東尋坊

髙田野人

 東尋坊


「自殺ですか?」と問いかける男の声は、「釣れますか?」と釣り人に問いかける口調によく似ていた。似ていたものだから、あまりにも似ていたものだから、わたしは驚きにうっかりと足を滑らせて、自殺ではなくて事故で死んでしまうところであった。


 危うくのところで踏みとどまり、振り返った。振り返るわたしの表情には確かな苛立ちがあった。いま、男の掛けた声に殺されかけたのだ。それくらいの権利はあるだろう。と、顔では怒りを示しながら、頭のどこか片隅の、冷めた部分が、そんな資格は無いだろう。と、正論を語っていた。


 わたしはこの時、確かに、みずからの意思によって死のうとしていたのだ。


 茶封筒の遺書を残し、その上に重しとなる革靴の両方を綺麗に並べ、白の靴下一枚でゴツゴツとした岩肌に立った、わたしのすぐ目の前には東尋坊の崖下の海が広がっていた。夜であったから、ただ、黒一面の海があった。波が岩肌を削る音が聞こえた。岩肌が波を砕く音が聞こえた。ただそれだけが、夜の海の広がりを感じさせる唯一のものであった。


 空の光は月も星も、厚い雲に隠されていた。

 日本海の荒磯が見せる、暗い空模様であった。


 男に問われ、わたしは言葉に詰まった。


 ここで、「はい、自殺です」と正直に答えるのもなにやらおかしいものがある。笑いを誘う奇妙がある。けれど、違うのだと嘘でとぼけてみせるには、白の靴下一枚という格好が、あまりに説得力を欠いていた。わたしはただ言葉に詰まり、ただ無言のまま、暗がりにたたずむ男のことをじっと見つめた。


 歳は私よりも上、私の父よりも少し上、といったところだった。背格好なら、地元の漁師を思わせた。ここが崖上ではなく、港や、桟橋や、漁港といったところであったなら、まず、疑いはしなかったことだろう。釣竿の一本も持っていたなら、ますます疑いはしなかったことだろう。


「あぁ、べつに止めるつもりはないのです。ですが、この場所は避けたほうが良いですよ。崖の下が中途半端な浅瀬の海になっているのです。手足の一本は簡単に折れるのですが、それ以上には落ちて傷つくこともありません。落ちれば最後、崖をよじ上ることもできず、かといって海を泳ぐこともできず、あっぷあっぷと苦しみながら、じわりじわりと死んでいくのがこの崖なのです。たとえ死ぬにしても、人には死に方というものがありますでしょう?」


 暗がりにたたずむ男は、本心でそれを語っているようだった。

 親切からの、ようだった。


「どうして、そんなことがわかるのですか?」


「ただの経験です。十年以上の昔から、この崖淵がけふちではよく飛び降りがありまして、その遺体を目にする機会も幾たびかありまして、それらには皆一様に溺れ、苦しみぬいた跡がくっきりと浮かんでおりました。顔にです。この崖淵より飛び降りても、人はすぐに楽にと死ねるわけではないようなのですよ」


 男があまりにも淡々と語るものだから、自殺の一歩手前までいったことさえ忘れて聞きいっていた。海に落ちれば、そこで終しまいなのだと思っていた。落ちたあとのことまでは勘定のうちに入れてはいなかった。わたしとて、なにも好んで苦しみたいわけではない。それは確かにそうだ。できることなら、素早く、楽に、確実に、たしかにそれが良かった。


「人の自殺というものは、生きることに苦しみぬいたすえに選ばれたことでしょうから、死に際までもさらに苦しまねばならぬというのでは、道理や勘定に合わぬことだと私は思うのです。せめて、人生の最後くらいは楽であるべきだと、私は思うのです」


「確かに」と、ついつい頷きを返してしまっていた。


 存在の、不思議な男であった。


 崖のそば、岩肌のうえ、暗がりにたたずむ男からは生きている人間の気配がしなかった。かといって、幽霊やそのたぐいのようなものの気配もしなかった。例えるなら、木や、石や、そういったものの仲間のように感じられた。


 それは、よく鏡で見る、ここしばらくの自身の雰囲気に似ていた。生きながらにして死んでいる、つまりは、ただの物質に近かった。ただの物質が、化学反応に支えられ、かろうじて日々を動いている、そういうふうな、わたしの雰囲気によく似ていた。


「わたしを、わたしの死を、止めに来たのではないのですか?」


「いえいえ、そうではありません。順序から言えば、私のほうがこの場には先に在ったのです。暗がりでぼんやりとしておりましたから、アナタは私のことに気が付かなんだのです。遺書を置いて、靴を並べ、崖の淵に立って、さぁ飛び込むぞと5分か10分を意気込んだところに、そういえばと思いだして声を掛けた次第となります」


 男の言葉に頬がかぁっと熱くなった。


 なにか、とてつもなく恥ずかしいところを見られた、そんな気がして堪らずに両の手で顔を隠していた。5分に10分、怖気づいて、勇気も男気もなく、崖淵より飛び込むこともできず、手足をがくがくと震わせていた臆病者の背の姿は、さぞかし笑えるものであったに違いない。


 恥ずかしさを隠すための怒りが生まれ、キッと男を睨みつける。だが、暗がりにたたずむものは石か木の仲間の顔をして、その表情に人を笑うようなところは一切になく、怯え震える背を、ただぼんやりと眺めていたに違いなかった。


 その顔を目にしてしまえば、わたしの見当違いの怒りもすぐに萎れてしまった。


「どうして、こんな夜更けに、このようなところに?」


「それは、まぁ、供養のようなものです」


「供養ですか? いったい、どなたの?」


「はい、今日が息子の命日でして、墓参りのついでに寄った次第となります」


 男の言葉を理解するには、いましばらくの時間が必要であった。そしてわたしの鈍い頭が男の言葉を理解したとき、背筋をゾゾと走るものがあった。


 何年か前の今日、暗がりにたたずむ男の息子が、この崖淵より海へと飛び降りたのだ。死んだのだ。浅瀬の海に身体を打ちつけ、手や足の骨を折り、後悔すれど崖は登れず、泳ぐにも不自由し、生きるも適わず、死ぬも適わず、溺れ、苦しみ、あがき、もだえ、やがてはついに力尽き、たらふくの海水と共にぷかりと浮かぶだけの死体になったのだ。


 彼を喰らったその海に、自分がつづいて飛び込もうとしていたのかと思うと、言葉にしがたい不愉快な感覚が起こった。一瞬の前、ただの水溜りであったはずの黒い海が、いまは、なにかおぞましい色に濁った溜り水のように感じられた。黒の海は、黒の水は、なにか得体のしれないけがれに侵されていた。


 わたしの足は、一歩、その崖淵より後退あとずさりしていた。


「それは……、ご供養の邪魔をして申し訳ない」


「いえ、私こそ邪魔をして申し訳ないことをしたと思っております。こういうものは勢いが大事と聞きますから。人の命が掛かったものは勢いが大事と聞きますから。邪魔をしたこと、ほんとうに悪いと思っております」


 それは確かに、と、答えたいところであった。


 情けなくも、5分に10分と時間を費やし、ようやくわたしの心が定まったところへ、背に男の声が掛けられたのだ。だが、実際に飛べたかは怪しいところがあった。これでは男に不満をいう筋合いには無い。それに男は、これも親切と呼んで良いのか、この崖淵から飛んでも楽には死ねぬのだと教えてくれた恩人でもあった。


「楽に死ねるところをご存知ですか」と、試しに問いかけてみた。


 男はこくりと頷いた。


「この崖淵に至るまでに、いくつもの看板を見て来たでしょう。生きろとか、死ぬなとか、命は大事なものであるとか、そういった看板を、いくつも、いくつも目にして来たでしょう?」


「確かに、あちらこちらと、いくつもそのたぐいの看板なら見かけました」


「看板を目にするたびに、なにやら嫌な想いが湧いきて、目を背けながら歩むうちに、アナタは自然とこの崖淵に辿り着いたのではありませんか?」


「言われてみれば、そのような気配が、あるかも知れません」


 潮風に濡れた岩肌の、それも暗がりを、ろくな明かりもなく看板の文字を避けて歩いているうちに、この崖淵へと自然に辿り着いたような気がした。よくよく考えてみると、それが唯一の道のようにも思えた。どこかで分かれ道があるたび、その道のまえには看板が立ち塞がり、別への道は閉ざされていたようにも思えた。


「鬼がおるのです」


「鬼、ですか?」


 暗がりにたたずむ男の声に、ようやく感情のようなものが混じったように思えた。怒りのようであった。


「退治せねばならぬ、鬼がおるのです」


「鬼とは、なにかの比喩でしょうか?」


 男は、深々と頷いた。


「その鬼は、人のかたちをしております。生きることに苦しみぬいて、死に楽を見いだした人間に、さらなる責め苦を与えて、ひとり嗤う鬼がおるのです」


「いったい、それはどなたのことです?」


「看板を立てた者のことです」


 暗がりにたたずむ男の声には、もはやハッキリとした怒気が含まれていた。


「自殺というものは人のこころにやましいところがあります。立て看板を見かけるたびに目を背けたくなります。目を背けるたびに足取りは操られ、そしてここに、飛び降りたとしてもなかなかに死ねず、苦しみぬいて溺れ死ぬ、この浅瀬の崖淵へと人が追いやられているのです。この崖淵へと誘うものがおるのです。今際いまわの人を苦しめて嗤う鬼がこの世にはおるのです」


「それは、その……考えすぎではありませんか?」


 問いかけに、男は首を横向きに振った。


「10年、掛かりました。調べ上げるに、10年の時間を掛かけました。この10年、死を望んで飛び降りたものは、皆一様に、この崖淵より飛び降りていきました。ずっと、この目で、見ておりました。暗がりに隠れ、人が海へと飛び降りていくのを、ずっと、私はこの目で見ておりました」


「止めなかったのですか?」


「止めませんでした。ただの一度も。私は誰として、ひとりたりとも」


 ここにいたり、男が石や木の類でないことにようやく気が付いた。


 その感情があまりにも静かであったから、石や木の類に見えただけであることに気が付いた。瞳には、たしかに意思を宿していた。瞳には、たしかに鬼を宿していた。鬼気迫るという言葉の意味を、わたしは初めて知った。それは、あまりにも静かな怒りの感情だった。


「ではなぜ、私のことを止めたのですか?」


「震える背に、息子もこうであったのだろうかと、ふと、重ねて思うてしまったからです。今日が、息子の命日だったからでしょうか。アナタの歳格好が似ていたからでしょうか。5分、10分と、いまさらになってから迷うところが、息子の性根にそっくりだったからでしょうか。思わず、声を掛け、引き止めていました」


 男は、けれども諦めたような苦々しい声を絞り出していた。


「止められるとは思いませんでした。アナタが死を選んだのは一時の気の迷いというわけではないのでしょう。大の大人が考え抜いたすえの結末なのでしょう。それが私の言葉ひとつで簡単にくつがえるなど、自惚れたことを申し上げたりはいたしません。私が言えるのは、その崖淵から飛び降りたなら、長く苦しむことになるという、その一事のみです」


 言われ、苦々しい思いが奔った。


 ここに至り、わたしのなかには、いまだ止めて欲しいという想いがあった。なさけなくも、いまだ止めてほしいという想いがあった。けれど、どんな暖かな言葉を投げかけられようと、自分の死がもはや止まらぬものであることは重々に承知していた。人生のつきあたりというものは、そういうものなのだ。結末ならばとうの昔に定まりきっていた。あとは、時間と場所の問題ばかりだ。


「看板の向こうの道を目指せば、どこの崖でもここよりは楽に死ねることでしょう」


「ありがとうございます」


「妙なことで感謝されてしまいました」


「たしかに」


 死を前にしたやりとりにしては、あまりにも滑稽が過ぎた。

 互いに、何に対して笑っているのかもわからない笑いが漏れた。


「あなたは、どうなされるのですか?」


「鬼を、退治に行こうと思います」


「退治とは?」


 暗がりにたたずむ男は、ズボンの裾からズルリと金属色の長い刃を取り出した。日本刀ではなかった。おそらくは、刺身につかう柳葉の、鋭く尖った包丁であった。その鋭さに、男の本気を感じた。


「こういうことです」


 男は刃を手にもって、深々と頷いた。


 止めようか、と思った。止まらぬだろう、と思った。この男の決意を止めるには、この男を殺すほかにないだろうと思った。そして、止める気にもなれなかった。誰かの死をもてあそわらうものがいた。自分自身も弄ばれた。知らず、この崖淵へと誘い込まれた。飛び込んでは溺れ、苦しみぬいて死ぬことを望まれた。きっとこの崖淵から飛び降りたなら、ゲタゲタと、きっとその鬼は嗤ったに違いない。それを思えば、どうしようもない怒りが湧いて、むしろ、自分こそがという気さえも起きた。どうせ、一度は死ぬと決めてしまった身の上なのだ。


「どうせなら、私が。私なら、死んで罪から逃げきることが――、」


 お節介な言葉は、途中で遮られた。


「いえ結構。今日は、息子の命日ですので」


 それは道理のとおった理屈ではなかったが、なぜだか、とても納得のいく答えであった。


 暗がりにたたずむ男は答えると、わたしが辿ってきた道を逆向きに歩き始めた。その道はよく見ると、岩肌の上だというのに、まるで箒でもかけられたかのように砂利もなく、とても歩きやすい顔をしていた。気がつかなかった。自分自身のことで精いっぱいであったから、気がつくことができなかった。自分のうかつに腹がたった。


 揃えて脱いだ革靴を履きなおし、茶封筒の遺書を懐にしまう頃、男の姿はすっかりと夜の闇のなかに消えていた。


 波が岩肌を削る音が聞こえた。岩肌が波を砕く音が聞こえた。崖淵の眼下には東尋坊の黒い海が広がっていた。黒い海が、わたしを呼んでいるような気がした。けれど、その誘いに乗る気にはなれなかった。おそらくは、今日という日が、あの男の息子の命日であったから。とか、そんな理由で。


 歩いてきた道を引き返し、そしてやがて、一枚の立て看板に出会った。

 命を大事に。とか、そんな言葉が書かれていた。


 思い切り、革靴の底で蹴り飛ばしてやった。それはもう、とても良い音がした。








 了


 初出2019年3月29日 小説家になろう

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東尋坊 髙田野人 @takadaden

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