36.ほんの少しだけ、彼女が羨ましかった。
ソングスペイは一瞬何のことを言われているのか判らなかった。自分がここに住んでいたことは、誰にも…… いや、二人をのぞいて、言っていないはずだ。あの新聞部編集長と、そして……
「……中佐から聞いたのか?」
ああそうだ、と彼は思う。確かこいつは。そうだね、とキムはうなづく。
「仲がいいようで何よりとか言いたい?」
「そんな無粋なことは言わないさ。……だが何でキム、お前が、隣の姉妹のことまで知っているんだ?」
「さあて。何ででしょう」
口元が上がる。ソングスペイは自分がからかわれていることに気付き、かっと胸の中が熱くなるのに気付く。
「冗談はさておいて、俺もちょっとマジで聞いておきたいことがあるのよ。ラーベル・リャズコウ君」
「……」
ソングスペイは苦い薬を口の中で広げてしまったような顔になった。
自分はその名前を口に出したことはない。中佐には言ってある。容易に調べはつくことだ。彼は言われたことでやや混乱する頭をとりまとめようと努力する。だが手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
「……知っている。そりゃ昔、隣に住んでいたから、よく遊んだ。だから知っている。それがどうしたって言うんだ」
「キミの親父さんが、捕まったのは何でなのか、知ってる?」
「いや……」
「本当に?」
「しつこいな。本当に知らない。ある日いきなり、家に沢山の警官がやってきて、親父とお袋を掴まえていったんだ。兄貴と姉貴が、慌てて俺を隠して、連れ出したんだ。……何でか、なんて調べる間もないよ」
「だけどそのにーさんねーさんは何もキミに言わなかった訳?」
「出来れば、そんなこと忘れさせて育てたかったんだろ。そのくらいの余裕は兄貴にも姉貴にもあったし」
「だけどキミは戻ってきた」
「だからどうだって言うんだ」
「いや」
キムはひらひらと手を振る。
「俺が知りたかったのは、これだけ。知りたかったのはね。それで安心した。俺はどうやらそう間違ったことをしていないらしいしね」
「一体何のことだ?」
ソングスペイは眉を寄せる。そして椅子を回し、やや身を乗り出した。
「後は、弾劾だ」
横の机に頬杖をつきながら、にっこりとキムは笑った。何だって、とソングスペイは思わず椅子を立ちかけた。そしてその手が次の瞬間、押さえられるのを感じた。
すごい力だ、と彼は思った。そして、脳天まで、一つの刺激が走るのを感じた。
全身が総毛立つのを感じた。
触れられた手のひらに、明らかに、その信号が、ある回数を伝わってくる。
彼は捕らえられたままの手が次第に汗ばむのを再び感じた。振り払う。そして、ようやくその時、彼は自分の「同僚」が、何であるのか理解した。
「……キムお前は……」
「暢気なものだな、ソングスペイ」
口調が変わる。だが表情は変わらないままだった。凍り付いたような、明るい笑み。
図書館はその日、静けさとは無縁だった。あちこちで貼られた新聞の話が繰り広げられている。
いや新聞だけではない。自分自身が、それにどう対処するのか、それがどういう意味を持つのか、そんなことをとりとめもなく、次第にヴォリュームを増す言葉で討論している。
ばっかじゃねーの?
キムはそれを横目で見ながら内心つぶやく。
討論する暇があれば、何かすればいいんだ。
彼の中では、まだあの先走りな新聞部や演劇部の連中はましな方だった。とりあえず、何かやろうとはしている。おそらく彼らはこの後、ひどく壁にぶつかるだろう。それは見えすぎる程見えている。
だが、何もしないよりはましだ。
司書達もさじを投げた状態の館内は、そう簡単に会話が聞き取れる状態ではない。そして彼らは館の端に居た。
「……何を…… 俺が、何を……」
「あいにく、俺はお前の弁解を聞いている程の時間はないからね」
掴まれた手から、痛撃が走る。ソングスペイは反射的に、その手を振り解いていた。
がたん、と大きな音を立てて、椅子が倒れた。だが周囲も似たかよったかの状況ゆえ、その程度のことで、視線が集中することはない。ふらり、とキムもまたその場に立ち上がった。
「いずれにせよお前は追われるんだよ、ラーベル・ソングスペイ。我らが組織の命に背いて、この地での反体制運動を妨害せんとしたこと」
「……俺が一体」
「あいにくお前の手持ちは、俺の方に従順だったよね」
そういえば、と彼は思い返す。新しく反体制派に加わった連中を次々に襲撃させるはずだった、のに……
それはいつの間にか自分の視界から消えていた。不可解だったが、大声で探す訳にもいかず、行動は滞っていた。
「しかもそれはそれとして、お前自身は、我らが組織の一員だ。それが軍警の少尉どのとはね。コルネル中佐がさぞ喜ぶことだろうね」
「……き…… 貴様は…… 貴様は何だと言うんだ!」
「あいにく、俺は別に本当の軍警じゃあないんだけど?」
くく、とキムは声を立てる。ソングスペイはゆっくりと後ずさりする。
ざらりと前に回っていた髪の毛を流すと、キムは
彼の足もまた、ソングスペイの後ずさりと合わせるかのように、少しづつその床の上を、滑らせるようにゆっくりと動き出した。
緊張が切れるのは一瞬のことだった。
ソングスペイは、いきなり机にばん、と手を置くと、それを飛び越えた。キムもまた、それを追うように机に飛び乗った。
図書館を走ってはいけません! とヒステリックに司書の声が響く。そんな場合じゃないんだよ、とソングスペイは全身に走る悪寒を振り払うように、館内を走っていた。
あれは。
彼は今にも自分の動きを止めそうな悪寒の中で、奇妙に冷静にそれを判断している自分に驚いていた。
噂には聞いていた。組織を……「MM」を、その内部から裏切る者には、確実に死をもたらす執行人がやってくるのだと。
反則だ、と彼は思った。
それが、あんな笑いをたたえているなんて。無邪気とも取れる、あんな笑いを始終浮かべているなんて。
階段を駆け下りる。頭上から、やはり降りていく音がする。
逃げなくては、と彼は思った。心底思った。ひたすら思った。
逃げなくては。殺される。
殺されるのは、嫌だ。
だがキムはそんな彼の思いとは裏腹に、階段の踊り場で、足を止めていた。顔にはいたずらをする少年のような表情が浮かんでいる。
とりあえず、聞きたいことは聞いたんだ。
彼は思う。
ヴェラとジナイーダ、あのウーモヴァ姉妹に自分の記憶を曖昧にさせる時、ついでにヴェラの懸念していた「自分達のせい」――― 外れていた電話の盗聴が、リャズコウ氏の逮捕につながったということをも霧の中に隠してしまった。
忘れさせた訳ではない。曖昧に、思い出しにくいこととして、少しばかりヴェールをかけさせてもらったのである。
それが何になる、と中佐なら言うかもしれない。起こってしまったことは仕方ない、と。実際自分もそうは思うのだ。
だが。
彼はこだわっているのは、ヴェラの方なのだ、と気付いてはいた。
ジナイーダは自分を守るために、その部分を忘れていた。いや、忘れさせていた。
だがそれはよくあることだ。
本当に辛い記憶だとしたら、それは、無意識にでも何でも、とりあえず見ないようにでも何でもし、とりあえずの時間を過ごすのだ。
逃げと言ってしまうのはたやすい。
だが人間にはそれができる。できるということは、それが必要な時もあるということだ。
キムはほんの少しだけ、彼女が羨ましかった。
彼女だけでなく、人間が、羨ましかった。
どれだけ楽だろう? 忘れられるのなら。
彼には忘れることが、できない。
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