17.ラーベル・ソングスペイ少尉

 ぺらぺら、と彼は手にした本を繰る。カシーリン教授の「言葉の力」だ。

 そう厚い本ではない。

 こういった大学の教授の書いた本にしては、明るい、優しい色の装丁と、細かすぎない文字のせいか、それは学術書というよりは、少女のためのエッセイ集と言ってもおかしくないような雰囲気がある。


 実際、すぐに自分は読み終えてしまったことだし。


 それに彼は、この言葉には慣れ親しんでいる。いやむしろ、この言葉自体が自然なもので、今の今までやってきた暮らしの中で使っていた言葉自体が嘘の様に思えて仕方がなく感じなくもない。

 言葉というものは、いつまで経っても、その力を失わないものだ、とラーベル・ソングスペイ少尉は苦笑とともに思う。

 この惑星を自分が離れてから、もう長い時間が経っている。幼い自分が、殆ど兄に横抱きにされるようにして、生まれ育った家を飛び出して以来。

 目の前の光景に、意識を失って以来。

 それから生きるためにと、歳の離れた兄や姉に詰め込まれた言葉に、生まれた場所の言葉は押し出されたと思っていた。だが違っていたようだ。

 この惑星に足を踏み入れ、この州に入り込んだ途端、彼の口からは、するりとここの言葉が飛び出した。いや無論、それまでも、気を抜くと、その言葉は飛び出していたのだが、それは意識されることがなかった。

 だが通る人々とすれ違うたびに、店の売り子と目が合うたびに、飛び出す言葉。そういうものは理屈ではないのだ。

 学生のよく持つような肩掛けカバンを背負い、彼は熱心に本を読むふりをする。もうじき、約束の相手はやってくる。相手が指定したのは、この場所だった。

 そこはかつて、彼が住んでいた家の前だった。

 偶然だろうか、とソングスペイ少尉は思う。

 彼の上司は、彼がこの惑星の出身ということは知らない筈である。書類を偽った訳ではない。彼と彼のきょうだいは、この惑星を飛び出す時に、その戸籍を抹消したのである。新しい戸籍は、全く違う言葉を話す、別の惑星だった。

 だから無論、この家が彼のかつての住処だったことも。

 彼はふっと壁を乗り越えて手を伸ばす木を見上げる。そこには黄色い、小さい花が満開だった。その見かけは派手ではない。むしろその花の派手なのは、香りだった。

 キンモクセイは、その満開の時期、強烈な香りを辺りに漂わせる。

 その香りは彼に、かつての日々を思い出させる。香りは、記憶を生々しく蘇らせるものだ。

 だが今、その高い壁に続く門は閉ざされ、幾重にも鎖が巻かれている。

 真っ直ぐその門から続く道の向こうにある屋敷もそうだろう。扉は閉ざされ、鍵が掛けられているか、さもなくば板を打ち付けられているだろう。

 庭の木々も、手入れをされないから、無闇に伸び、またあるものは枯れ、葉をつけることもなく、乾いた木の幹だけが残っている。

 だが、あの香りだけは。

 キンモクセイの香りだけは、変わらずにそこに漂っているのだ。

 元は白く、手入れでもされていたのではないかと思われる高い壁は、今は原色使いのペンキで、様々な扇動的な言葉や戯画があふれかえっている。そしてその強烈な色彩は、その中にある、穏やかな空間の存在を気付かせない。

 この通りは、暇そうな学生が人を待つ顔をしているには、都合がいい。大学からやや離れてもいるし、だからと言って、若者の通りが少ない訳ではない。むしろ多い。

 一歩足を伸ばせば、若者向けのファッションやサブカルチャー、本だの音楽だのを扱う小さな店が立ち並ぶ通りが何本かあるのだ。そして「ちょっとした広場」。

 ちょっとした広場は、何かを表現したいと思い詰める、だけど金の無い学生にとっては、格好の場所である。今日も今日とて、そこには楽器をかき鳴らしたり、奇妙な動作を取る若者がたむろしている。

 そもそもシェンフンは、人口の中の、学生の占める比率の高い街である。だからこそ、この都市に入り込むのに際して、彼らは学生という立場を取ったのだ。

 ふと彼は眉をひそめた。この季節のかぐわしい香りに混じり、彼のよく知っているにおいが大気に混じり始める。ソングスペイ少尉は、そして少しばかり苦笑する。


「よぉ」


 手を上げるでもなく、彼の上官は、声をかけた。最初にそんな格好をされた時には、とても自分のいつもの上官とは思えなかったのだが。


「どうだ?」


 コルネル中佐は訊ねた。ソングスペイ少尉は、ポケットに手を突っ込み、壁にもたれたまま、まずまずですよ、と答えた。


「お前が入り込んでいるのは確か理学部だったな」

「ええ。さすがに医学群系というのはやや特殊ですから。中佐は確か社会学群でしたか」

「まあな。入り込んでいるのはどっちかといや、芸術学群だが」

「よく似合っていますよ」

「当然だ」


 中佐はそう言って片方の眉を上げる。ざっざっ、と座り込み、生のギターをか

き鳴らす音が耳に飛び込んでくる。声を張り上げて、歌い出す者も居る。


「それで、どうだ?」


 中佐は少尉の横の壁にもたれかかり、煙を大きく吐き出す。吸うか?と言う中佐に少尉はいいえ、と丁重に断りを入れる。


「どの方向から報告すれば良いですか?」

「まず大まかに、お前の見たところの、奴の周辺を言ってみろ」


 周辺ですか、と少尉は短く硬い髪をかき回す。彼は同僚のグラーシュコと共に、付属病院のシミョーン医師の周辺に接近していた。医学群のある授業で教鞭も取っているらしく、割合よく校内にも出没しているらしい。


「派手ですね」

「派手、か?」

「はい。取り巻きが多いタイプです。現在の『取り巻き』は主に学生ですが、それ以外にもやはり多いようです。附属病院内にも、彼を中心とした動きが見えるようです」

「それは、奴が政治的な動きを見せたらついていくようなタイプか?」

「それはやや難しい所ですね」


 ほう、とコルネル中佐は軽く顎を上げる。

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