終わりに—長い言い訳—

 さて、ここ迄読んで下さり誠に有難う御座います。

 と言っても、世の中には先ず「はじめに」と「あとがき」を読み、文章全体の構造を知りたがる方もいるかと思うので(私自身がそうなのだが)、もしかすると未だ中身を読まれていない方もいらっしゃるかも知れない。


 なので、ここでまた全体を大雑把に纏める様な事を述べれば、この『カルナヴァル』とは酷く突き放した視点から「互いを慮るばかりに人が鬼になる様」を衒学的ペダンチックな作者が、己の趣味に基づき、酷く捻くれた書き方で、アングラ演劇的に描いた「狂宴」である。時間軸も互いの思いも単純なのに錯綜し、その錯綜の受け止め方の違いから害してしまう話である。


 この捻くれた作者は、一人称であれ三人称であれ、その登場人物達が自分自身さえも誤解している事からドラマを進める悪癖を有し、それを読者が感情移入できない様に突き放したまま描く事をする。

 幻惑と詭弁を弄して構造を練り、酩酊と陶酔によって筆を進める。

 その故に、明確な意志を織り込みながら、意味を曖昧にする。


 云ってしまえば、それだけの話なのである。


 ところで、今回の様な話を書くと「作者の実体験の配合率」を気にされる向きも有ろうかと思われる。

 先ず安心して欲しいのは、これはフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは関係なく、また同名のモノとも無関係である。

 現に、この作者は刺されても居なければ、刺してもいないし、何より生きているし、狂気に支配もされていない(と、少なくとも自身も周囲も信じられる程度には伊意思疎通ができている)。


 その上で、下記の言葉を送らさせて頂き、これにて冗長な別れの挨拶を終えようと思う。


「人間が想像できる事は、人間が実現できる事である」

           —ジュール・ヴェルヌ—

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作者による自作の誤読(或は自作を批評すると云う事について) @Pz5

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