soiree
街木は、カウンターを整理する手を止めた。時計を見上げると、いつもなら漣がそろそろ報告にやってくる時間だった。からん、と来客を告げるベルの音がして、街木は立ち上がった。
「おかえり」の一言を最後まで言えなかった。花房と蝶輝に付き添われて、漣が帰ってきていた。
「何があった」
思わず聞くと、花房が寄ってきて耳打ちした。
「私たちも全部は聞いていないのだけれど、どうやら幽霊ちゃんについて聞きたくなかったこと、全部聞いちゃったみたい」
「誰から」
「俺達が行ったとき、ある女性が居てな」
横から蝶輝が補足を加えた。
「その人、幽霊ちゃんのお姉さんらしくて。私たちは追い出されたから聞いてなかったんだけど、振り返ったら二人で話してたから…そのせいかも」
なるほど、と街木はうなずいた。
「あの後、不安定になってしまって」
「心配だったからついてきたんだけど」
街木は丁重に礼を言った。これから帰るという二人を引き留め、塩飴を持たせた。
「悪かったな、うちのあれが」
二人はまた暗くなった道を歩いて行った。それを扉のそばで見届けた後、街木は店内に戻った。すでに店の表の札は「CLOSE」にしてある。
「立てるか?」
手を貸して床に蹲っていた漣をテーブルにつかせた。少しずつ事情を聴きながら、街木は飲み物を出したり電気をつけたりした。しばらくして漣がすべてを話し終えた。
「で、それだけか?」
「…うん」
街木は一つため息をついた。
「聞きたくもない人の人生が目の前に転がり込んできたのがキャパオーバーだった、と。まぁそれはお前の身勝手だ。だってそもそも知ろうとしなかったもんな。傷つきたくないから」
「そうだよ、傷つきたくない。僕には他人の人生なんて、背負えないから」
「その覚悟くらいあると思ってたんだが?」
漣が顔をさらに暗くした。たっぷり黙った後、口を開く。
「なかったよ」
街木は呆れた。
「よく今までそれで続いたな」
「そうだよね。…もうやめるよ、こんなこと」
「おい…ふざけんなよ」
街木は思わず怒鳴っていた。漣がさっと顔をあげた。
「だってあんな重いもの、僕には無理だ!」
「何様だ! これはお前だけの問題じゃないんだぞ!いったい何人の力と願いがかかってると思ってるんだ!?」
「それが重いんだよ…! 自由にさせてくれたっていいじゃないか!」
街木は一旦怒りを噛み殺した。冷静になろうと努めて、やはり失敗した。
「どの口で『自由』なんてほざくんだ? あ?」
漣がびくりと身を震わせた。怯えさせてしまった。しかし仕方ない。街木は続ける。
「そもそもお前がふんわりとした善意で始めたことだろうが! 聞くべきことも何一つ聞かないで! それを、今更になって『自由にさせて』? 笑わせるな。重い重いってお前が背負えと言われた問題でもないだろう? 勝手に背負って勝手に倒れて、それを身勝手と言っているんだ」
「でもあの子がもし、」
街木はテーブルを叩いた。
「あれが! あの子の人生だったんだ…! そこに『もし』も『でも』も無いんだよ! あの子はあの時代に生きてあの時代に死んだ! それから目を逸らして、あの子の人生を否定するのか?」
人生にifなどない。昼間幽霊の少女が自分の目の前で同じように語ったことを思い出して、漣は狼狽えた。
「そんな、わけじゃ」
「そんなわけなんだよ、お前のしようとしたことは。他人の人生の可能性を考察しようとしやがって。それからはずっと被害者ぶってさ。…あのさ、心の底から何かをやろうとしていないから、お前は変われないんだ。自分でもうすうす気づいてたくせに」
「だって」
「だって、何だ?」
「…」
「まあいい。彼女にも言われたんだろう?もう一人でいいって。好きにしろ。またそうやってなーんにもできずに終わっていく、それだけの話だ。実はな、今度こそ変わってくれるかと期待してたんだが…やっぱりお前には無理だったな。時間を損した。明日、カメラ返せ」
街木は立ち、片づけを始めた。その時、漣が立った。
「待てよ! 言いたいだけ言いやがって! 『無理』なんて言ったことを後悔させてやる」
街木は身を起こした。
「どうやって、だ」
「最後まで、付き添う。最初に約束したのは僕なのに、無責任だった」
目が合った。今までにない強さを持っていた。
「やっと気づいたか。遅すぎるんだよ…で、覚悟の程は?」
「やるよ。絶対に」
「そうかい」
「…そろそろ見直してほしいんだけど」
街木はにやっと笑った。
「それはお前が結果を出してからだな」
「やな奴…」
時間はすでに遅かった。漣に身支度をさせ、街木はドアを開けた。
「…ありがとう」
控え目がちな声に、街木はひらひらと手を振って見せた。
「気にすんな」
漣はうなずいた。外には、二人が初めて森に行った時の帰りのように澄んだ星空が広がっていた。
「はー、ここの土地も久しぶりだな」
街木が木々を見上げながら言った。「記念だから」とか何とかこじつけてやって来たのだ。暑かった夏も峠を越し、森の中には秋の空気のようなものが漂い始めていた。
「今回が最後だと思うと身が引き締まるな」
「お前のセリフじゃないだろ…ていうかそもそもこんな風に押しかけて大丈夫かな…」
「今更かよ」
街木は漣の背を叩きながら笑った。思ったより力が強くて思わず咳き込む。けれどそれに少しの安心感を覚えて、漣も笑った。待ち合わせ場所はもうすぐそこだった。
「久しぶりー!」
花房がこちらを見つけてぶんぶんと手を振った。二人も腕をいっぱいに挙げて応える。花房の背後では蝶輝と朝羽がぎこちないながらも話していた。二人ともメモパッドを手にしている。
「さてと」
花房が取り仕切るようだった。
「これで全員揃ったね」
「こちらが夕華さんのお姉さんだ」
蝶輝が街木に朝羽を紹介した。
「街木です」
「茜朝羽です。よろしくお願いします。…そちらの彼だけど、この間はごめんなさい」
いきなり話を差し向けられた漣は、慌てて否定した。
「あーいえ! …いかに自分が甘ったれだったか思い知りました」
「本当に申し訳なかったわ。私、あなたの写真は好きよ」
「ありがとうございます」
「よし! じゃあ和解が成功したところで!」
花房が手を打った。
「今回の写真は? これでもう最後なんだよね?」
「うん」
漣は事前にプリントした写真を取り出した。
「綺麗な夕陽だな」
山腹の開けたところから撮ったような写真だった。まさに沈みゆく太陽の両側には木々が黒く立ち並んでいる。山に接したところが特にまばゆい。とろけるような光が眩しく、力強く、なにより優しかった。みんなで写真を回しながら見る。
朝羽が僅かに息を呑んだ。
「この写真」
「知ってるんですか」
「幼いころ、夕華が『将来こんな写真を撮りたい』って見せてくれた一枚よ」
「あの例の写真集の?」
「ええ」
朝羽が写真に慈しむような視線を投げた。指で静かに撫でる。
「そろそろ夕焼けだけど、行こうか? 蝶輝、これあの展望台だよね」
「そうだな」
どうやら、この場所は二人の間で〈展望台〉として知られているようだった。
「行くぞ」
全員が頷いた。ぽつりぽつりと取り留めもない話をしながら進んでいく。各々が緊張しているようだった。会話が続かない。励まし合う。
森が急に開けた。
「ここだな」
「あっ」
漣は思わず声を上げた。夕華の後ろ姿が見えた。ワンピースが風に揺らされていた。レースでできた裾は夕陽に溶けるように染まっていた。隣で朝羽が目を見開いた。
「あの子だわ」
「朝羽さんも見えるんですか?」
「ええ」
「俺たちは見えないけどな」
「うーん、私も」
この場で夕華が見えるのは漣と朝羽だけらしい。漣は意を決して朝羽に言った。
「声、掛けに行きましょうよ」
「私なんかが…いいのかしら」朝羽は視線を落とした。
「行っておいたほうが良いだろう」蝶輝がきっぱりと言った。
「俺たち見えない組はあっちで待ってるからさ、行っとけ」街木もフォローを入れる。
「良い結果を待ってるよ」
蝶輝、花房、街木が去るのを目で追ってから、漣は朝羽に向き合った。
「…ですって。彼女も、きっと待ってると思いますよ」
「わかったわ」微かに目が泳ぐ。「でも最初に呼ぶのはあなたがやってくれないかしら。…その、怖いのよ。なんでか知らないけど」
「わかりました。任せてください」
漣は数歩夕華に近づいた。す、と息を吸う。
「ねえ!」
夕華が振り返った。翻った滑らかな生地が、星屑をまぶしたように煌めいた。
「…来て、くれたんだ」
漣は頭を深く下げた。
「本当にごめん! 無責任だった」
努めて目を見て話すようにする。
「僕のすべきことは、夕華の行きたかった場所を見つけることだけじゃなくて、それをお姉さんに見せてあげられるようにすることだ。だから連れて来たんだ」
漣はちらりと後ろを振り返った。朝羽がしっかりとうなずく。彼女が一歩踏み出した。しばらく何を言ったものかと思案した後、おずおずと口を開く。
「久しぶり、夕華」
夕華は驚いていた。漣と朝羽を交互に見やる。
「み、見えるの…!?」
「ありがたいことにね」
朝羽のおどけたような口調に夕華が笑う。彼女が少し後退し、大きく手を広げて空を示すと、長い黒髪にもすらりとした手足にも夕陽の朱が染み込んだ。
「これが私の見せたかった景色。…遅すぎたよね」
「そんなの全然気にしてないから。約束を果たせてほっとしたわ」
姉妹の会話が始まったのを見て、漣はそっとしておくことにした。
「あの日はごめんなさい。勝手なことして」
「いいのよ。それより私のほうこそ行けなくてごめんなさい」
「ううん。姉さん、こうやって来てくれたじゃない。だからもう良いんだよ」
夕華はぱっと笑顔を見せた。「ほら、この件はおしまいね! 夕陽を楽しまなきゃ損だよ」
「そうね」
漣もそっと戻り、三人で並んで夕映えを見た。
夕華が一つ申し出をした。
「私の写真を撮ってほしいの」
「でも、君は」
「いいの。私、撮ってばかりだったから撮ってもらうことが少なくて。だから記念に、ね?」
「わかったよ」
夕華が紅い空を背にポーズをとる。覗いたカメラには、やはり彼女の姿は無かった。それでも慎重にシャッターを切る。パシャ、という音が森に吸い込まれていった。夕華が両腕を下ろす。さっぱりとした笑顔だった。
「これで全部終わったね。楽しかったよ、お兄さんのおかげで」
「…うん」
「それで、写真のコツは分かったの?」
「うん」
「それは?」
「心、かな。陳腐だけど、心で撮ることが必要だ」
夕華が拍手をした。
「そう、正解! 私もそうしてたんだ。技術ももちろんいるけど、それがあれば、写真はおのずともっと素晴らしくなるんだよね」
「秘訣、私にも教えてくれればよかったのに」
「だって姉さんはすでに巧かったじゃん」
「もう」
漣は改めて夕華に向き直る。
「本当に、夕華にはいろいろ教えてもらったよ」
「ふふ、これからも頑張ってください」
漣は笑顔で頷いた。
「それと、姉さん」
「はい」
「顔が怖いよ? ほら、深刻そうな顔しないで笑ってみ」
朝羽が笑顔を作った。
「そうそう! 姉さん、笑顔が似合うから。これからも笑って生きてね」
「ええ」
夕華は朝羽を抱きしめた。
「それじゃ、これが最後のお別れです。…またね!」
ごう、と風が吹いた。思わずつぶってしまった目を開けると、夕華の姿はもうなかった。
「あの子、最後とか言っておきながら『またね』」なんて。おかしいわね」
朝羽が笑った。優しい笑みだった。
「あの、このカメラってどうしたらいいんでしょうか」
「ああ、持ってて」
「良いんですか?」
「あの子が信頼した相手よ」
「ありがとうございます。大切にしますね」
「当たり前よ」
二人して笑った。
風が吹いたのを見計らって三人が戻ってきた。
「上手く行ったみたいだな、海」
「お疲れさま」
「俺も苦労した甲斐があった」
それぞれに労われて、漣は軽く頭を下げた。街木は夕陽に驚いていた。
「うわ…すっげえな」
「今ちょうどシーズンなんだよ!」花房も目を輝かせている。
「この景色…確かに誰かに見せたくなるものだな」
「ここまできれいなのも久しぶりだね。見られてよかった」
「な」蝶輝は目を細めた。
「…らしいぞ。海、記念に一枚撮ったらどうだ」
漣はカメラを軽く振った。
「もう撮ったよ」
「あの子の頼みで特別な一枚を撮ってもらったの」
「特別? 気になる」
興味を示してくれた花房にカメラを渡す。彼女が感嘆の声を上げたのを見て、蝶輝と街木、朝羽も横から覗き込んだ。
「どうかな」恐る恐る漣が尋ねる。
「巧いな」
「もう純粋にすごいぞ」
「ものすごく綺麗ね…」
予想外の高評価だ。
「そうだ! この写真でギャラリーに復帰したらどうかな」花房が思ってもみない提案をした。
「あー…」漣が言い淀む。街木が漣の背を叩いた。
「大丈夫だって。お前は変われたんだだから自信持て」
「ありがとう。今度の展示に出せるか訊いてみるね」
「じゃあ、これは一件落着ということで!」
「俺とこいつは先に帰るぞ」
「世話になったな」
「おう」
「また遊びにおいでね! 田舎はいいぞー!」
「もちろん! この人誘っていくね」
蝶輝と花房は話しながら〈展望台〉を後にした。それを三人で見送る。
「本当に、妹によくしてくれてありがとう」
「いえ」
「写真、楽しみにしているわ。雑誌でもまた特集を組めないか掛け合ってみる」
それから、いたずらっぽい笑顔で付け加える。
「ファン一号、狙っちゃおうかしらね」
街木が露骨に気を悪くした。
「…一号は俺だ。それに、二号と三号もあいつらが持って行っているからな」
「あはは、冗談よ。…四号も悪くないわね」
朝羽は肩の荷が下りたような明るい顔で帰っていった。
「…本当に、全部終わったんだな。信じられない」
「僕もだよ」
「何か学んだか?」
「うん、いろいろとね。でもさ、あれだね」
「ん?」
「目に見えるものが価値あるものとは限らないし、見えないものに価値がないなんてこともない。そういう見えないもの…人の思いとかも写真には必要だったんだなぁって」
漣は懐かしそうにした。すでに夕映えは終わり、夕陽の残滓が空を淡く染めていた。
「僕は今まで形にこだわり過ぎていたから写真が空っぽだったんだ」
「なるほど、そうだったんだな。…でさ、一ついいか」
「いいけど。何」
「疲れた」
漣は吹き出した。
「今言うかー。なんか僕がいい話してたじゃん。まあいいや、帰ってゆっくり休もう。…あ、ケーキ買わない?新しくできてたお店で」
写真のことで忙しかったために幾度となく素通りをさせられた店だった。甘いものでも食べれば多少は疲れが和らぐだろう。
「悪くないな。飲み物も買って行こう」
「うん」
「それじゃ帰るか。俺たちの街に」
「そうだね、寂しいけど帰ろうか」
漣は最後にもう一度空の色を目に焼き付けた。
「僕たちの日常に」
話を終えて、漣は何度か組み替えていた脚を下ろした。
「僕は気づいたんです。一番は、心ですね。心の底から向き合わないと、何も成功しません。ありきたりかもしれないけれど、心は見えないものでありながら大事なんです。僕は今まで、見えないものに関心を向けていなかったんです。だから、心を抜きにして無機質にレンズを通して風景を見ていた。でもそれじゃ上手く行かなかった。何事も心が伴ってこそのもの。そうして初めて、風景以外のもの、例えば人の思いとかもカメラに写せるようになるのです」
「新しい武器は心、と来ましたか」
「なんにせよ、成長はいいことでしょう」
「そして、夕陽のとりこになったんですね」
「はい。普通の写真もいいんですけどね」
魚井も船渡も、完全に話に夢中だった。決して上手いわけではない語り口なのに、漣の体験には人を惹きつけるものがあった。
「そんなことがあったんですね」
「では、あなたの原初の風景は夕映えだと」
「そうですね…何枚撮っても飽きないんです。まるであの子がいるような気がして」
評論家二人は相槌を打った。
「僕の話はここまでです。面白かったかはわかりませんけど」
「いえいえ、面白かったですよ」
「貴重な話をありがとうございました」
魚井と船渡の名刺をしまってから、漣は軽く会釈して部屋を出た。
夕焼けの写真の前に人だかりができている。それを眺めていると、朝羽が歩いてきた。
「大盛況じゃない」
「そうですね」
今壁に掛けられている写真は、実はあの日撮ったものではない。デジタルカメラで撮ったものは引き延ばすと荒くなってしまった。そのままにしておいたが、動員も増えたので、本格的なカメラで撮り直したのだ。
去年はインタビューを受けるなんて夢にも思わなかった。
今でもデジタルカメラはずっと持っている。メンテナンスを怠らず、綺麗なままだ。
「じゃあ、次はうちの取材ね」
朝羽が筆記具とレコーダーの準備を始めた。
「疲れたんですけど」
「こっちもよ。話が長すぎるわ。何時間待ったと思っているの?」
「すみません」
「まあ、それは濃い近況を話してくれることでちゃらにしてあげるとしましょう」
「うわあ、恐れ入ります」
おどけてみせると、朝羽は笑った。
「そういえば、最近またあの子と会っているそうじゃない」
「それを知っているってことは、朝羽さんもでしょう」
「ばれたかしら。本当に『また』来るとはね」朝羽が笑った。
「カメラがある限り来てくれるみたいですね。…ますます壊すわけにいかなくなって困ります」
「もちろんよ。大事にしなさい」
漣は頷いた。
「で、最近は何を撮っていたの?」
「ほぼ身近な風景です。そこで暮らしている人々の息遣いがそのまま窺えるようなものを目指しています」
「面白そうじゃない」
「面白いですよ」
辿り着いたドアを朝羽が開けて、中に入る。今度はラフな部屋だった。柔らかいソファに腰を下ろす。
「あなたも一躍スターね」
「まだまだですよ」
「そう?」
漣が謙遜すると、朝羽はにやりと笑った。
「じゃあ、そうね。…これからを期待してるわよ、新人さん?」
nonocular──不可視の君と、夕映えと。 書矩 @Midori_KAKIKU
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