくさ言う女主人をなだめすかすかのようにして精算をした。

 そして大きなクラフト紙の紙袋に、買った食料を順番もへったくれも無く放り込む。手提げがついているのが救いだ、とジナイーダは思う。無かったら悲惨なことになっている。缶の飲み物もりんごもパンも、多少の傷やつぶれはがまんしてもらおう。

 からんと音のする店の扉を開けたら、暗い街の中に、低い地鳴りの様な音が響いていた。何なの、とジナイーダは反射的にゾーヤの顔を見る。この冷静な姉の友人の表情もまた、変わっていた。


「……何…… 何が起こるの?」


 ゾーヤはち、と唇を噛み、下げていた紙袋を胸に抱きしめた。

 予想はされていることだった。少なくとも、彼女の冷静な頭の中には、これが出てくることは、予想されていたのだ。だが彼女はそれを口にはしなかった。


「……ねえ、何なのよ! あれ……」


 地響きは、やがて近づいてくる。ゾーヤは無言で首を横に振った。ジナイーダの中に、黒い不安が広がる。

 だが、その不安の中に、不意に浮かび上がってきたことがあった。彼女ははっとして、袋を下げていない方の手で口を押さえた。


「……あ…… 化粧水シートを忘れた」

「……君そんなことを言っている場合じゃ……」

「ヴェラには必要でしょ。あたし行かなくちゃ」


 おいジーナ! と背後で珍しいほど焦った声が聞こえたが、ジナイーダは聞いてはいなかった。

 手に持った袋は重い。だがその重さが、彼女にとって、自分の役割のような気持ちがして仕方なかった。

 危険なのだ。だが危険なほど、それは心地よい。自分は必要とされている、役に立っている、という気持ちにさせてくれる。

 地響きが大きくなる。一体何処から何がやってくるというのだろう?

 そしてその反面、化粧水シートを売っている店を、目は探している。

 何処もかしこも今日は店じまいだ。当然だったろう。だけどヴェラには必要よ。彼女は思う。ヴェラはその言葉の力を、その声で出さなくてはいけない。そしてその言葉を書いたのはあたしだわ。


 あれはあたしの言葉の力でも、あるのよ。


 ……ふと顔を上げると、通りの向こう側に、灯りのついている店があった。

 どうやら薬や化粧品を扱う店らしい。普段夜間に外出などしないから、昼間と違う印象の街に、彼女は眩暈のような感覚を味わう。道も何も、暗い、街灯の壊された市街では、さっぱり判らない。

 地響きが次第に大きくなってくる。だが目標は正面にあった。

 あまりに暗いと、距離感というものは、失せるのだ、とゾーヤなら言っただろう。

 だが彼女はゾーヤではない。

 右の耳に、地響きだけでなく、何かがきしむような音がするのに、気付いた時には遅かった。彼女は自分が道路の真ん中に居たことに、その時初めて気付いた。

 街路樹が、視界の端と端にある。そして、夜の微かな灯りに、その姿が、次第に輪郭を見せてきた。


 ……戦車?


 気付くまでは、いいのだ。目の前にある目標物に対して、ひたすら突き進んでいけばいい。だがその途中にあるものに気付いてしまった時には。

 彼女は自分の手が、力を無くしていたのに気付かない。

 手提げ袋が、その場にずさ、と音を立てて落ちる。きしむ音が、近づいてくる。なのに、足が動かない。


 どうしよう。


 彼女は目を大きく見開く。どうしよう。足が動かない。全身が一気に総毛立つ。だけど身体が動かない。

 ぱあ、とその時、ライトがこちらを向いた。目がくらむ。彼女はくらり、とその場にへたりこんだ。顔を押さえ、思わず目を閉じていた。


 轢かれる!


 ―――きしむ音が、奇妙な悲鳴を上げていた。

 ジナイーダは、その音の変化に、ゆっくりと手を顔から離した。

 彼女は、信じられないものを、見た。


 誰かが、戦車を、止めている。


 軍の制服を着た、誰かが、自分の目の前で、戦車を背に、それを止めているのだ。逆光で、顔は判らない。だけど、長い髪。長い髪だ。腰のあたりまである髪が、ライトに透けて、薄い茶色から金髪にまで見える。


 だけど。


 彼女の理性はそこまでだった。

 悲鳴が、その場の音に絡まった。


 こんなことできるなんて、人間じゃない、化け物だわ!


 やめて来ないで、と彼女は声にならない声を上げ、頭を振る。そんな、戦車を止めているのに近づく訳がない、という理性など彼女のどこにも残っていなかった。ただ今は目の前に居る非現実に、頭が拒否反応を示している。

 だが、耳には。


「元気でね、ジーナ」


「ジーナ!!」


 その声を聞きつけたのか、ゾーヤがようやく追いつく。

 事態を素早く把握すると、彼女の手と、落ちた手提げ袋を一気に引き上げると、ほとんど転がらんばかりの勢いで、通りの向こう側へと走り抜けた。

 大丈夫か、とゾーヤはその場にうずくまったジナイーダに、やはり彼女自身も全身から吹き出す冷や汗に気色悪さを覚えながら、訊ねた。

 ジナイーダはがくがくと、両手で自分自身を抱きしめて震えていた。

 何なのあれは、というその瞬間の、人間以外のものを見た恐怖。

 そして、もう一つ。

 何か引っかかっている。逆光の中で、見た、あの。

 ひどく怖い。だけど、奇妙に別の思いが、彼女の中で、行き場所を無くして広がっている。

 それは、何か、暖かくて。


「ジーナ!」


 揺さぶられて、ようやく彼女は正気を取り戻す。だが、その次の瞬間、顔をいきなりごしごしとこすられるのに、びっくりして彼女はゾーヤからぱっと離れた。


「な、何するの……」

「何するもこうするもないだろう…… 君」


 そして顔に手を当ててみる。ぐっしょりと、濡れていた。

 そしてそれを見ながら、手のひらに、また水が滴り落ちるのを彼女は感じた。



「……お前」


 そしてこの行動に驚いたのはジナイーダだけではなかった。

 コルネル中佐は戦車の前から大きく飛び上がって退いたキムを素早く掴まえ、そのまま街路樹に押しつけた。キムはひどく疲れた用な顔をしていた。だがだからと言って、何処かをケガしているような様子は見られない。


「……何だよ一体。ちょっと休ませてよ。俺だって疲れるんだってば……」

「お前今何をやった!」

「何って…… ちょっと女の子が轢かれそうだったからね……」


 まるでこの口調は、あの時のようだ、とコルネル中佐は思う。あの時。自分と寝た時に、ひどく疲れ果てて、寝るからねと断言する時のような。


「だからって」


 戦車は、マトモに動いていたはずだ。だが中佐は言葉を飲み込む。いくら短時間だったにせよ……


「……いいじゃない、そんなこと」


 キムは煩そうに頭を振る。無造作にくくった髪が、ざらりと揺れる。


「……それよっか、この都市から逃げたソングスペイを追ったほうがいいんじゃないの?」


 中佐は黙った。そして唇を噛む。


「ねえ中佐、俺あんたのことはかなり好きだよ」


 キムはまだ疲れの残る声で言う。


「それがどうした」

「だから、とっとと仕事を終わらせたいんだよ俺は。とっとと行こう。今から行こう。奴は最初に上陸した島へ向かったはずだよ。この惑星から脱出するために。俺から逃げるために」


 だけどね、と彼は笑う。だが妙にそこには力が無い。


「あんたからは逃げられないよ。あんたがMの銃なんだからね」


 ふん、と中佐は眉を寄せ、街路樹に相手を押しつけると、ひどく強引に唇を重ねた。

 出立の、時間なのだ。

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