31.ジナイーダはひたすら手を動かしていた。
あちこちへと今にも飛び跳ねそうな髪をヘアバンドをつけ、後ろできっちり編んで、いつもなら着ないはずのTシャツとジーンズを身につけていた。確かに動きやすい。どうして今まで着る気がそう起きなかったのか不思議なくらい、動きやすい。
いやそうではない。
慣れない金槌を手に、彼女は湧き出す考えに沈みそうになって頭を振る。どうしたの、とゾーヤが訊ねた。何でもない、と彼女は答えた。
台本は変更されたのだ。彼女は演劇部の中に、その時居た。
何がどう筋道が変わったのだろう、と彼女は思う。
なのだが、それを当然と考えている自分もいる。
とんとんとん、と釘を大道具のはずだった立て看板に打ち付けている。ゾーヤは真っ白な紙を張り合わせては、横においたアルミのカップに、溶いた赤と青の絵の具で、下書きした大きな文字を塗っている。
「大丈夫だろうか?」
ゾーヤはふと手を止め、ジナイーダに訊ねた。この人は何となく気が落ち着く、と彼女は思う。姉が感じたのと同じことだったが、この素っ気ない程の態度、いきなり飛び込んできた彼女を何のこたわりも無しにこの中に入れた態度は、彼女にとっては嬉しいものがあった。
そして姉は。
「大丈夫だと思うわ」
妙に確信めいた言葉に、ゾーヤは首を軽く傾げた。鉄色の髪が、ざらりと落ちた。
「ヴェラはそういうの、すごく強いのよ」
「ああそうだな。彼女はいつも、本番に強い」
そうよいつもそうだった。だから。
彼女は先日のことを思い出す。
ぼんやりとした頭で、誰かに連れていかれた場所は、学内でもやや「山の中」と言っていい程の林の中にある文系サークル棟だった。夜中でも灯りのついている所へ、確かに自分は誰かに連れていかれたはずなのだ。
だがそれが思い出せない。
着いた場所で、彼女は扉を開かれた。そこには姉と、もう一人、見知った顔があった。
「カシーリン教授!」
あまりに驚いたので、彼女は自分の後ろで扉が閉まったのも気付かなかった。
そこは文芸部の部室だったらしい。だが部員はそこにはいなかった。居たのはヴェラと教授。その二人だけだった。
「どうして、教授がここに…… それにヴェラ…… どうして?」
どうして、と聞かれた時の姉の顔は、一瞬呆然とした。
「どうしてって…… うん、どうしてだろう……」
ヴェラにはあるまじき対応だ、とジナイーダは思う。だがそれは目の前の事態そのものに比べれば些細なものだった。カシーリン教授は、こう言ったのだ。
「私が君たちを呼んでもらったのだよ」
笠を持たない電灯の、透き通るようなやや暗い灯りの中、ゼミで聞き慣れた筈の教授の声は、いつもと違った重みをもっていた。
「近々私には、逮捕状が出るだろう」
二人は息を呑んだ。予期されないことではなかったが、いざそれを現実味を持って言われると。
「だけど…… 教授は何も悪いことはしてはいないではないですか!?」
ジナイーダは思わず声を立てて問いかける。背後で足音が消えていくような気はしたが、それどころではなかった。
「そうだ。私は悪いことをしたとは思っていない。学問をする者が、その研究を思うように口にして何が悪いというのだ?少なくとも、それは政治というもので止められるべきものではないはずだ」
二人は大きくうなづく。ああそうだ、とジナイーダは自分が教授の授業を最初に受けた時の感動を思い出す。
「そこで私は、多少なりとも抵抗をしてみようと思う。そこで、君達に手伝ってもらいたいのだ」
その時思いがけない事態に、自分の胸がいきなり熱くなったことをジナイーダは覚えている。それは今までに無かったものだった。少なくとも、教授は、自分をも必要としているのだ。姉だけではない。あの、「言葉を力に」変える力を持っている姉だけではなく。
なのだが。
彼女の頭の中で、何かが引っかかっている。一体自分をあそこまで連れてきたのは誰だったろう。薄ぼんやりとした姿が、時々脳裏に浮かぶのだが、そのたびに、きらきらとした何かがそれを散らしてしまう。
「どうしたのだ?」
ゾーヤはふと手を止めた彼女に訊ねる。何でもない、とジナイーダは答えた。
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