37.マイクに向かう女性の姿

 はっとして彼は、頭をすくめた。

 頭上を石がかすめていく。

 あれからずっと、何処へ行くともなくソングスペイはこの都市の中をさまよっていた。その間にも、事態は分刻みで展開していく。

 図書館を飛び出した時から、その気配はあった。芝生広場のテントは、妙にごつごつとしたものが押し込められているような印象が前からあったが、その中身がはみ出していた。

 大道具と思っていたのは、立て看板らしい。

 いや、彼らにしてみれば、それが「大道具」なのだろう。彼らは舞台をその場から動かそうとしていた。

 大通りの、理学群付近では、拡声器を持った学生が、何ごとか叫んでいた。それは秩序を持ったものではないらしい。あちこちでそんな声が、不揃いに飛び交っている。

 坂を下る。

 とにかく学校から出よう、とソングスペイは思った。

 そうしないと、この全身の震えは治まらないような気がした。走っている間はまだいい。だが止まると、震えが出そうだった。止まってはいけない。止まって、奴に、所在を知られてはいけない。

 だが外に出ても、事態は学校内と変わらない。既にそれは始まりつつあったのだ。

 き…… ん、というヴォリュームの調整を間違えた時の音が耳に飛び込み、彼は反射的に振り向いた。街頭のTVの画像が乱れながらも、点いている。

 放送は限定されていたから、その時間も定まった時でしかない。彼はそばに立つ時計を見る。まだ早い。まだそんな時間じゃない。

 だが大きな受像器は、砂嵐を立てながらも、点いている。放送が、送られようとしているのだ。その異変に気付いた人々が、次第に、足を止めつつあった。

 彼はその場から妙に動けない自分に気付いていた。逃げなくてはならない。少しでも遠くに。だがその気持ちとは裏腹に、今から何がここで起こるのか、見たいような気もしていた。


 そして。


 ぱん、と音を立てて、画像が、開いた。おお、と周囲に群がりつつある人々の口から声が漏れた。

 カメラワークがひどくぎこちない。何やらふらふらとしている。映し出されている場所の照明もそうだ。確かにいつものニュースを行う場所のように見えたが、そのわりには、変にすさんでいる。

 ああそうか、と彼は急に一つのことに気付いた。デスクの上の花瓶が倒れているのだ。

 そしてそのデスクに乗せたマイクに向かう女性が、映し出された。


『市民のみなさんこんにちは。こちらは中央大共同行動隊です』


 耳を隠すくらいの長さの髪の女性が、ぱっと目の覚めるようなはっきりとした、通る声を響かせた。


『市民の皆さんに報告致します。たった今、我々共同行動隊は、州中央放送局を占拠しました』


 おお、と今度はどよめきが、集まった市民の口から漏れた。それを見ながらソングスペイは、画面の女性に目を奪われていた。


 ……見覚えがある。


 それもそのはずだった。画面の中でマイクに向かう女性は、ヴェラだった。

 途端に、あの同僚の顔をしていた連絡員の笑いが脳裏に浮かぶ。そして自分に向かって訊ねた言葉。


 ウーモヴァ姉妹を知っているか?


 彼女は時々草稿らしきものを読みながら、画像を流していた。それは、今までこの地では流されたことのない、他州からの映像だった。


『……我々はこのように圧迫された生活を送らなくてはならない義務は何処にも無いはずです。少なくとも、盗聴されることを怖れて、子供達が電話を遊びに使うこともできないような環境は、間違っています!』


 彼ははっ、と顔を上げた。何かが彼の記憶を押した。電話と盗聴。もしや。

 その当時、自分達は、そんな遊びをしてはいなかったか?

 そしてその時の遊び相手は……

 顔を上げる。アナウンスをする女性に、草稿の続きを手渡すもう一人の女性が居た。



「ご苦労様ジーナ。いい出来だ」

「ありがとう編集長。だけどヴェラだから、ああいう言葉が似合うんだわ。あたしはヴェラの様には喋れない。ただ書くだけよ」


 いいや、とイリヤは手を振った。


「そのかわりヴェラは書けないさ。向き不向きなんてのは、人それそれだからな」

「そうでしょうか」

「そうだ」


 ゾーヤもうなづく。つい数時間前に占拠した際に出た「ゴミ」の処理に、彼らは追われていた。

 筋書きはカシーリン教授が用意した。彼は自分の提唱した「言葉の力」を実践すべく、文系サークルの学生達に指示をしたことになっている。

 無論その指示の実体は、「MM」の筋書きに他ならない。既にそのお膳立ては出来ていたのだ。シミョーン医師の弾劾から始まり、それは司政官自体の政治、現状のこの州の体制批判へとつながった。

 ヴェラはあれからずっと市民に向けて語り続けている。時々流す、他州からのフィルム、VTR、そういったものの合間にしか休憩を取らない。

 これが、彼らの今回の演劇のコース変更の結果だった。当初は批判を中に込めた、あくまで「劇」。ただの演劇だったはずなのだが、それはやがて、現実とリンクするものへと変わっていった。


「とりあえず、俺はずいぶんと君に対しての見方が変わったよ」


 ありがとう、とジナイーダはうなづいた。実際、彼女はこの一連の活動に、言い様のない充実した気持ちを感じていたのは事実だったのだ。そして、どうして自分がずっと鬱屈していたのか、それがひどく不思議に思える。

 何故だろう。

 彼女は時々考える。そのたびに、何かが頭の隅をよぎるのだが、そのたびに、ライトや日射しのきらきらする光が目に入って、うるさい。そしてそのうちに、そんなことを考えていたことを忘れてしまうのだ。

 だがそれはそれでいい、と彼女は思う。

 そんなことをいちいち考えている暇は無いのだ。今の自分には、やるべきことがあまりにもたくさんある。


「……そう言えば、お腹すきませんか?」


 ジナイーダは二人に問いかけた。

 そう言えばそうだな、とイリヤはゾーヤと顔を見合わせる。彼は立ち上がり、束の間の休憩を取っている仲間に向かい、問いかけた。皆そういえば、という顔を見合わせた。時計は既に、夕刻を指していた。

 ふう、とジナイーダは姉の姿をうかがう。元気な声を張り上げてはいるが、その顔にはやや疲れが見える。


「じゃああたし、食料調達に行ってきます」

「いやそれは危険だ」


 イリヤは慌てて切り返す。だが彼女は首を横に振った。


「大丈夫です。それにどっちかといえば、女のほうが、気付かれないんじゃないかしら」

「……それも一理あるぞ、イリヤ」


 ゾーヤも腕を組んでうなづく。


「食料は調達しておいたほうがいい。我々の行動は確かに計画は計画としてあるが、それはあくまで机上のことだ。この先何があるか判らない。せめてきちんと腹ごしらえくらいはしておいた方が得策だ。彼女一人で危険というなら、私も行こう」


 彼女はあくまで冷静に言う。

 女なら、という仮定は実は彼女は考えていない。そこまで当局は甘くはない。だがどうやら言い出したら、この最近元気になった友人の妹は、今は何でもやりたい矢先のようである。使っても悪くはない。

 そこまで自分の恋人が考えているかを推測しているかは判らなかったが、そうだな、とイリヤもうなづいた。 


「それじゃ、とりあえず外へ行きます。何か食料以外に必要なものはありますか?」

「化粧水シートを買ってきて!」


 姉の声が飛んだ。慌ててマイクの方を見ると、フィルムが流れてる様子だった。


「何かお肌がかさかさしてるわ。これじゃあアップに耐えられない!」


 無論、「お肌」だけではないのだ。疲れが目の端や髪の毛の乱れにもやや出かかっている。そういうのを彼女は嫌うのだ、とジナイーダは知っていた。

 放送のちょっとの隙をついて何度もヴェラは化粧を直していた。できれば一度完全に落として、さっばりとした顔にもう一度念入りに「舞台メイク」をしたいところだろう。

 だがそういう場所ではない。そしてそんな弱音を吐くのも彼女の嫌うところである。

 判った、とジナイーダは声を張り上げた。


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