本編
1.ノーヴィエ・ミェスタの大学生姉妹
すっ、と東日が目に鋭く飛び込んできたので、彼女は目を細めた。
西から上ったお日様は、東に沈む。
コンクリートの階段に腰掛けて、ジナイーダは、待ち人の姿を階下に探していた。
沈む間際の陽の動きは早い。大学構内の「中央広場」前の大階段には、ちょうど銀杏の木ごしに東日が差し込む時間だった。
その銀杏の葉が黄色く敷き詰められた「中央広場」と「大通り」には、前の授業を終え、課外活動にと出かける学生達の姿が行き交う。さすがにもう秋だ。その上着の色も濃いし、袖は長いし生地も厚手だ。
そろそろ新しい服も欲しいな、と彼女は思う。今度のバイト代が入れば、今まで倹約した分で、何とか買えるくらいの額にはなるだろう。できれば、もう少し……
彼女はそこで首を軽く振る。自分のとりとめのない考えを停止させる。考えたところで無駄なものは、考えないほうがいい。
首を振った拍子に、無造作に結んだ焦げ茶色の柔らかな髪が、首筋にまとわりつく。幾筋かはふわりと頬にも落ちる。くすぐったくて、彼女は指でそれを払う。払った髪は指にそのまままとわりつく。
どうしてまとまりがいつもないのだろう?彼女はため息をつく。
待ち人は、派手だから、やってくればすぐに判る。おそらくいつものように、誰かしら一緒に連れてくるのだろう。
ふう、と彼女はまたため息をつく。そして何となく座った場所のざらざらとした感触に居心地の悪さを感じる。そうすることは大して目立つことではない。中央広場前の大階段は、待ち合わせの場所として、学内でも有名な場所だった。
居心地の悪いのは、その格好のせいだった。
だったらジーンズでも何でも履けばいいじゃない、と今日の待ち人はいつも彼女に言っているが、それはそれ、彼女はおなじデニムでもスカートのほうが好きだった。上からすっぽりと着るTシャツ型のものよりは、前で止めるシャツのほうが好きだった。それだけのことなのだが。
待ち合わせの学生達は、実に動きやすそうな格好をしている。まるで、いつ何があってもいいように、汚れても構わないような格好。彼女の目にはそう映る。
さわさわ、と涼しさの混じる風に、スカートと銀杏の葉が揺れる。彼女は無意識にそれを手で止めていた。
たっぷりした裾の、だけど飾り気は無いスカートの裾を気にしながらも、ジナイーダはとりあえず、と図書館で借りてきた本を取り出した。今週末までの課題があるのだ。ただぼうっとしてるのは性に合わない。
やがて時計が、その日の全課程の終了時刻を告げる。鐘が鳴る。いくら何でも、待ち人もそろそろ出てくるだろう。
本に視線を落とす。課題のための本は、二百年ほど昔の詩人について。ジナイーダは別段この詩人に興味があった訳じゃない。だけどこの講義をする教授には興味があった。
《言葉は、それだけで大きな武器となるのです》
最初の紹介で、その教授はそう言った。
メモをはさんだ所から数ページ読み進んだところで、彼女は顔を上げ、階下に再び視線を落とした。
「ジーナ!」
待ち人が、手を大きく振っていた。そして走り寄ってくる。焦げ茶色の耳元程度で切りそろえたまっすぐな髪を揺らせ、派手な刺繍をしたデニムのパンツを履いて、コンクリートの階段を大股で駆け上ってくる。
「ごめん待った?」
よく通る声でそう言うと、はあはあと息をつきながら、待ち人は彼女の横に勢いよく腰を下ろした。
よほど急いできたのだろう、横に座っているだけで、ジナイーダの身体にも、相手の熱が伝わってくる。見ると、汗ばんだ額に、幾筋もの髪がへばりついている。
「このくらい待つとは思ったけどね? 演習が長引いた? ヴェラ」
「ねーさんとお呼び。演習はいつもの通りよ。古典的な場面の反復練習」
「ねーさんはねーさんだけど、ヴェラはヴェラじゃないの。それより、どーしたのよいきなり。アナタが珍しい。あたしも忙しいのよ? 早く寮へ帰りたいわ。課題だってあるのよ」
彼女はぱたんと音を立てて本を閉じた。
「課題は逃げていかないわよ。でも情報はそうもいかないのよ」
「はいはい。でもねー」
「わかったわよ」
ヴェラはそう言いながら汗拭きついでに、と髪をかき上げた。
その拍子に、その「派手」と彼女が形容する姉の顔が露わになる。
髪と同じ色の丸い目、高くもないが決して低くもない鼻、少しばかり平均よりは大きいかな、と思える口、パーツの一つ一つを取れば、自分と似ていると言って間違いないはずなのに、確実に自分より「派手」で、「綺麗」なその顔。
何が違うのだろう? そのたびジナイーダは思うのだが、理由はさっぱり判らない。
「ジーナあんた、昔のうちのこと、覚えてる?」
「昔のうち?」
突然何だろう、と彼女は思う。
「まだキンモクセイがあった家のことよ」
「ああ……」
彼女はうなづく。何を言い出すのだろう、と思いながら。姉の表情は、滅多に見たことのない程、重い。
「覚えてるわよ。だってあの香りは強烈だったじゃない。今でもほら、P棟の近くを通るたびに、何か頭に思い浮かぶわよ」
「でしょう? あれは強烈だわ。匂いって絶対記憶と直結しているわよ。……で、そのキンモクセイの家に住んでいた時の、お隣のことは?」
「え?」
一体何を姉は言いたいのだろう、と彼女は思う。姉が真面目な顔で自分に物事を訊ねることは滅多にない。
「お隣?」
「ほら、よくあたしとあんたで遊びに行ったじゃない」
「ああ、リャズコウさんのこと?」
そう、と姉はうなづいた。そういえばそういう名だったような気がする。だが今の今まで、そんなことはさっぱり忘れていた。
「そのリャズコウさんがどうしたの?」
「どうしたのってあんた……」
ヴェラは眉を強く寄せる。
「そういえば、よくあたし達あそこの下の子と遊んだわよね。よく考えたら。確か歳の離れたきょうだいだから遊んでくれないって言って、うちに来たんだったっけ……」
口に出しているうちに、次第にその記憶は形をなしてくる。そうだ確かに。そんな子が居たな、とジナイーダはうなづいた。
「で、それがどうしたの?」
「その子の名前、あんた覚えてる?」
「ん? ううん? ねーさんは覚えてるの? もうずいぶん昔のことなのに」
「覚えてるわよ」
「へえ。やっぱり凄いや。あたしはヴェラ程の記憶力はないからね。やっぱり台本全部丸暗記できる人の記憶力って違うわよね」
「茶化してるんじゃないわよ」
ぐ、と姉は妹の手を掴んだ。
「あんたが忘れているならそれはそれでいいわよジーナ。だいたいあんたは、どうしてあたし達がここに居るのかも時々忘れているからね。だけどこれはちゃんと思い出してよ」
「……な、何よ」
「隣のうちの子の名はラーベルと言ったわ」
「ラーベル……」
そういえば、そうだったような、気がする。だけどそれがどうしたっていうのだろうと彼女は思う。
「彼が、帰ってきてるのよ」
「だから?」
彼女は困惑した表情で、何やらいつになく真面目な顔の姉を眺めた。
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