30.ヴェラはブラーヴィンに近づく
その朝、ブラーヴィン氏は、けたたましいドアベルの音で目を覚まされた。
最初に気付いたのは、彼でも彼の妻でもなく、彼らの犬だった。
吠え立てる愛犬の声があまりにもせっぱ詰まったものだったので、朝も早いというのに、この引退した司法長官は起き出さなくてはならなかった。
カーテンのすき間からのぞくと、確かに窓の外、ぶちの愛犬は何かに向かって吠え立てている。
それがおそらくは、この早朝というのにひっきりなしにベルを鳴らす礼儀知らずなのだろう、と彼は思う。だが、その主の姿は見えない。
仕方ないな、と彼はガウンを着込むと、戸口へと向かった。だが一応、ナイトテーブルから銃を出すのは忘れていなかった。隠遁したと言えども、彼には敵が多かったのだ。
だが、戸口まで来た彼の耳には、思いがけない声が聞こえてきた。
「……やぁ…… ねえお願い! 吠えないでよぉ……」
泣きそうな声。まだ若い女性のものだ。そして愛犬の鎖のがちゃがちゃ言う音。
一体何だというのだ?彼はドアに鎖を掛けて、少しだけ開けた。途端にそのすき間からぬっと手が入り込んでくる。慌てて彼は手を離してしまった。
「きゃあ!!」
若い女性は悲鳴を上げる。手をはさんでしまった。ブラーヴィン氏は慌てて、扉を開けた。
その場にかがみ込んでいたのは、本当に、若い女性だった。よほと痛かったのだろう。喉の奥からうめき声を発しているようだった。
「だ、大丈夫かね?」
「大丈夫な訳ないでしょ!」
鋭い声が、若い女性の口から飛び出す。彼は一瞬自分が、水を頭から掛けられたような気がした。その位、その女性の声は凄まじい一撃があった。
こういう声を聞いたことがある、と彼は思った。あれは、確か、まだ彼が司政官の近くで働いていた頃だ。出来たばかりの劇場で、居心地の悪い気持ちで始まった芝居の、最初の一声。
ぶんぶんぶん、と音がしそうな程、はさまれた手を、もう片方の手でかばいながら振ると、彼女は立ち上がり、一礼する。
「失礼しました。ブラーヴィン司法委員」
「わたしはもうそんな役ではないよ」
大まじめに言う彼女に、彼は穏やかに苦笑する。また何か、からかい半分の学生なのだろう、と彼は自分を納得させる。
さあ何と言って帰そうか?
頭の半分がそんな考えを巡らせ始めた時、彼女はにっこりと笑った。あでやかな笑いだった。彼の脳裏に、再び記憶がだぶる。
「ええ確かに今は、そういう役ではないかもしれませんわね」
「そうだよ。朝早くから来たのに悪いね」
「だけど、これから違う筈ですわ」
再び彼女はにっこりと笑う。耳の下くらいで切り揃えた髪が、まだ朝の肌寒い風にざっと揺れた。
ブラーヴィン氏は、その時初めて、彼女が奇妙な姿をしていることに気付いた。
確かに短く切られた髪は、まとまってはいる。だが、どうも所々、砂を払ったような跡がある。衣服も、転んだかのようにあちこちが汚れ、履いているジーンズの膝も破れている。
「カシーリン教授からの伝言を伝えに来たんです」
「何!?」
彼の表情が、見る見るうちに変わる。寝不足のような、彼女の目は、血走って赤い。その目はぐっと彼をにらむように見据える。
「かつての同志に、再び協力してほしい、と」
落ち着け、とブラーヴィン氏は思う。これ自体が罠かもしれないのだ。あの司政官は、そういう奴だ。自分をあの場から追い出した時もそうだった。引っかかった自分が甘いと言えば甘いのだが、……油断はできない。
「……証拠は……」
はい? と彼女は首をかしげる。
「何か君が、カシーリン教授の使者だという証拠があるのかねと言ってるのだ」
「そうおっしゃると思ってました」
彼女は上着のボタンを一気に外すと、中に着ていたTシャツの胸に手を突っ込んだ。そして何かを破るような音がブラーヴィン氏の耳にも届く。
「これを」
彼女はまだぬくもりが残る手紙を渡す。ブラの裏に縫いつけてでもあったのだろう、強い繊維でできた紙が、ミシン目のような跡をつけて破り取られている。
「あたしには何がどうなのか判りませんが、あなたなら判るだろう、と教授は言われました。如何でしょう」
むむ、と彼はうめく。
「とにかく、中に入りたまえ」
彼は彼女を中に招き入れようとして、ふと思いだしたかのように、名前を訊ねた。
「ヴェラ。ヴェラ・ウーモヴァです」
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