34.つながるところから伝わるもの

「この悪党め」


 中佐はつぶやいた。何か言った? とキムは荷物を整理しながら訊ねた。

 学生用の下宿を引き払う時期だった。別に踏み倒してもいいのだが、立つ鳥は後を濁さないんだよ、というキムの主張が妙におかしかったので、中佐は文句を言うのはよした。

 だが、それ以外の点では。


「お前、俺等の関わった連中全部の記憶を消したろ」

「消したなんて人聞きの悪い。おぼろげにしただけだよ」

「同じことだろ」

「でも必要でしょ」


 答えながらも、ベッドの上に衣類を広げ、それを畳んでいる手は止めない。手際がいい。てきぱきと、その作業は進んでいく。


「そろそろそういう時期だよ」

「気に入らないな」


 何が、と振り向こうとした時だった。キムは自分の身体がバランスを崩すのを感じた。視界が、急に回る。微かな風が、耳と髪をなぶる。

 畳まれつつあった服が、跳ね飛んで、広がった。

 そして次の瞬間背中に、重なった布の、やや冷ややかな感触があった。体術の要領で、自分は仰向けに押さえ込まれているのだ、と冷静に事態を把握していた。


「……何だよあんた急に」


 だがそれでもキムの表情は冷静だった。驚いた表情を作っている、と中佐は感じた。それを見て、急に苛立ちが胸に沸き立った。止まらない。彼は相手を押さえ込む手の力を強くする。


「何あんた怒ってるの」

「怒ってる訳じゃない」

「怒ってるじゃない」


 自分が何に苛立っているのか、中佐は未だによく判らなかった。そして相手の長い髪を掴むと、それを首の両側に回した。


「時々俺は、お前を殺したくなるよ」


 中佐は低い声でつぶやいた。

 だがつぶやいた言葉自体に驚いたのは、自分自身だった。


 そんなことを俺は考えていたのか?


 だがキムの表情は変わらない。凍り付いたかのように、その表情は動かなかった。

 手に力をこのまま込めれば、互い違いの髪をそのまま引っ張れば、中佐の力なら、たやすくそれは可能だった。少なくとも、相手が人間なら。


 何か言ってみろ。


、中佐は内心つぶやいた。つぶやきはやがてそのヴォリュームを上げる。


 表情を変えてみろ、その貼り付いたような、凍り付いたような笑いじゃなく、何か、お前の、別の表情を、本当の表情を見せてみろ!


 だがやはりその表情は変わらなかった。


「……殺したければ殺せばいいんだ」


 穏やかな声が、中佐の耳に届いた。


「何だって」


 思わず彼の手の力が緩む。


「殺したければ、そうすればいいんだ。Mだってそうだ。あんた程タフであろうがなかろうが、どうして俺を銃にしないんだ。前線に送って、あのひとの銃で、それで、何処かの空に四散してしまって、俺は構わないというのに。だけどMはそれは許さないという。それが約束だって。俺の知らない約束があるからって」


 キムの口から、うわごとのように、言葉はつむぎ出される。

 何のことだか、中佐にはよく判らない。何かが、まだ隠れている。そして自分だけが、その何かを知らない。


「何を言ってる?」

「あんたは知らないの?」


 言うが早いが、キムは身体を起こした。真っ直ぐな視線が、金色の瞳に突き刺すように飛び込む。


「俺が、何なのか」


 何のことだ、と彼は思った。何かを隠されている、と彼はずっと思ってきた。だが、そうではないのか?少なくとも、この相手は、それを知っている、と思っていたのか?


「Mは、何もあんたに言わなかったんだ?」

「何を……」

「言わなかったんだ!」


 あはははは、と急にキムは笑い出した。

 聞いたことの無い笑い声だった。ひどく耳障りな声だった。

 だがキムはそんな中佐の考えなどどうでもいいのか、笑い声を止めることもせず、頭を大きく振りながら、腕を伸ばすと、それを中佐の首に巻き付けた。

 笑い声は続いている。

 ひどく耳障りだ。中佐はうつむくキムの顔をぐっと上げさせた。笑顔がそこにはあった。

 だが、その目からは、だらだらと涙がこぼれていた。

 隠すことも拭うこともせず、ただ大きく開いた目から、だらだらと流れていた。

 その表情に驚いていたら、相手が急に、唇を合わせてきたのに中佐は身動きが取れなくなった。

 何を考えているんだ、と中佐は思った。

 いつもと違う。いつもどころではない。妙だ。妙すぎる。

 喉から嗚咽のような声を漏らしながら、それでも、それを強く、深く、それを止めようとしない。

 どうしたものか、と中佐は思った。

 だが、思ったところで始まらない。時間はあった。彼は相手の髪をややきつく引っ張ると、自分の手にも力を込めた。


   *


 何かが、つながってくる。

 聞こえてくる。見えてくる。

 中佐は、それが何処から聞こえてくるのか、何処から見えるのか、見当もつかなかった。

 だが彼は知っていた。

 それは、目の前で泣きながら手を空にさまよわせる相手の言葉、相手の見ているもの、見ていたもの、そして。

 所々に入るノイズ。誰がそうしているのか、彼は気付き初めていた。


   *


 連れていって欲しかったんだ。

 俺はずっと思っていた。長い間、ずっと思ってきた。

 身動きが取れず、何も見えず、何も言うことが出来ず、ただひたすら居るだけの時間の中、ずっと考えていた。

 遠い昔。

 あの雪の降りしきる惑星の、空に舞い上がる光の中に、自分を加えて欲しかった。

 それが叶わないだろうことは、もうその瞬間が来た時には俺は知っていた。

 あのひとが、そう言ったんだ。俺達の首領が。


 お前は違うんだ違うんだ違うんだ。

 お前は違うから。

 お前は誰だ?


 そんなことを聞かれて困る、俺は俺だ、どうしてそれ以外と言うんだ、あんたは俺が誰であってほしいんだ、俺を誰と見たいんだ、俺を見てるんじゃなかったのか?

 首領の目は俺を通りこして向こう側の何かを見ていた。それは俺に取りついていた。首領はそれが見えたから俺を拾った。

 俺じゃない。

 俺じゃないんだ。

 俺じゃないんだ。

 でもそれでいいと思っていた。それでもあのひとのために、仲間のために動いていた。動こうとしていた。

 最初に自分を救ってくれたから。

 最初に名前を呼んでくれたから。

 最初に……


   *


 中佐はその誰か、のイメージが自分の中に入り込むのを感じた。それは何処かで見たことがあるような気がする。いや絶対に見たことがあるはずだ。

 座ったまま、自分の上に乗せた相手の背中をくっと引き寄せる。いつもより息が荒い。胸に跡をつける。声が漏れる。いつもとは違う。

 だがその誰か、が「現在」の引き出しの中にはない。

 あるなら「過去」だ。

 それがどのくらいの過去なのか、彼にはやや予想ができなかった。

 現在についてでも、自分の叩き込んだ大容量の記憶と知識の中から一つの物事を探し出すのは容易な技ではない。それが「過去」となると、ことさらだ。

 こらえきれずに相手の漏らす声が、うめき声と似た感触をもっている。相手の手が、自分の真っ赤な髪をまさぐるのを感じる。そうだ勝手にしていろ。

 耳に飛び込む声。眩暈を起こしそうだ、と彼は思う。

 頭には、まだ飛び込んでくる。

 

   *


 一面の雪一面の雪一面の雪。

 広がる長い髪の毛は、ほんの少しだけ、編みぐせがついている。教えてくれたのは誰だっけ顔は何となく覚えているのに名前が出てこない。

 眠りたい眠らせてくれ。もう何も俺は考えたくない。


 疲れた。


 目は閉じたからもう見えない。空に上ってくあの光が。

 仲間が。

 俺は違うんだ俺は行けない。

 四散する仲間の、あの中には、入れない。

 帰りたい。

 帰るべき場所に、帰りたい。


(それは俺が思うのではなく俺の中の何かが言うんだもっと深く遠く昔の記憶が言うんだずっと昔ずっと昔ずっと昔俺達がまだ―――だった頃の記憶だまだ全てが一つで全てが皆で全てが俺でもあった頃だ)


 でもそれは俺には叶わないんだ。


(そしてその帰るべき場所などもうこの世界の何処にもないのだから)


 だとしたら、いっそのこと、俺を誰か、破壊してくれ。

 誰でもいい。

 誰でもいいんだ。

 俺を、この世界から、まぎれもなく、消滅させてくれ。

 俺の思考も記憶も、全て跡形もなく、雲散させてくれ。

 

   *


 中佐は眉をしかめると、逆手に相手の背に回していた両の手のひらに思い切り力を込めた。

 それまで宙に浮いていた相手の手が、急に何かすがりつくものを探すかのように、自分の背に回るのを彼は感じた。

 上がる息に上下する肩を押さえつけるように彼は力を込める。

 やや顔を上げて、乱れた長い髪に隠れがちな相手の顔をのぞき込む。涙は止まらない。

 彼はそれを見て、左の手だけをずらすと、相手の頭を抱え込むように引き寄せた。

 髪をかき上げるような動作になってしまったのか、相手は一瞬嫌そうに首を振ろうとした。

 構わなかった。相手が力では自分には勝てないのを彼は知っていた。

 かなり強引に、唇を合わせ、相手の中に押し入った。珍しい程の抵抗がそこにはあった。舌を噛まれるのではないか、と彼は思った。

 だったらそれはそれでいい、と彼は思った。

 頬に長い相手の髪が触れる。右手でそれを掴んで、絡めた。顔が見える。表情が判る。ひどく間近な、表情が、判る。

 半ば目を閉じた、その表情は、今までのどの時よりも、彼には心地よかった。

 一度離れ、彼は一瞬舌なめずりをし、再び同じことを相手に繰り返した。今度は抵抗は無い。


「殺してやるよ」


 そしてまた離れた瞬間、彼はつぶやいた。


「その時が来たら、俺が、お前を」

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