第14話 「ただいま」

〇ケース一・奏


 ふと目を覚ますと、本を読みながら椅子に座っている人影が見える。柔らかな光を受けているその人は、少し痩せぎみで眼鏡をかけているが……嗚呼、なかなか名前が思い出せない。どこかで見た覚えがある気がするのに。そんなことを考えながらぼうっと見つめていると、彼がこちらを見とめて目を見開く。


「……かなで、さん?」


ばさりと本の落ちる音がして、顔が間近に迫る。今にも鼻先が触れ合ってしまいそうな距離だ。


「かなでさん、起きたんですか、かなでさん。僕、飯島です。職場の新入りで、掃除とかやってた!」

「……いいじま、くん?なんっ、げほっ」

「ああ、お水、お水飲んでください。そう、ゆっくり。」


発した声は随分久しぶりに発した男の声で。それも掠れて本当に酷い声。それは随分と長い間喉を使わずにいたことを示唆していて。そしてそうそう接点もなかった飯島君が横にいて、声を聴いて、泣き出しそうな顔をしている。

一口、また一口と私……いや、俺が水を飲み終えるのを見届けると、お医者さん呼んできますね、とぱたぱた小走りで去っていった。その後ろ姿を呆然と見つめていると、


「あんたさん、よかったねぇ。ようやく目ぇ覚めたんだね。」

そう、突然声をかけられた。今度は全く知らない人物だ。年配で、真横のベッドで体を起こしこちらを見つめている。何か話そうとして再びむせるのを見て、


「ああ、ああ、喋らんでええ。あんたさん半年以上も目覚まさなかったんだで。」


だから横にして安静にしておきな、とおじいさんは言う。半年以上?なんだか向こうで体感していたより少し短い気もするけれど……。そんなことをぼんやり考えていると、おじいさんはまた教えてくれた。


「あの子……飯島君なあ、あんたさんのお見舞い、ずーっと来てくれてたんだで。二日に一ぺん、ずーっと。」

え、と目を見開く。なぜ彼が?そう会話した覚えもないのに。


「ふっふ、意外そうな顔しとるな。飯島君も言ってたど。多分あんたさんは覚えてないだろうけど、だれも見向きもしなかった自分の仕事ぶりを丁寧でとても気持ちがいい、ありがとうって認めてねぎらってくれた唯一の人だったんだって。その一言のおかげで悔しくて投げ出そうとしたときも、苦しくて投げやりになりかけたときも今まで頑張ってこれたから、そのおかげで今の自分がいるんだ。この人には感謝してもしきれないんだって言うとった。」


それを聞きながら奏は、向こうで会った優紀の「待っていてくれる人がいるから、絶対に帰る」と言い切った顔を思い出した。……本当に、俺にもそういう人がいた。こっちは覚えてすらいなかったのに。健気に一心に、待っていてくれた。視界がゆらゆらと揺らぐ。


「……よかったなあ。まあ、これから大変だで。頑張りんさい。あんた方にはまだまだ先があるんだから。」


そう言われてすぐ、病室へ医師と飯島君が駆けつけてきた。溢れる涙はそれでもとどまらず、頬を流れ続けたが構わない。こういう時くらいみっともない姿晒したっていいでしょう?




「飯島君、お医者様、……生かしてくれて、本当にありがとうございます。」


ベッドに突っ伏すようにして頭を下げた。



〇ケース二・朝見


 ぼんやりとした光が見える。暗闇でいて、ちかちかするようで、淡いような、不思議な光だった。それが瞼を通じて差し込む日光だと気が付くのにしばらく時間がかかった。未だに重たげで、眠気を主張する瞼をこじ開ける。……すると視界一杯に、


「あっ!おじちゃん、起きた!起きたよお母さん!」

可愛い姪、美海の顔が飛び込んできた。


「美海……?」

かすれた声で名前を呼ぶ。すると、はあい!と元気な返事が返ってきた。それから遅れて、ぱたぱたと駆け寄る足音。


「裕也?裕也、起きたの⁉」


今度は姉がのぞき込んでくる。朝見裕也は、幽かに微笑んで体を起こそうとする。……しかし、ぐらりと酷いめまいを起こし布団に逆戻りした。


「裕也、あんたもう一か月半も起きなかったのよ?心配したんだからこの馬鹿!お医者さん呼んでくるからそのまま待ってなさい。いいね、そのままよ。」


そう言って姉の幹はまたもや小走りで去っていく。その後ろ姿を見送りながら、朝見はあぁなんだ。ここの方がよっぽど楽園だったな、などと考えていた。

向こうに行ったときはここならもう労働しなくていい。生きていていい意味探しなんてしなくていい。もう頑張らなくていい、最高だ!などと思ったものだが、今こうしてみると心配してくれる姉と、まさしく天使のごとき姪が目覚めるのを側で待っていてくれた。

……うん、こちらの方がよっぽどいい。自然と口元がほころぶ。


「美海。」

「うん?」

「……ただいま。」

「おかえりなさい!」




〇ケース三・綱嶋


 普段の寝起きのように、ばちりと目が覚めた。途端、突然飛び込んでくる光量に目が焼かれる。目の奥がぎゅうと締まるような痛みが起こり、思わず悶絶する。


「いっっって………!」


動き回ったら動き回ったで、腕に刺さっていた点滴の針が体内で動いたらしくまた違う激痛が走った。点滴……?そうか、俺、入院してるんだ。理解した瞬間、ナースコールを押す。とりあえずこの針を抜いてくれ!その一心で。

するとすぐにばたばたと走る音が聞こえる。


「どうしました⁉……つ、綱嶋さん⁉おき、先生、先生呼んできますからちょっと待っててくださいね!」


そう言ってすぐに走り去ってしまった。それはいいからひとまず点滴を抜いてほしかった……。するとすぐに医師とナース——そして、その後ろにはなぜか兄がいた。


「綱嶋さん、起きましたか!」

「と、とりあえず点滴を、っげほごほっ」

「点滴……?ああ、大変だ、君、点滴針抜いてさしなおして!」

「はい!」


点滴を抜き去ってはくれないのかと思いつつ、ずっとこちらを見ている兄に目線を合わせる。会うのはいつぶりだろうか。随分昔に酒におぼれて縁を切られたはずだったんだが。その兄が、何故ここに。

そんな疑問も横に、医師が言う。


「綱嶋さん。貴方、五カ月弱も目を覚まさなかったんですよ。夜に階段から転落したの、覚えてます?」

「ええ、それはまあ……。酔っぱらって、アパートの二階あたりからごろごろと。」

「ええ、それでここへ搬送されました。……ま、ご安心ください。今では外傷も治ってますし、簡単な検査と必要であればリハビリをして、すぐ退院できると思いますよ。」

「はあ、そうなんですか……。」


それでは一旦失礼しますね、また後程お声がけします。と言って医者とナースは戻っていった。兄へ「良かったですね」と一声かけながら。その兄自身も、何度も「ありがとうございます、ありがとうございます」と頭を下げている。

……なんとも奇妙な光景だった。ぽかんとしてそれをみていると、きっ、とこちらをにらんで兄が近づいてきた。椅子へどかりと腰を下ろし、


「……随分長いこと寝てたじゃないか。」

ぽつりつぶやいた。


「……兄貴……俺、こんな自分から逃げ出したくなっちまって、……ごめん。」

ぼろぼろと涙がこぼれてくる。おかしいなあ、こんなに涙もろい人間じゃあなかったはずなのにな。あの頃の自分を思い出すと、なんとも情けない心持ちになって来る。

兄は肩をぽんと叩き、言った。


「親父も帰ってきていいと言ってる。俺たちもサポートする。……だからこれから頑張ろうぜ。もちろん、酒抜きでな。」


こくこくと無言で頷いて、歯を食いしばった。……もとの世界に勇気だして帰ってきたら、家族まで帰ってきた。嬉しい、嬉しいなぁ——……。




もう、俺は一人じゃないんだ。



〇ケース四・宮路


 ちゅんちゅんという囀りに目を覚ます。なんだか長い長い夢を見ていたかのようなすっきりした気持ちだ。どれだけ眠っていたのだろうか、体がバキバキに痛い。

ぼやけた視界に、白い内装が写りこむ。いけない、眼鏡はどこに置いたんだっけ?いつもはここのラックに……

そう手探りで色々と探っていると、何か障りなれない丸みを帯びたものに触れた。これは何だろう?顔を近づけて確認しようとすると、左腕に痛みが走る。


「いっ………‼」


その反動で強くそれを握ってしまう。何なんだったんだろうかと不思議に思っていると、勢いよく扉の開けられる音がした。


「……宮路さん!宮路茜さん、起きたんですね!良かった!」


体調はどうですか?気持ち悪いとか痛いとかないですか?と聞いてきてくれるお姉さん(推測)に、とりあえず宮路は呟く。


「………あの、私の眼鏡はどこでしょうか……。」


                〇


なんとか看護師のお姉さんに眼鏡を探してもらい、医師による診察を受け終わった。自室に戻ってのんびりしていると、「茜!」という声とともに両親が部屋へ滑り込んできた。


「お父さん…お母さん……?」

「心配したんだから!もう大丈夫なの⁉あなた、一カ月以上も目を覚まさなかったのよ!」


よっぽど打ちどころが悪かったんだと思って待っていたのよ。痛いところはない?不快なところは?と頭を撫で繰り回される。


「だ、大丈夫だよ、もうなんもないから。……ところで、ここってどこ?」

「ここは、東京の病院よ。」


東京の⁉と宮路は目を剥く。だって、宮路は神奈川県で暮らしていたはずなのだから。神奈川で階段から落ちた患者が、何故東京に?

そう疑問に思っているとよほど顔に出ていたのか、父親はいう。


「茜がなかなか目を覚まさないから、色んな病院をあたってみたんだ。でも、どこも異常はない、すぐ目が覚める、の一点張りで。ここもそうだったけど、落ち着いて養生させた方がいいのかもしれないって母さんと話し合ってここに決めたんだ。

……それに、ストーカーのことも聞いた。気づいてやれなくてすまなかった。……今は、ここの近くに家を借りてるんだ。そこでしばらく一緒に住もう。」


父がそう言って頭を撫でるのを呆然と見つめた。……どうしよう、本当だ、優紀が言うように私、愛されてた。あんなにそっけなかった両親だったのに。なんでも自分の事なんだから自分で決めなさいとしか言ってこなかった二人なのに、こんなことを言われる日が来るなんて。


「……お父さん、お母さん。私、夢があるの。難しい道かもしれないんだけど、……応援してくれる?」


そうつぶやくようにこぼした声は、きちんと拾われていて。もちろん!何が夢なの、と返事が返ってきて。

ぽろりと、目から何かが頬を伝って落ちた。




「・・・・・・わたし、小説を書きたいの。ぽっかり開いた穴に寄り添えるような、そんな物語を。」



〇ケース五・甲子


 ……話し声が聞こえる。ぼそぼそとした話し声。少し高い声と、条件なしに心穏やかになる落ち着いた声だ。このままずっと聞いていたい——……。

そんなことを思いつつも、甲子は目を覚ました。白い壁に、白い布団。自分の体から延びるチューブと、点滴袋。耳に届くこの声は聞きなれたものであるはずなのに、だからこそ、視界の異常さが際立ってしまっている。


「ここっ……げほっ、う……。」

「あ、パパ!パパが起きた、ねえママ、パパが起きた‼」

「…………純也?」


ベッドの傍らには離婚して別れたはずの妻、璃子と、息子の文也がいた。なんで、と思うのと同時に璃子がナースコールを押し、病室の入り口まで走っていった。


「パパ、大丈夫?痛い?」

「うぅん…ケホッ、喉が渇いたくらいだよ。へーきへーき。」


文也は優しいな、と頭を撫でる。ああ、こうして話すのもいつぶりだろう。数年はたっているんじゃなかろうか。……しかし、なぜ自分と人生を別ったはずの二人が、ここに?


「なあ文也。」

「なあに?」

「パパとママは喧嘩しちゃって別々になっちゃったけど、なんでここに来てくれてるの?」

「んー?ママがね、パパのこと聞いてすぐに、行かなきゃって言ってね、それからずっと日曜日はここに来てるんだ!」


もうここに来たの十回目だよ、パパいつも寝てたからお話しできなかった!お寝坊してばっか!と可愛らしく怒っている。

妻は 璃子は、あんなにひどく喧嘩別れをしたというのに、忙しいだろうに、週一で文也を連れて見舞いに来てくれてたのか……?

というより、そもそも、彼女と喧嘩をしたのって何が原因だったんだっけ。……ああ、そうだ。俺が飲み会ばっかり行って、家事なんかしなかったから、それで怒って出ていったんだった。「会社の都合なんだから配慮してくれよ!」なんて言い放ってしまったが、産後無理をして動いてくれていたのに。配慮するべきだったのは俺の方じゃないか……。そんなこともわからない人間だったなんて。


「パパ?」

「文也、ごめんなあ。さみしい思いさせたな。……文也は、野球とか好きか?」

「遊ぶの⁉じゃあ、野球と、ドッヂしたい!パパとママと!」


なんて無邪気な笑顔だろう。底抜けに明るく、嬉しそうなこの笑顔。本当はずっとそういうことをしたかったんじゃなかろうか。我慢をさせてしまっていたのではなかろうか。そう思うと胸が締め付けられる思いだった。


がらりと扉の開く音がする。もう迷わない。もう悩まない。甲子は、めまいをなんとかこらえながらベッド上に正座する。ぽかんとしている璃子と医者、看護師の前で宣言する。




「璃子。俺はとんでもない間違いをした。本当に申し訳なかった。俺も共に家庭を作る家族になる。だから……俺と、もう一度結婚してくれませんか。」



〇最後のケース、六・優紀


 とある病室で一人の女性が目を覚ます。ぼんやりと日も落ちてきたような優しいオレンジ色に染まった白い部屋。その中に優紀はいた。


「ううん……?」


なんとか起き上がろうとするも、体全体が痛くてなかなか動かない。すると、ばちりと目の前のベッドにいる少年と視線が絡む。あれ?どちら様?などと思っているうちに、少年はブザーを押す。


「わー‼待って待って、不審者じゃないんですう‼」

「お姉さん、寝ぼけてるの?ここ、病院だよ。」


これ、ナースコール。と手に持っていたブザーをひらひらと振って見せる。

……あ、ほんとだ。ということは私、ちゃんと戻ってこれたんだ。感慨深く思う。嬉しいなあ、と目線を落とす——するとそこには黄色に染まった包帯が。


「ぎゃーーーーーーーー‼」

「今度はなに⁉」

「こっ………こここここの黄色いの何⁉体液⁉そんなヤバいの私⁉」


なんか変なにおいするし⁉と一人騒いでいると、向かいの少年はいたってクールに


「それ、沢庵の汁ですよ。」


ちょいちょいと向かって右方向を指さして言う。何かと思えば、サイドテーブルには沢庵がいっぱい。………なんで?


「え、ちょ、なんで沢庵が病室に。」

「それは僕たちの方が聞きたいんですけど……。」

そんなことを言いながら少年は、「あ、僕持田って言います。よろしく篠崎さん。」などとしれっと言ってのける。それにああどうも、などと返事をしていると医師がばたばたと病室へ駆け込んできた。


「持田君、どうし——……って、篠崎さん、目覚めましたか‼」

「あ、はい、あのー…」

「今丁度ご家族ロビーにいて、呼び戻してきますんでご安心ください。あ、僕は主治医の恩田と言います。」

「ああ、これはどうもご丁寧に……。」


寝そべっているのでお辞儀ができないのだが、頷くようにして礼のかわりにした。


「ところで先生、私のこの怪我って、退院できるまでにどれくらいかかります?」

「退院できるまで?まあ一旦また症状のチェックとかしないうちには何とも言えないんだけど……短くて一、二カ月ってところかな。腕とか複雑骨折してるし。」

「ひえ、今聞きたくなかったその事実。」


複雑骨折という突然のショッキングな発表に耳を覆いたい気持ちだった。せめて心の準備をさせてほしい。


「ところで、今何月何日ですか?」

「え?二月二十三日だけど……」

「よし、じゃあ私、二カ月で退院しますから!しっかりサポートよろしくお願いします先生‼」

「ま、任せて‼」


そうこうしているとじいちゃんばあちゃんに、両親までもが駆けつけてきた。


「優紀、ほんとだ‼起きてる‼」

「ただいま、お母さん。」

「大丈夫なのか⁉」

「うん、体中痛いけど大丈夫だよ。」

「優紀ぢゃんーーー」

「ばあちゃん、ばあちゃん、大丈夫だから泣かないでー!」

「優紀ちゃん沢庵食べるかい」

「あ、食べる食べる!」


ぼりぼりと沢庵をかじる。うん、これこれ。これが美味しいのよ。このじいちゃんばあちゃん特製のこの深い味が。


「ところで優紀、なんでさっきただいまって言ったの?」

母が突っ込む。優紀はにやりと笑って言った。



「ちょこっと、バカンスに行ってきたものだから。」

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たくあん好きの社畜が異世界に飛ばされた話 東屋猫人(元:附木) @huki442

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