『カルナヴァル』について

 淑女紳士、少年少女の皆様、さて、お待ちかね—頂いたかは定かではないが—ようやく拙作『カルナヴァル』の解剖ショーの始まりである。

 ただ、ここでも、これを読んで頂いた方一人一人の「誤読」を大切にして頂く為に、腑分けはするが、その全体が意味する処のカエルその物には言及しない事にしておく。これは何も文学的で高尚な理由からではなく、単に私が私の書いた物を、皆様方に勝手に過大評価したままにしておいて貰いたい、と云う全く下賎な下心の故である。

 それでは下記より、前述の「書き方」に則って御覧に致しますれば、さて、お立ち会い。


1—「主題」について

 「人が鬼になる話」を書こう、と思ったのが発端である。

 実は、今回のを書く前に「軽い異世界転生物」を書いていたのだが、これが如何にも当該コンテストの文字数レギュレーションを超過するのを避けられなくなりそうになり、急遽「他の、もっと説明が無くても通じるものを考えねば」とアイロンを当てて居た時に降って湧いたのが、今回の『カルナヴァル』の種であった。

 して「人が鬼になる」とはこれ如何に、と考えを進めた処、地獄や餓鬼、畜生或は修羅等の仏教の三悪道四悪趣を見るに、「ある系(システム)の中心軸を離れ、ただ移ろう心のままに翻弄される姿になる事」と思い、それを占星術の太陽系に当て嵌め最初の和歌を詠んだ事で、主題と物語の方向性が決まった。



2—「構造」について

 「主題」が決まれば凡その構造もほぼ同時に決まるのだが、今回の場合でいくと、私にとり「人が鬼になる話」とは「黒塚」の「安達ヶ原の鬼」や『源氏物語』の六条御息所等が出て来る、能や人形浄瑠璃の印象が強くあった。

 そこで何本か能の映像を見て、(特にレギュレーションも無かったので)戯曲形式にする事と、能面を使う事、序破急の3幕構成とそれぞれの幕に3首の和歌を軸にする事を決めた。そこに、短歌の中にグレコ・ローマンの単語を混ぜた現代人が描くのだから、と仮面劇の共通点を持つヴェネチアのコメディア・デラルテのマスクも混ぜて、役割や感情表現はこの仮面達に任せる事にした次第である。夫々の仮面の意味に関しては—皆様方の『誤読』を助ける為にも—特にここでは言及しない。

 因に、和歌には返歌が入る事があるが、今回は「最初の歌には返してあるが、最後へは自分でその詠み人を切り捨ててしまった」と云う形で「鬼になった事」と三幕構成な事の二点に対応させた。

 また、この段階で「幕末期に欧州の戯曲を漢訳したものを昭和初期の人が口語訳したものを基に現代日本人がアングラ演劇用に味付けした日本語」と言う、かなり捻くれた文体にする事も決定した。最初の段階では能を扱う事から「平安末から鎌倉時代の漢文」にしようと思ったのだが、小道具に占いとしてのタロットカードを出す関係上、18世紀、できればエテイヤやマダム・ル・ノルマン(前者は「タロット占いの論理」の、後者は「占い師のイメージ」の基盤になった)以後の19世紀初頭より後にする必要が生じた為、幕末になった。



3—「プロット」について

 さて、ここ迄書いて、勘の良い読者の方はお気づきだろう。そう、物語ストーリーも語りドラマも何も決まっていないのである。慥かに、構造や小道具、文体は決まっている。しかし、「誰が、いつ、何処で、何を、何故」するのかと云う、一文を作るのに基本的な事さえ、何一つ、決まっていないのである。

 決まっていないのは詮方ないが、上の構造を思いついた時点で締切まで2週間もなく、さりとて私は他の事もしていて時間が潤沢に取れる訳でもなく、さて如何するか、と迷った挙句、この前に書いたホラー物の設定を引きずり、視点をより突き放したものに変える事になった。詰まり、各人が「よかれ」と思って各々に最悪の結果を齎し、それを行った事を悔いる、と云う筋であり、男はロジカルに女1の幸福を考え、他方女1はエモーショナルに「上手く云っていない心の交流」を正そうとし、女2は己の直感等で眼前の人を「すっきり」させて上げようと動き、各人が「良くしよう」と其等の思いが交錯した結果、男と女1に苦を齎し、その苦に堪えかね女1が「鬼(真蛇)」になる話である。

 この構造や各人の動機は、前述した『安達ヶ原』でも見られるものであり、それを登場人物の名前さえ無いミニマルな舞台—ラーメンズのコントを思い出して頂ければ分り易い—に落とし込もうとしたのである。



4—「ストーリー」について

 プロット(各人の行動原理や因果関係)が決まれば、次はそれを如何に語るかのストーリーや、見せるのかのドラマツルギーの出番になるが、今回は字数制限が短い事もあり、特に捻る事はせず、時間軸通りにシンプルに並べた。しかしそのまま一本調子に進むのも面白くないので、「発言者の言い分」と「発言者から見た対話相手の姿」の食い違いを、仮面に仮託しつつ、現在と過去を織り交ぜ、交互に描く事で「同一事象が観測者によって錯綜する」様を、スポットライトの当て方や、中央の扉を介した上下カミシモの位置、フィルターの前後で表現する様試みた。

 もし万一この戯曲が気に入った舞台関係者の方が居られたら、是非音響の変化や音楽の使い方等も工夫して頂きたい。何せ仮面を被っての演技なので、役者の声はくぐもり、アテレコや義太夫の様に別の人がその場で当てる等の工夫が必要になるだろうから、そこにもうひと捻り加えて頂きたい。

 見せドラマツルギー自体は、演劇は「総合芸術」でもある事から、各登場人物の立っている位置や仮面の扱いに注意を払い、台詞は敢えて空転する様にしてみた。一読された方は分るかと思われるが、台詞と振舞は乖離したり矛盾する事も多く、或は各人が自身の行動や認識を正確に行っている訳では無い様にした。(寧ろ、現在の私の書き方はそう云う方が多い)



5—「書く」事について

 今回は物語やドラマが一本道で単純なので、それほど書くのが大変な様には見えない……私もそう思ていた。しかし、先にも述べたかも知れないが、私はヴィジョンが見えてしまえばそこで満足してしまい、それを他者に伝える事に、非常に怠惰で疎い性格であるから、「既に決まっているものを書く」と云うのが全く苦手なのである。

 しかし、私が書かないと、何も進まないのである。

 そこで、アルコールを入れて音楽を流し、その勢いで描く事が多い。(その為に推敲の際に修正する箇所が多くなるのだが)

 で、この音楽も「主題」に対して本当に様々で、書いて居る物の雰囲気に近いモノを選ぶ事もあれば、全く逆にその雰囲気とは大きく異なるモノを選ぶ事もある。例えば、『カルナヴァル』を書く前に書いていた気楽な異世界転生物はルネサンスのリュート音楽等を聞きながら書いていたが、今回のは全く逆にエレクトロジャズやコンテンポラリージャズ等、「クラシックオペラをコンテンポラリーアートと合わせてみた最近のアート演劇」の様な感じで書いて居た。

 その意味では、もしこの戯曲が実際に上演されるなら、曲は電気楽器やエレクトロニカ、演出もサイバーパンクな雰囲気でも面白いかも知れない。

 こうして、アルコールと音楽によるトリップで、私自身の怠惰をようよう乗り越え、何とか書かれたのである。

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