思い返せば、自分は子供の頃から変わってるとよく言われていた。だが、何が変わっているのか良く判らなかった。近所のおばさんからは「まっさか、可愛い子じゃねえ?」とかよく言われていたし、幼稚園の先生や病院の看護師(幼稚園の時に盲腸や交通事故で入院をしていた)のお姉さんから、よくかわいいかわいいと言われていたくらいだから、少なくとも容姿は平均以上だったのは確かなはず。自分でも周りの子より目鼻立ちがくっきりして、周囲の子供たちよりは明らかに可愛い子供だと認識していた。だから変わった子扱いされるのは嫌だったし、何故言われるか理解出来なかった。

 俺は父親と母親が年をくってから産まれた子だった所為かたいそう可愛がられた。特に母親からは溺愛されたようだった。俺が生まれたのは東京オリンピックの興奮もさめやらぬ昭和四十年代のごく初期、高度成長のまっただ中だ。家庭にはテレビが普及し始めた時期でもあり、ご多分に漏れず家にも小さな白黒テレビが置いてあった。父も母も戦前生まれで、しかも、二人とも貧乏な小作農のせがれと娘だったから、高等教育すら受けておらず、農地解放で得た数反の田畑を耕して生活の糧にしていた。田畑が何町圃もあるような大農家なら普通のサラリーマンより稼げると聞くが、うち程度の農家では食っていくのがやっとだ。だから農閑期など暇な時は父は土方仕事、母は近所の食品工場へパートへと寝る暇も惜しんで働いていた。

 俺はそんな家庭に育ったから、小さいころから、家にある小さな白黒テレビが乳母のような友達のような存在だった。朝起きると母も父もおらず、こたつか座卓の上に置いてある、梅干しも海苔も巻いていない塩むすび、—たまに味噌の時もあったが—を頬張りながら、NHK教育の幼児向け番組を見ていた。その番組も九時になれば終了して、その次の番組、セサミストリートを英語もわからないくせにぼうっと見ていた。そして、小学生や果ては中高生向けのお勉強番組までよく見ていた。なぜそんなのを見ていたかというと、他の局では主婦向け番組くらいしか無くつまらなかったからだ。

 今考えてみれば、自閉症の子供の特徴の一つではあるが、一般的に自閉症は感情表現にとぼしいとか他人とのコミュニケーションが難しいという所だろうが、自分にはそういう兆候はみじんも無かった。というのは、どちらかというと随分とおしゃべりな子供時代だったと覚えている。例えば、母親に余りにもペチャクチャとおしゃべりが過ぎるのでしょっちゅう咎められていたからだ。

 その件で記憶の中でも印象に残っているのは、『勲は隼ちゃんにそっくりだ!』という言葉だ。

 親戚に隼ちゃんという、少し頭が弱い人が居たのだが、うちの両親は良く話のネタにして居て、やれ『隼ちゃんは変わっている』『隼ちゃんは脳が足りない』、終いには『あれは兄さんの子供じゃなく、浮気して出来た子』などとしょっちゅう話していたのだ。だから子供心に隼ちゃんに似ていると言われるのは嫌だった。

 だから、件の言葉を使われるとまるでパワーワードを唱えられかのように、ピタリと黙った物だった。両親にとっては都合が良い言葉だったろう。五月蠅い子供を黙らせるのにッ丁度良かったからだ。

 だが、おしゃべりだったのは小学校低学年くらいまで。それまではよく喋る明るい子だった。まわりが大人ばかりだからたわいも無い言動でも可愛いというだけで許されていたからだと思う。だが、幼稚園、小学校と集団生活に入ってくるとそう言う訳にも行かなくなってくる。それでもまだ幼稚園までは、自分の事を気に入らない子が、たまにいじめてくる程度でまだ良かった。成長にするにつれ学級内に構築されたヒエラルキーにより、自分は徐々にカーストの下層へと固定されていった。

 原因の一つにはやはり『変わった子』というのがあったに違いない。周りの子供に比べエキセントリックなところがあったのだ。しかし、自分がエキセントリックだった記憶は一切無い。だから自分の何が原因でそうだったかというのは今もって判らない。

 もう一つの原因は気弱な性質だったとこと。元来、父親譲りの大人しい性格だったことに加え、埼玉の僻地に暮らしていたお陰で、幼児時代によく遊んだ子は少なく(それでもまーちゃんと言う子とうーちゃんと言う子とは良く遊んだ。彼らとは結局小学校高学年で疎遠となるが)、ほとんど人にもまれたことが無かったのが少なからず影響が合ったのだと思う。

 そして、もう一つの原因はスポーツが大の苦手だったと言うこと。別に太っていた訳でもなく、どちらかというと痩せすぎなくらいだったのだが、身体を動かすことは苦手だった。いや、当初は少なくとも嫌いでは無かった筈だ。だが、恐らく今にして考えてみれば先天的に、人より運動に関する能力が劣っていた。いわゆる運動音痴と言うやつで、例を挙げれば枚挙にいとま無いが、先ず短距離走、所謂かけっこは万年びりっけつ。キャッチボールをやらせれば、まともにボールはキャッチできないし、投げればあらぬ方向に飛んでいく。サッカーならボールを蹴れない、防御も出来ない。といった調子だ。だから、周りから見れば、きっと身体障害者のように思えただろう。そんな調子であるから、運動会やクラス対抗リレーなどでは戦犯扱いされた。特に最悪だったのは、三年生、四年生の時に同級生になった矢内達也という学校近くの商店の小せがれだ。あいつには同じチームになる度に「お前の所為で負けた! 死ね!」などと激しくイジメを受けた。そうして、俺は徐々に陰気で暗い性格になっていってしまったのだ。そして自信やプライドなども徐々に失って行ったのだ。

 だが、一方父親譲りなのか知能だけは高かった。けっして天才的と言うほどでは無かったが、思いつきや発想が人とは違っていて、算数の計算問題などは得意であった。例えば、89+112等という問題は誰に教わるわけでも無く、百−十一+百+十二と解けば直ぐ解けると感覚的に知っていた。だが一方、読解問題や国語、漢字を覚えるのは苦手だった。

 よく覚えているのは小二の時の尾熊という年輩の女教師がスパルタ式で毎日行う漢字小テストで、スコアが毎日教室に張り出されたことだ。自分はそこには毎日低い点数を張り出されて、嫌な気持ちだったことは今でも覚えている。先生にとっては生徒のモチベーションを上げさせる為に以前からやっていた手法なのだろうが、一方、点数が上がらない生徒である自分に指導を賜った覚えもないから、底辺の子供を何とかしよう等という良い先生でもなかったと思う。

 そんなのであるから、小学校、中学校ではよくイジメを受けた。今にしてみれば良く自殺など考えなかったと思う。昔は今みたいにえげつないイジメが少なかったのか、自分の精神力が強かったのかは判らない。ただ一つ言えるのは、全教科が零点などいう劣等生ではなく運動意外は漢字は除きそこそこ頭が良かったと言うことだ。先ほど話した計算の件もあるが、理科だけはずば抜けて良かった。これは小学校低学年で父に買って貰った、科学図鑑などが好きでよく読んでいたからだと思う。とにかく理科だけは何時もテストは百点満点だった。だが、その代わり漢字テストは芳しくなかったこともあり、ある日、母親が図鑑を読むこと禁止した。母親が賢明な人なら、いまこのような状況に陥ってなかったはずだ。とにかくそこが一つの人生のターニングポイントであった。

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BLACK HOLE 諸田 狐 @foxmoloda

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