16.キンモクセイがこの時期に咲くのは、この辺りなのだ。

「ジーナっ!!」


 ぼんやりと目を開く妹に、ポットを手にしたまま、ヴェラはほぉ、と息をついた。


「……ヴェラ? 何で……」

「ねーさんって言いなさいよっ!…… 心配したんだから」

「何?」


 ジナイーダはゆるゆると手を伸ばし、視線は天井のまま、顔にかかる髪の毛をかき上げた。あの天井の染みには見覚えがある。自分の部屋だ。


 ……何であたしは自分の部屋に居るんだろう?


 そしてそう思った時、彼女は勢いよく飛び起きた。

 だがまだ薬の効いている身体は、そう簡単には調子が戻らない。起きたと思ったら、途端に頭の芯が揺らぎ、身体がふわっと浮くような感覚がある。そしてばふ、と再び彼女はベッドに倒れ込んだ。

 ヴェラはポットとカップを勢いよく置くと、妹のベッドに駆け寄る。


「何やってんのよ! あんたまだ薬が効いてるんだから」

「薬って…… 何、何があったっていうの?」

「あたしが聞きたいわよこの馬鹿!」

「馬鹿とは何よ!」


 叫んで、途端に頭にずき、と走る痛みにジナイーダは顔をしかめる。


「な、何よお、これ……」

「だから、薬…… あんた、カシーリン教授のとこであったこと、覚えてないの?」

「教授のとこで?」

「キム君だっけ? 彼とその友達があんたをここまで持ってきてくれたんだからね」

「キム君が?」


 途端にジナイーダは自分の頬が熱くなるのを感じる。


「どういう友達かはあたしはどうでもいいけど、彼もあの場には倒れていたのよ? 何があったの? あんた等と、教授と」

「……別に…… ただあたしは、キム君が教授の本に興味があるから、一度ゼミに連れてってって言うから……」

「ゼミに? 彼はあんたが教授のゼミに居るって知ってたの?」


 ジナイーダはうなづいた。間違いではない。


「だって彼、同じ授業取っていたわ。文学部よ」

「……ああ、そうね」


 ヴェラは口ごもる。どうしたと言うのだろう、とジナイーダは何やら苛立つ自分に気付く。一体最近のヴェラは何を言いたいのかさっぱり判らない。

 そういえば、と彼女は頭の中をよぎる長い髪の彼の姿から、一つの記憶を引っぱり出す。確か彼と最初に出会ったのは。ジナイーダはぱっと顔を上げて、姉の顔に視線を移した。


「……ねえヴェラ、こないだアナタ、何言いかけたのよ」

「何って…… 何よ」

「ほら、こないだあたしを大階段で待たせた時」

「……ああ、あの時ね」

「ヴェラあたしに、何か誰かが戻って来てるって言ったでしょ?」

「……言ったわよ」

「だから、あの時、何を言いたかったのよ、あたしに」


 ふう、とヴェラはため息をつく。

 そして勉強机から椅子をずるずると持ち出すと、ベッド脇に腰掛ける。ジナイーダは何やら姉の様子がやはり奇妙であることに気付く。

 そしてぎく、と心臓が飛び上がるのを感じる。姉は自分の手をぎゅっと握りしめ、うつむいていた。


「……ヴェラ、……ねえ」

「ねーさんって呼びなさいってば。同じ学年だろーが姉は姉よ」

「でもヴェラはヴェラよ」

「……この馬鹿。……ラーベルが帰ってきてるのよ」

「それは聞いたわ」

「だけどあんたは、覚えていなかったじゃないの」

「何を?」


 ヴェラは顔を上げる。自分とよく似た、だけど自分よりずっと強い瞳が目の前にあるのをジナイーダは感じる。


「……じゃああんた、ラーベルがどうして戻ってきたのか判らない?」


 戻ってきた。ということは、少なくとも、ここに居た訳ではないということだ。


「何処かに住んでいたの? 引っ越して……」


 確かに自分達も、引っ越したのだ。あのキンモクセイの香りの漂う家から、バウナンに。

 引っ越した。

 ではそこはバウナンではない。


「ちょっと待って……」

「ジーナ」


 何かが、隠れている。


「ねえジーナ。あたし達は、あのキンモクセイの家は、何処にあったのか覚えていないの? あれは、シェンフンよ? ここなのよ?」


 ジナイーダは目を大きく見開いた。


 そう言えば、そうだ。


 キンモクセイがこの時期に咲くのは、この辺りなのだ。彼女達の住んでいたバウナンは、この中心の都市よりずっと北の都市だ。花の咲く時期も確かに違う。


「あたし達は、あの頃、シェンフンの中心街よりはやや外れた町に住んでいたわ。そして隣は、町一番の実業家のリャズコウさんの家だったわ」

「……」

「だけどリャズコウさんは、ある日特高に捕まって、それからすぐに、あのキンモクセイの家は閉ざされて、家族が何処に行ったのかも知れなくなった。ラーベルもそうよ。彼は歳の離れたきょうだいに連れられて、この州から…… いえ、かなり取り急いで、この惑星から出て行った、と噂で聞いたわ」

「……何それ」


 ジナイーダはつぶやく。そんな話、初耳だった。


「そしてあんたは何もそのことについては覚えていないのよ」

「覚えているいないも…… あたしそんなの、初耳よ!」


 彼女は姉に詰め寄る。そうだ。そんな話、聞いたことがない。だが姉は首を横に振った。


「あんたは知ってる筈よ。あの頃何も見ていなかった訳じゃないじゃない。あたしとずっと一緒に居たんだから。だけどあんたはバウナンに越してから、ずっとその事を口に出さなかった。あたしはてっきり良くない思い出だから、口にしないようにしていたのかと思った。だけど違う。違ったわよ。あんたは、覚えてなかったのよ」

「な……」


 ジナイーダは首を大きく振る。そして同じ言葉を自分の中で繰り返す。そんな話、聞いたことが無い!


「……でもそのことを今あれこれ言っても仕方ないよね。だけど、そのラーベルが、戻ってきてるのよ? このシェンワンに」

「……だって、特高に親が捕らえられたからって、彼が戻ってきてよくないってことはないでしょう?」

「あんたは何も知らないのよ、ジーナ! 彼はそれに、リャズコウって名で戻ってきてるんじゃないのよ? リャズコウって名を隠してるのよ? それでも帰ってくるなんて……」


 そしてまたしっかりと手を握る。気のせいか、姉の手はやや震えているようだった。


「……そもそも何でリャズコウさんが捕まったのか、あんたは覚えてないんだから……」

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