35.キンモクセイは花の時期を終えていた。

 何故だ、とラーベル・ソングスペイは思った。

 いや、思っていた。今現在の彼には、ゆっくりと物事を考えるだけの時間はもはや無かったのだ。

 何故そうなったのだ、と彼は無意識に頭の中で叫ぶ。

 ばん、と走り去る人の、肩にぶつかる衝撃に、彼はよろけ、背中をしたたか、壁にぶつけた。

 そしてその壁の鮮やかさに、それが「絢爛の壁」であることにようやく気付いた。

 消えた街灯。いや消えたのではない。その周囲には、石と、ガラスの破片が飛び散っている。片づける者など何処にもいない。そんな暇が何処にある?

 彼は唇を噛みしめる。背中が寒い。だけど仕方がない。

 知っていた。その時が来たのだ。

 キンモクセイはもう、その花の時期を終えていた。


   *

 

 発端は、ある朝の大学構内の掲示板に大きく貼られた新聞の号外だった。

 それはいつものそれとは違い、大きな見出しは赤の文字で書かれ、その口調はいつもの穏やかな編集長特有のものとは異なっていた。問いかけと命令の混じった口調は、学生達にとっては見慣れないものだった。

 だがその新聞の発行元は、彼らがなじみ深い新聞部のものだった。ちゃんと編集長イリヤの名もある。

 学生達は掲示板に群がり、ある者は背伸びをし、ある者は人をかき分け、ある者は飛び跳ねて、その内容を目にしようとした。

 そしてそれは校内の中央掲示板だけではなかった。各学群にあるそれぞれの掲示板、壁、柱、見渡せば至るところに、その赤い文字が目につく。

 その横をヴェラは足早に走り抜ける。短い髪を揺らせ、やがてその姿は、林の中に入って行った。校内のあちこちに点在する緑は、天然の抜け道や隠れ場所を形成する。

 彼女は狭い道を通り抜け、文系サークル棟へとたどり着く。廊下に直接入る裏口から中に入り込むと、脇の階段を勢いよく上り、目的の部屋へと駆け込んだ。


「お帰りヴェラ」

「どうだった?」


 声が飛ぶ。そこには既に、十名くらいの者が集合していた。新聞部、演劇部、文芸部といった文系サークルの中から今回の目論みに参加したメンバーが、その時そこには集まっていた。


「どうだった? 反応は」

「上々よ」


 彼女はにっこりと笑う。


「何処でも皆、群がっていたわ。とりあえず学内情宣はいい調子よ」

「だがいたずらに成功を喜べる状況ではないな」


 ゾーヤは腕組みをし、冷静にそう言う。


「教授の安否が気遣われる。我々の行動がどう当局に取られるか」

「それを怖がっていては、何もできないじゃない」

「それはそうだ。だが」


 ヴェラは首を横に大きく振る。


「教授自身が言い出したことよ。あたし達にできるのは、教授があたし達に託したことを遂行することだけだわ」


 そうだそうだ、と周囲も声を上げる。

 ゾーヤはとりあえずはうなづいて見せたが、やや何か引っかかるものが残ってはいた。彼女の記憶の中で、妙に赤いものがよぎるのだ。だがそれが何であるのか、彼女には思い出せない。その「思い出せ無さ」が疑問を呼び起こす。

 だが今の状態で、直接カシーリン教授から「頼み事」を受けたヴェラやジナイーダ姉妹や、「その時」が来たと高揚している自分の恋人を冷静にさせるのは難しい。志気が下がると一喝されるだけのような気もする。

 では自分は。彼女は思う。せめて私だけはこの妙に冷めた部分を見失わずにいよう。

 彼女は決して楽観主義者ではなかった。それが裏目に出ることも過去にはあったが、とりあえず今の今においては、それを忘れてはいけないような気がしていたのだ。

 カシーリン教授がこの数日前、当局に「本当に」逮捕されていた。これまでの執筆活動が「反政府主義的」であると見なされたとのことである。

 それを合図に、新聞部は、シミョーン医師に関するすっぱ抜きと、それと平行したカシーリン教授の逮捕に関する学生への問いかけ、を始動させた。

 演劇部は公演の準備に、学内の芝生広場にテントを張った。その中は演劇の本番に使われるものがあるから、と関係者以外立ち入り禁止だった。

 ジナイーダはその中へと度々入り込む。彼女は台本を少しづつ変化させていた。予定の行動が、次第にその内容を変えていく。出演する役者達も、その意図を次第にくみ取りはじめ、それに賛同する者は残り、しない者は他言無用を約束させられた末、演劇部自体から離れていった。

 毎日がめまぐるしく、そしてひどく楽しいとジナイーダは感じていた。

 身体は疲れている。何せまともに寮に帰って眠れる日の方が最近は少ない。いい加減な姿勢で、適当な格好で眠るから、身体はだるい。何やらいつも眠いのだが、妙に頭の中は冴え冴えとしている。

 ヴェラは公演の練習の合間、市内に住む学生の下宿に身をひそめているブラーヴィン氏と暗号の電話をし、時々会っている。その行動を妹は冷静に見送る。

 

 そしてその彼らの行動全体を冷静に見る目もあった。



「よぉ久しぶりじゃん」


 図書館の四階の窓から、大通りや芝生広場の辺りの学生の動きをぼんやりと見下ろしていたソングスペイ少尉は、その明るい声に、慌てて本を開け、顔を上げた。栗色の長い髪の同僚がそこには居た。


「キム…… か」


 思わず少尉、と階級名を口に出しそうになり、口の回りが遅くなった。


「何か騒がしくなってきたねえ」

「そのようだな」

「そろそろ始まるってことかねえ」


 キムはそう言いながら、窓際のソングスペイの横に立った。

 何が、とソングスペイは訊ねる。


「無論それは、キミの考えてることでもあるでしょ」

「俺が? 何を考えてるって」


 ふふん、とやや上官と似た笑い方をすると、キムはそばにあった椅子を引き寄せ、腰を下ろし、脚を組んだ。


「まあそんなことはどうでもいいのさ」


 キムはにっこりと笑う。そして長い髪の毛の一房を取ると、くるくると指で玩ぶ。


「俺はキミに一つ、聞きたいことがあったのよ。答えてくれないかなあ」

「質問されてもいないのに、答える訳にはいかないだろう?」

「それは非常に学生らしい答えだねえ」


 彼は組んでいた脚を解き、今度は腕の方を組んだ。


「ウーモヴァ姉妹を知ってるかい?」

「ウーモヴァ姉妹?」

「ほら、キミがこの街に住んでいた頃の、幼なじみのウーモフさんちのおじょーちゃん達さ」


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