nonocular──不可視の君と、夕映えと。
書矩
matinee
音さえも吸い込む白い壁、白い床、白い天井。余計なものを削ぎ落としてあって、写真だけに集中できる空間だ。気を紛らわさない程度にクラシック音楽が掛けられている。芸術の秋、多くの来場者が写真を楽しんでいる。
壁に適度な間を置いて並んだ数々の写真の中でも、一際評判が良かったのが夕焼けだ。目立たない木製の額縁に入れられていて緋色が一層際立つ。初めにこの写真に目を付けたのは評論家二人──
今日は、その写真の作者のインタビューが予定されていた。だからこうして、二人はスケジュールの間を縫って同じ赤色の前に立っているのだ。
ふと会話が途絶えたタイミングで、魚井はぽつりと言った。
「あれだけ変われなかった彼が、どうしてこんなものを撮れるようになったんでしょうか」
船渡にも答えは出せなかった。この先も出ないだろう。この写真については本当に謎だった。作者の名は
少し前までは都内の小さな展示でちらちら見かけるだけで、別段有名でもなんでもなかったはずだ。その写真も別に巧くもなく、何かが抜けていた。最後のひとピースをなくしたパズルのように。
魚井と船渡は何度か彼の作品の評論を任されたことがある。初めは「素人にしては巧い」と可能性を褒めていたが、そのまま彼が成長することはなかった。自分たちが発掘したが故に惜しかったものだ。海のように大きく、というようにはいかなかったらしい。名前負けというのが二人の率直な感想だった。それがどうだ。たった三か月の空白を経て彼は自分を塗り替えた。奇跡とすら言えるだろう。これは是非ともしっかりインタビューせねばならない。ひとまず議論はそこへ落ち着いた。二人とも自然と気が引き締まった。
こちらも強張った顔で、件の写真家がやってきた。手短に挨拶が交わされた。
「こんにちは」
人当たりのよい声だった。
「こんにちは。今日はお忙しいところありがとうございます」
いえいえ、と漣ははにかんだように首を振った。軽く近況を話しながら場所を替える。こぢんまりとした別室に着いた後、魚井は単刀直入に切り込んだ。
「随分と写真の味が変わりましたが、何があったのですか」
漣はいきなりの質問にやや驚いたようだった。しかし、はっきりと質問に応じた。
「ある特別な出会いをしたんです」
「出会い、ですか」思わず船渡も訊いた。
「はい」
そう言った漣は少し懐かしそうにした。
──聞きたい。二人ともそう口にしたはずはないのだが、漣は軽く笑った。
「聞きますか? …というか、これを聞きに来たんですよね?」
二人も苦笑した。
「もちろん、お願いします」
「詳しく頼みますよ?」
それに漣は一つ頷いて、足を組みなおした。
僕はもともと、友人に誘われて写真を撮るのを始めたんです。──そいつの名前、ですか? あ、大丈夫ですよ。許可はもらったので。
初夏、よく晴れた昼下がり。からん、と鳴ったドアのベルに来客を知らされて、街木はテーブルを拭く手を止めた。「いらっしゃいませ」と言いかけて途中でやめる。見知った顔だったからだ。
「なんだ、お前か。二週間ぶりだな」
うん、と答えた漣はなんだか上の空だった。
「何があったんだ。写真、うまく撮れてるんじゃないのか?」
「うん、カメラはありがとね」
会話が噛み合っていない。なんだかおかしい。
「で、その写真は?」
手を出せば、漣はおずおずとカメラを差し出した。そのままフォルダを漁る。なかなかいい。ふと一枚の写真に当たり、街木は感心するような声を上げた。
「良いな、この森の写真」
それを聞くと、漣は顔を渋くした。
「うん、それなんだよ。問題は」
街木は首をかしげた。何の問題もないように思えたからだ。
「どういうことだ?」
漣はためらいがちに口を開き、ある爆弾を投下した。
「それさ、僕の撮った写真じゃないんだ」
「──は?」街木はやっと、それだけを言った。「待て待て待て、どういうことだそりゃ」
「うん、だからさ」漣は言い聞かせるようにした。「こんな森、僕は行ってないんだよ。それなのに写ってるんだ。…ねぇ、聞いてる?」
きいてる、と街木は上の空で言った。こいつはやばいな。
そう、あの漣が街木に「また写真が空疎だと言われた」と泣きついたあの日、街木が新たにデジカメを取り出したあの日、別れ際に言ったのだ。
──写真の練習、まずは近所でいいよね?
──ああ、そうだな。まぁ楽しむことを忘れずにな。
──分かった。ありがとね、明。
だから、何かの間違いであったとしても森の写真など混じるはずがないのだ。超常現象とかでもなければ。二人はしばらくそのことを信じなくてすむ方法を考えたが無駄だった。沈黙が続いた後、街木は机を叩いて立ち上がった。
「埒明かねぇな。行こうぜ、そこ」
「はぁ!?」今度は漣が驚く番だった。「だって、こんな、行ったこともないようなところ──」
「いいよ。俺ここ行ったことあるから。ついてってやるからさ。な?」
あっけなく不安材料が一掃された。断る理由がなくなって、漣は渋々頷いた。
「わかった、行こう」
「よし。じゃ、明日もここに来い。カメラも忘れずにな」
「うん」
「またな」
ドアを出ていく彼に軽く手を振ると、笑顔で返される。ドアが閉まったのを見届け、街木も荷造りに向かった。
これが彼の変化を助けるきっかけとなればいいのだが。
漣は時間通りやってきた。カメラも地図も持ったので、出発する。森に着いたのは正午前だった。若葉のフィルターに掛けられて空気は爽やかだ。
しかし、街木は困った顔をした。
「だめだこりゃ」
「だめなのか」
「開発進んじゃったからかなぁ。分からないんだ」
「誰かに聞く?」
「そうするか」
こういう時の漣の行動は早い。通りがかった男女にさっそく声をかけた。
「すみません」
女性のほうが振り向いた。
「はい?」
「実は、ここを探しているんですけど」
漣から受け取った写真を、女性は男性にも見せた。やがて、男性が何かに気付いたらしい。
「これ…あの山じゃないか?」
「あれですか」
漣の声を受けて女性が頷く。
「あれよ。よかったら案内するけど、どう?」
願ってもない申し出だった。ありがたく受けることにする。
連れられた先は、写真と少しも違わない景色だった。漣も街木も、それに感心する。その時、突然風が起こった。収まる気配はない。男性のほうが叫んだ。
「いったん戻ろう! この風はおかしい!」
なぎ倒されそうになりながら山を下りる。漣は木の根に足を取られて転んだ。
「待って!」
声は風にかき消されて届かなかった。漣はそのまま取り残された。仕方なくその場にうずくまって風をやり過ごし、何とか立ち上がる。
「うわー、置き去りかぁ」
自分も急いで山を下りねば、そう考えたとき、視界に一人の少女が立っているのが映った。
「大丈夫?」少女が手を差し伸べ、ふわりと白いワンピースの裾が揺れる。
「ああ、うん。まぁ」
顔をあげると目が合った。なぜかその瞬間、少女の顔が輝いた。
「来てくれたのね! 嬉しい! 写真、ちゃんと届かなかったらどうしようかと思ってたの」
一気にまくしたてられて、漣は混乱した。待たれていた? 写真? 届けた? どういうことだ。
「あ、いや、その…どういうこと?」
「え? 待って、もしかして人違い? やだ、ちゃんとやったはずなのに」
今度は少女に狼狽えられてどうしようもなくなる。ともかく状況の整理から行こう。そう考えて漣は手を挙げた。少女が指す。
「どうぞ」
「うん、聞きたいことは色々あるんだけど。まずこれからね。君は…その、何?」
少女は考え込んだ。
「…誰にも見つけられない、そういう存在かな。経緯が思い出せないのが申し訳ないけど」
「じゃあやっぱり、思い残したこととかあったりするの?」
少女はあいまいに頷いた。
「んー、あるにはあると言えるのかも。ある景色なんだけど」
「ここ?」
「ううん」
あっさり否定された。
「夕焼けよ。むかーしむかし、小さいころに見た写真の、その場所に行きたいの。そこの夕日を撮るのが一生を通しての夢だったから」
そこで少女の顔が暗くなる。
「でも、それがどこか分からないの。だから写真を練習しに来てた場所を辿ってる。そうすれば思い出せるかもしれないから」
さらに少女は続ける。
「で、ここで問題が発生してるんだけど」
「問題って?」
「そのカメラね、私のなのよ。なんであなたのもとに行ったのかは分からないんだけど」
「あー、つまり」漣は一生懸命言葉を探した。「つまり、そのカメラに戻ってきてもらうために森の写真を紛れ込ませた?」
「うん」
なるほど。待てよ、僕今死人のカメラ触ってるってことか? 脳裏にひらめいた考えに自分でぎょっとする。もしそうなら、というかそうなのだけど、本当にまずいのではないか。いろいろと。
「返すね」
漣がカメラを外すと、少女は申し訳なさそうに断った。
「ごめん。今はあなたのだから私のものにはできないの」
「そ、そっか…?」
漣は改めてカメラを首に下げた。
「じゃあ、僕も君と一緒に行動するってこと?」
「そうね。巻き込んでごめんなさい」
「大丈夫。手伝えることならやりたいよ」
「何も訊かないんだね」
「うん。…本当に僕で良いの?」
「全然。その気持ちが嬉しいから。じゃ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げられて、漣もあわててお辞儀する。「こちらこそ」
二人で切り株に腰掛けてこれからの行程を話し合った。少女が次の行き先を決めたら、そこの風景を漣のカメラに紛れさせる。それに漣が従う、という流れだ。お互いの認識に齟齬がないかきちんと確かめる。
風がまた強くなってきた。少女が立ち上がる。
「じゃあ、これからよろしくね」
「うん、任せて」
少女は数歩進んで、またこちらを向いた。
「名前、言ってなかったね。
「あ、僕は──」
漣も自己紹介しようとしたが、遮られた。
「迂闊に幽霊に名前を教えちゃだめだよ?お兄さんのことはお兄さんって呼ぶからさ、気にしないで」
「そうなんだ…分かった。よろしくね、夕華」
少し照れ臭かったが、そのまま下の名前を口にする。その響きに満足したのか、夕華はうなずいた。本格的に風が強くなってきた。
「じゃあねお兄さん、また今度!」
元気よく風を引き連れて夕華が去る。それを見届けて、漣は山を下りた。麓では街木と例の二人が漣のことを待っていた。山に入って漣を探そうとする街木を二人がかりで止めていたらしい。二人とも少し表情に疲れが出ていた。
さっきは出来なかったから、と自己紹介される。男のほうは
山の上でのことを聞かれ、漣は事のあらましを説明した。それを聞いて三人は揃って頭を抱えた。嘘ではないことを強調すると街木がため息をついた。
「お前が嘘をつかないのはよく知ってる、だから厄介なんだ…」
「その子が悪霊じゃないにしてもさ、幽霊と関わるのってあまり良くないんじゃないの?」
花房の忠告に、漣は曖昧な顔をした。
「最悪死ぬぞ」
蝶輝がずばっと言い放った。これには漣も顔をしかめる。
「でも」静かに反抗する。「やるってもう決めたんだよ」
暫くあの手この手で丸め込もうとされたが、漣はきっぱりと主張を続けた。最後まで粘っていた街木もついに折れた。
「仕方ねえなあ」心なしか困ったような笑みだ。「お前の決断を聞くなんていつぶりだろ」
「そこまで言うか。反論できないのが悔しいけど」
「あのさ、送られてくるらしい写真はこれからもずっとこの地域のなんだよな?」蝶輝が確認を取った。
「あ、うん。夕華が写真を練習してたところの景色らしいから、この辺だと思う」
「じゃあ、私たちが手伝う! 任せて、生まれも育ちもこれからもこの街だから」
「これからもかどうかは知らないが、まあ頼ってくれ」
蝶輝も花房も頼もしい。ありがたく案内役になってもらうことにした。辺りはもう暗くなり始めていた。
「今日はもう帰れ。これは長くなりそうだからな」
「今後ともごひいきに~!」
二人の声を受け、帰り道に向かう。盛りだくさんの一日に疲れて、暫くは靴が砂利道を踏みしめる音だけがしていた。その沈黙に街木が怒っているのではないかと思った漣がそう訊くと、彼は笑って首を横に振った。
「安心しろ、俺は味方だ」
ストレートな物言いが良い。
「ありがとう。…で、味方に相談なんだけど」
「何だ?」
「また付いて来てもらえないでしょうかね」
深刻な相談だと思っていた街木は思わず吹きだした。笑いながら「もちろん」と確かな口調で言ってくれる。それが嬉しい。付け加えられた「お前一人だったら迷子は免れられないからな」という一言は無視したが。
今の会話に安心感を得て、また静かに道を進んでゆく。心なしか身体も軽くなったようだ。さっきまで俯いてばかりいたが、ふと空を見上げると星が早くも瞬き始めていた。その光がなんだか自分のこれからのようにも思えて、漣は思わず頬が緩んだ。
それからしばらく漣は近くの街並みだけで写真の練習を続けた。そして新たな森の写真を見るたびに街木に報告し、付いて来てもらった。でもそのサイクルも三回でやめた。「独りで行ける」という漣の言葉に初め目を丸くしていた街木も、笑って送り出してくれるようになった。森で夕華に会ってからまた強い風が起こるまでの短い時間に、いろいろな話をするのが漣は好きだった。そして帰りは、いつもどこか温かい気持ちに充たされているのだった。
今日は猛暑だ。木陰に居てもアスファルトからの熱とセミの声に炙られる。しかし、森は涼しかった。手ごろな岩に腰を下ろして例の二人を待つ。二人はすぐにやってきた。軽口を叩き合いながら写真の場所に向かう。しかし、目的地に着いた途端蝶輝がふつりと黙った。目線を追うと、そこには知らない女性がいた。花房も不思議そうな声を漏らす。
「…先客か?」
蝶輝がぽつりとつぶやき、花房がそれに何か答えようとしたとき、その女性が振り向いた。猛暑の中でもなぜか彼女の周りは冷えて見えた。何をしに来たのか訊こうと漣が口を開いた瞬間、彼女の顔色がさっと変わった。大股で詰め寄られて漣はたじろぐ。
「──そのカメラ、なんであなたが持っているの? それ、」彼女が一息ついて、そして目に強い非難の色が浮かぶ。「私の妹の物なのだけれど?」
ワタシノイモウトノモノ。その言葉がどうにも飲み下せなくて、漣は何とか問う。
「このカメラのこと、知ってるんですか」
ほんの少し噛み合っていないこの質問が、さらに女性を怒らせた。
「『知っている』!? 知っているかなんて愚問も愚問よ! だから言っているでしょう、それは私の妹のカメラよ! なんであなたが持っているのか、それを答えなさいって!」
漣が僅かに後ずさりする。彼女の鋭い声はその怯えすらも刺した。
「ねえ、何よそれ。何か後ろめたい事でもあるの? ──まさか、あなたそのカメラを盗った?」
その言葉に耐えかねて花房と蝶輝が漣の前に出る。
「もうやめてください。答えられてないでしょう」
「一旦落ち着いてくれ」
女性は構わず二人をにらみ返した。
「これは私と彼の問題よ! …少し外しててもらえないかしら」
一応は問う口調なものの、変えることの出来ない意思を感じさせる言葉だった。花房が蝶輝のトップスの裾を軽く引き、蝶輝は渋々下がった。花房が漣の前で、女性に気づかれないようそっと唇を動かす。「ごめんね、頑張って」だろうか。漣も二人だけに分かるように頷く。花房がほんの少し安心したような表情を見せた。
漣と件の女性しか居なくなった森の中、沈黙が下りる。何回目かの説明を経ても女性は納得せず、二人とも疲弊しただけだった。やがて、彼女がため息をついた。諦めたようだった。
「…何度も説明を繰り返させてごめんなさい。もういいわ。そういうことにしておきましょう」
そう言うと彼女は木陰に移動して木にもたれた。それを見て、漣も涼を求めようと日陰のベンチに移動した。二人の間を陽炎が満たす。何とも言えない距離感だった。とても気まずい。
「そういえば、自己紹介してなかったわね。名乗らなくてごめんなさい。
名刺を手渡される。なるほど、夕華の姉だと思えるような名前だった。朝陽と夕陽の姉妹か。漣も名乗って、一応お互いに会釈した。やっぱり気まずい。先ほどあれだけ詰め寄られていればしょうがないだろう。またしばらく黙る。遠くで沢の音がした。
先に口を開いたのは朝羽だった。
「今、写真を練習しているって言ったわね?」
「あ、はい」
「あの子もね、写真が好きだったの」
「そうなんですか」
「カメラを持っている表情…似てるわね」
「…」
僅かに沸いた違和感。しかしその正体はつかめず、実態が見えないまま霧散する。
朝羽が話を続ける。
「漣さん、でよろしいかしら? 写真を撮るようになったきっかけを訊きたいのだけれど」
「友人が、小さいころに写真集を見せてくれて。それに感動して、友人と写真を練習し始めたんです。まあ、すぐに友人のほうがうまくなっちゃったので、僕は最近までやめちゃってたんですけど」
「そう。あの子のきっかけも似たようなものだったのよ。最初に私がカメラを買って、あの子が真似て、ってね」
朝羽が少し懐かしそうにした。──なんなんだ、この感覚。漣は例の違和感を率直に口にした。
「あの、先ほどから口調が、その…冷たいように感じて。妹さんと、何かあったのですか」
驚いたようなその顔が物語っていた。
「お見通し、ってわけね?」
漣は少し苦笑した。
朝羽が、漣の問いへの答えを出す。
「…鋭いのね。そうよ。写真のことで、仲が悪くなってしまったの」
意外だった。あの子が他人と仲違いするなんて。不思議そうにした漣を見て、朝羽は鼻で笑った。
「あなた、あの子のことなーんにも知らないのね? …いいわ、聞きなさい」
まず、あの子が写真を撮るようになったきっかけ…子供のころ一緒に見た写真集の夕焼けのページだったと思う。よく言ってたわ。いつかここに行く、うまくなったら夕日の写真を撮るって。お姉ちゃんみたいにカメラを持って出掛けるの! って言ってたわ。でもね、あの子は体が弱かった。なかなか外に出られなかったし、できても少しだった。執念かしらね、外に出るときはほとんど写真を撮ってたわ。予行練習として、この地域にずっと通ってた。ものすごく真剣だったのもあってすぐうまくなったわ。でも、私はそれが嫌だった。くだらない劣等感で仲が悪くなって、すぐ妹はお出掛けに誘ってくれなくなった。そのまま大人になるまで口を利かなかったわ。でも、ある日あの子が電話を掛けてきてね、何て言ったと思う?
「今までごめんね、姉さん。…お願いなんだけど、あの夕陽、一緒に見に行ってくれないかな」
断れるわけなかったわ。改めて二人で会って今までのことを謝って、十年ぶりに笑った。子供みたいに指切りまでしてね、その日は別れたの。あの日見た夕華の写真、そりゃあ巧かったわよ。あんたにも見せてあげたいぐらい。…話が逸れたわね。ともかく、その日はそれで帰ったんだけど。当日、私に急に仕事が入ってしまったの。断りの電話を入れて、逃げるように職場に向かったわ。そのとき「明日ね! お願いよ」って言ったのだけれどね。仕事を何とか終えて、お詫びにケーキでも買って帰ろうかと思って電話を掛けた。出たのは、知らない男の人だった。お医者さんだった。そこで、妹が死んだことを知った。馬鹿みたいよね。あの子、「今日を逃すことはできない」って一人で出かけて行ったらしいわ。そこに車ががつん、と。
私はね、あの子の「一生のお願い」を聞いてあげられなかったの。だから私には、もう夕華に何かしてあげる資格はない。
朝羽は顔を上げた。心なしか視線は和らいでいた。
「私が言えることかはわからないけれど、こうしてあなたみたいな話す相手がいて、あの子も少しは救われてるんじゃないかと思うわ」
漣は何も言えずに立ったままだった。自分がいかに無知だったか、薄すぎる志で彼女を手助けしようだなんて思っていたのか思い知らされた。朝羽がバッグの紐を掛けなおした。
「じゃあね、漣さん。…前に見た写真、良かったわよ」
朝羽が立ち去った後、漣は手元の名刺を見た。彼女は一度自分の写真で特集を組んでくれた雑誌の出版社の編集者らしかった。なんだか自分が惨めに思えて、漣は逃げ出したくなった。その時背後から、すっかり耳に馴染んだ声が聞こえた。
「姉さん、言っちゃったかぁ…よりにもよって、全部」
「夕華」
「ん?」
「後悔は、無いの」絞り出すような声に、夕華はわずかに顔をしかめた。そして肩を竦める。
「さぁ?」
「でも、あの時、もし──」
右人差し指で制される。
「でも、も、もし、も無いんだよ。人生なんてこんなもの。あれが私だったから」
「そんな…」
風が吹き始めた。
「もう、行かなきゃ」
「待って! 僕はまだ、君のことを何も知らないのに…!」
夕華はそれが聞こえなかったかのように言葉を続けた。
「思い出したわ、私の終着点」
「…え?」
「次で最後。もう自分で行けるから。今までありがとう」
「…」
「じゃあね。お世話になったわ」
夕華が去った後の虚空が、いつもとは比べ物にならないくらい寂しく感じられた。
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