38.最初の石が投げられた。

 二人がそっと放送局の職員食堂の裏から出た時、既に周囲は暗くなっていた。だが、その暗さは、いつもと違っていた。


「……何か、妙だ」


 ゾーヤは一歩通りに出ると、つぶやいた。


「何が、妙なの?」

「……街灯の数が少ないと思わないか?」


 そういえば、とジナイーダは思う。確かに少ない。今居るここ、ではなく、遠くに見える市街地、繁華街の方向である。放送局自体は、市民にはその位置を正確には把握されていなかった。だからこの騒ぎが起きたところで、その場所そのものへ向かう者の姿は殆どなかった。


「むしろ、反響があるとしたら、街頭のテレヴィジョンだ」


 ゾーヤは再びつぶやく。そうね、とジナイーダも表情を引き締めた。二人はその方角に足を速めた。

 街灯は割れている。街頭テレヴィジョンは、ひっきりなしにニュースを流す。やや高い女性の声は、立て続けに喋り続ける。扇動する声だ、とソングスペイは思った。

 これまでこの電波では流れたことのない画像が、その女性の声の合間合間に流される。このエラ州の、シェンフンの市民は、全くこの類の画像を知らない訳ではない。シェンフンの中だけでも、工夫をこらせば、ラジオは耳にできる。学生の割合の大きい都市では、その傾向は大きい。

 一般市民にせよ、州境に住む親戚や知り合いから、漏れだし受信できる画像をコピーし、受け取る者もいる。全く知らない訳ではない。それこそ「放送の力」を読まなくとも、実践している者はあちこちに既に居たのだ。

 だがそれは、あくまで個人がひっそりとするものだった。少なくとも、この街頭テレヴィジョン、いつも司政官とその周囲を賛美するばかりの報道をくりかえすこの大きな受像器が流すものではなかったのだ。

 この受像器から。そのインパクトは大きかった。いつもその存在すら忘れているようなそのモニュメントにも似たそれは、その日、いつの間にか、アパートの中に閉じこもっていた市民をも引っぱり出したのだ。

 そしてその画像の合間の女性の姿と声。はっきりとした発音の、だがやや急いた口調で語りかける。その中には軽い怒りすら感じられるが、言葉の持つ力そのものは損なわれない。むしろ、その軽い怒りを感じさせる、ほんの少しうわずったような部分が、見る人聞く人の中に、何かを引き起こすようなものを持っていた。

 最初の石が、投げられたのは、いつだったろうか。

 それがどの言葉によって引き起こされたものか、説明できる者はおそらく誰もいなかっただろう。だがその瞬間は、あったのだ。

 市民の視界の端に、公安の制服が映った。いきり立ち、街頭テレビジョンの電源を切ろうとする彼に飛びついたのは、子供だった。

 その公安局員は、おそらく職務に忠実であろうとしていただけに過ぎないだろう。だが彼は、やり方を間違えた。スイッチを切ろうと伸ばした手にしがみついた、ほんの七つ八つの少女を、彼は煩げにふるい落とした。

 少女はあ、と声を上げてその場に倒れた。

 ふ、と一瞬の間を置いて、驚きはやがて溢れ上がる訳の判らない感情に支配される。

 少女はわあ、と泣き声を上げる。

 それは無意識だったろう。

 自分を突き飛ばすこの大の大人が怖かったのかもしれない。

 ただ自分の行動を邪魔されたのが悲しかったのかもしれない。

 当の本人すら、爆発したように泣く時には、そんなことは判らないのだ。

 だが少女の感情の内容が何であれ、それは人々の何かに火を付けた。

 それはひどく偶然から始まるのだ。

 たとえその直前に、優しそうな目をしたお兄さんが、彼女に向かって、ひどいことをするね、注意してきてごらんよ、子供には何もしないよ、と言ったとしても、だ。

 最初の石が投げられた。



 夕刻になる頃には、石はあちこちを破壊していた。何故石だったのか。石しかなかったのだ。ここの市民には。そして石があった。

 一つの破壊を起こすことによって、人々は破壊すること自体をその記憶の奥から思い出したのか、一度家に戻り、何かしらの自分の武器となるようなものを持ち出していた。何がそうさせるのか、彼らは判らなかった。ただそうしなくてはならない、と思ったのだ。

 夜がすっかりと街を覆う頃には、街灯のガラスというガラスが、ことごとく割られていた。人々は闇に紛れて、手にめいめいの武器を持って、司政官の官邸方面へと進んでいた。

 誰も、その意味を正確に把握してはいなかった。ただ、それまでの、何かしら鬱屈した気持ちが、それで晴れるような気がしていた。

 これだけの人数がいるんだから。

 根拠の無い確信が彼らの心に芽生える。たとえどれだけ人数がいようが、法に外れれば犯罪だ、という理性は、彼らの頭から消えかけていた。

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