⑥ 夜の言葉 その4
「花に埋もれた程度で、人間は地球を捨てたっていうのか?」
「聞いた話ですよ、あくまで」
誰か、は口に出さない。だが彼には何となし、その話の出所は予想がついた。
「何百年か前に、都市コンビュータが一斉に狂った時期があったんですよ」
「都市コンビュータか?」
「ええ。当時地球はドーム都市全盛期でした。実際、もう地表は汚染の程度甚だしく…… 住めたもんじゃなかったですからね」
「じゃ花なんか咲けなかったんじゃないか?」
『咲いたのは合成花。合成花は花じゃないよ』
さりげなく、キムは一瞬だけモードを変えた。
「で、その時に、地球にあった合成花が一斉に狂い咲きを始めて、異常繁殖をしたんですよ。その勢いや凄まじいもので、まずドームいっぱいに溢れた。……でとうとう人間はそこから追い出されたという次第」
合成花か、と彼は何となし納得する。それは彼の知識の中に存在する単語だった。「花で埋もれた地球」よりはずっとたやすくそれは記憶回路に作用する。
「で、今ではその花はドームからもあふれ出しているという訳か?」
「どうでしょうね。もう誰も行ったことがある訳ではないから判らないですが。その昔は、ずいぶんと流行ったらしいですがね。安価な人工の花」
「もう今は無いのか?そこ以外には」
「どうなんでしょうね。公式には無いことになっていますが」
『公式には?』
中佐はモードを変えた。
『Mは、それについては俺に何も言わなかった』
やっぱり出所はそこか、と彼は思う。
彼らが盟主。Mという、何やらはるか昔の自然神と同じ名を持つ彼らが盟主は、時々、何処までこの世界の物事を知っているのか、想像がつかない。
そもそも、彼は盟主の正体どころか、本当の年齢も想像がつかない。
確実に言えるのは、見た通りの年齢ではない、ということだ。
彼が出会った時、その外見は、平均的二十代の人間に見えた。だが時折出会う、幹部格に近い人間、盟主に直接目通りできる人間から聞いた話では、数十年前もあの姿だったらしい。
長い黒い髪、黒いくっきりとした瞳、そして整った白い顔に浮かぶ、仮面を思わせる無表情な美。静質な美。
直接は閉じたその唇から滅多に聞くこともできない声、だけど地下放送では聞くことができる声から、その性別が何とか男性であることを伺わせるが、直接相対している時には、それすらも曖昧になる。
盟主の姿を思い出すたび、遠い昔の絵画の中からそのまま出てきたと言われても、彼は否定できないような、そんな何やら説明のし難い気持ちに襲われるのだ。
不可思議な存在だった。
だがそれは大した問題ではない。兎にも角にも彼は盟主によって、死ぬ筈だった身体をこの現実に引き戻され、その銃となることを約束したために新しい身体と名と存在を与えられ、この世界で再び生きているのである。
疑問を持つかもしれない。だが持ったところで、自分が盟主の銃であり続けるだろうことは、彼はよく知っていた。
『もしかしたら、まだ何処かにはあるのかもしれないけど、その存在自体が結構隠されている可能性があるんだ。だから伝説にしたらしい』
『伝説にした?』
『いつの間にか消えていったもの、はそうなるよね』
確かにな、と彼は思う。
下手に回収・箝口令を引くと、それは裏の世界のマーケットのターゲットになるのは想像に難くない。だが飽きやすい世間の波の中で忘れられていくものに関しては、人々はさほどの値をつけない。かつてあったものとして次第に忘れられていく。
『何だか知らないけど、それに関しては、存在自体が埋もれるのを待っていたふしがある』
「ふうん」
いずれにせよ、彼らが盟主は、色々なことを知っているということだ、と中佐はとりあえずその問題には自分の中でピリオドを打った。
実際、彼らの盟主は本当に色々なことを知っていた。帝都政府内部の情報にせよ、驚く程自在にそれを入手し、活用している。
そしてそういった現在の知識や情報だけでなく、過去の知識についてもそれは同様だった。
そしてその知識の一部を、彼にも記憶することを強要した。勧めた訳でもない。教えた訳でもない。強要である。有無を言わせぬ命令だった。
彼はそれを実行した。それが生きていくための条件の一つであった以上、当然のことだった。その知識の中には、必要であると思われることもあったし、何故それを記憶しなくてはならないのか、想像もできないことも多々あった。
例えば、彼自身について。
彼の現在の、人工の身体についての知識を持っておくことは必要であるとは思う。何せ自分は軍人なのだ。いつ何があっても、死なないための措置を取る必要はある。―――それで駄目ならそれこそ終わりである。
だからそこまでは理解できる。それは必要だ。
だが「それに関連して」何故他の歴史上のメカニクルやそれに近いものに関する知識までを完璧に叩き込まなくてはならないのか、というのは疑問である。
答えの出ない疑問であることは分かり切っている。聞いたところであの盟主が答えるとは思えない。だから彼はその疑問は奥底にしまい込んだ。
やがてその疑問は、しまい込んだことも忘れてしまうだろう。
「何の本なんですか?」
傍らに置いた本に、キムは視線を落とす。中佐はその様子をちらりと横目で見ると、軽く吐き出すように言った。
「見たければ見ろ」
ありがとうございます、と声がする。
「ああ綺麗な風景だ」
好きなのか、などと余分なことは聞いてこない。なかなかその調子が心地よかったので、つい彼の口がすべった。
「こういうのが好きなのか?」
「綺麗な景色は好きですよ。だいたい」
「だいたい。じゃ嫌いな綺麗な景色もあるのか?」
編まれた髪を手に取りながら彼は訊ねる。微かに引っ張られる感覚に気がついたのか、キムは冬、とつぶやいた。
「冬?」
「冬は嫌いですよ。寒いから」
そう言って、キムは笑った。
妙にその笑いを見て、彼は苛立つ自分に気付いた。
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