5-2
《とある兵士の懐郷》
話には聞いていたさ。
なんとかいう魔獣を倒しただの、どこそこの将軍を倒しただの、果ては異世界の勇者を倒しただのって、話だけはさ。
けど、そこまで話が大きくなってくると、もう誰だって真面目に聞いたりしない。
ウチの将軍だってそうさ。巷じゃ百人斬りの英雄だなんて言われてるけど、あの弛んだ腹にそんなスタミナなんてあるわけない。それと同じようなもんだと思ってたんだ。
そんだけでっかいハリボテ用意して、当の本人は一体どんな面してんだろうってさ。
けど、俺を含めて、誰も理解してなかったんだ。
ただ強いってだけなら、どこの国にだって名の上がる猛者の一人二人はいるもんさ。歴史を繙けばもっと多い。
魔獣を倒しただの、将軍を倒しただの、魔王を倒しただの、ってさ。
けど、違うんだ。
あいつはそういう奴らとは違うんだ。
それを、誰も分かっていなかった。
「じぃぇえあああああああ!!!!!」
だって、信じられるか?
三千人の軍勢に一人で殴り掛かるやつがいるなんて。
そりゃ最初はビビったよ。
進軍する俺らの軍の、俺はわりかし先頭に近い位置にいたから、そいつの姿もなんとか見えたんだ。
荒野にたった一人佇む黒髪の大男。
それが三千の軍の前に立ちはだかって、挨拶もそこそこに一番前の兵士に殴り掛かったんだぜ?
みんなの顔に浮かんだのは困惑だった。
こいつは何をやってるんだ?
気が触れた狂人なのか?
そして、あいつがそうだと分かった時には警戒した。
まさか、勝てる見込みがあるのか?
よっぽど強力な魔法でも使うのか?
それとも、今にも奴の背後から敵の大軍がやってくるのか?
けど、そんなことはなかった。
いつまで経ってもそんなことは起きなかった。
あいつはただ自分の拳だけで。
あるいはこちらの武器を次々と奪って。
魔法もなく、策もなく、生身の体で兵士たちを薙ぎ払っていた。
その事態をどうにか飲み込んだときは笑いがこみ上げた。失笑だ。
俺の後ろの方にいた隊長は呆れ顔だった。
さっさと仕留めろ。こんなことで進軍を止めて、いったい何をやってるんだ、と。
けど、奴は止まらなかった。
誰も止められなかった。
いつまでも、奴は俺たちの軍――三千人の兵士を、少しずつ、少しずつ、たった一人で削り続けていったんだ。
「ずぅえりゃあ!!」
「ひぃ!」「おぐっ」「おい! 何をやってる! いい加減に――」「ぎゃああ!!」「やめろ! 止まれ! とま――」「ぜえあ!!」「うわあああ!!」「な、なんだ。一体なにが起きてる!?」「落ち着け! 落ち着け! 相手は一人だぞ! 落ち着いて囲み込むんだ!」「え?」「ど、どこに行った!」「消え――」「ぎゃああ!」「はあ!?」「なんで後ろに――」「おおおあああああああああああああああ!!!!!!!」
流石におかしい。
三千人の兵士たち全員がその異常事態に気づいたときには、混乱はもう収拾不可能なほどに広がっていた。
そして、とうとう――。
「えええ、貴様ら、いい加減にせんか! たかだか一人の兵相手になにをしてお――」
ごりゅ。
怒声を発していた、俺の隊の隊長の声が途絶えた。
敵の姿を見失っていた俺が異変に気付いて振り返ったときには、首を捩じ折られた隊長の体が落馬するところだった。
悲鳴と怒号が交差する。
それをなした男の姿は、凄絶だった。
闇が凝ったような黒髪を返り血で真っ赤に染め、鋼のような肉体の至る所に傷を負っている。
そして、口。
耳元まで裂けそうな、獰猛な笑み。
悪鬼だ。
その姿が、再びかき消える。
骨の砕ける音。
馬の嘶き。
騎馬が倒れる。
砂煙の中に男が転がる。
俺の足が、恐怖に竦んでいた。
剣が振るわれる。
鮮血が舞う。
男の体が宙に踊る。
日輪がそれを照らし出す。
悲鳴。
途切れる。
誰かの何かの骨が砕ける。
砂煙が立ち込める。
金属音。
血飛沫。
絶叫。
悲鳴。
悲鳴。
悲鳴。
じぃぃええああああああああ!!!!!!!
いつしか俺の目の前に、巨大な拳が――。
「おい! しっかりしろ! おい!!」
肩を揺さぶられ、目を覚ます。
俺はいつの間にか気を失っていたらしい。
鼻の奥と頭の後ろに鈍い痛みがあった。
口の中に血の味が充満している。
「ったく、運の良い野郎だな。言っとくが、回復薬はねえぞ。ほら、起きろ」
そう言って俺の腕を持ち上げるのは、今回の大隊の後方にいた別の部隊の中の友人だった。
「ん。ぐ。あいつは、どうなった?」
血の味の濃い粘ついた唾を飲み込み、どうにかそんな問いをした俺を、そいつは深い溜息と共に見返した。
「あの化け物なら死んだよ。あそこさ」
そう言って指で示した場所には、黒々とした染みの広がる地面に雑な石塔が建てられ、何本もの剣と鎗が突き立てられていた。
「酷いもんだったぜ。お前、よく助かったな」
そう言って俺の肩を叩く友人の顔は、憔悴していた。
簡易的な天幕を張り、薪を燃やしている場所に俺を連れていく間に、俺が気絶しているうちに起こったことを教えてくれた。
ウシオ・シノモリの最期は、まさに壮絶と言ってよかった。
決死の覚悟を決めた何人もの兵士が足に縋りつき、腕に組みつき、絡みついて動きを止め、その彼らごと四方から槍で貫かれたのだ。
俺にそれを語った友人が、まさにその内の一人だった。
「怖かったよ。今でも手が震える。なあ、確かに俺はあいつの胸を横から突いた。それで、あいつ最期になんて言ったと思う?」
『あばよ。楽しかったぜ』
奴は掠れきった声で、変わらず獰猛な笑みを浮かべたままでそう言って、真正面から槍を刺した兵の首筋を噛み千切ったのだという。
直ぐにもう三人が再び鎗を突き込んだが、最後に奴に噛みつかれた兵は助からなかった。
俺の友人は、そいつの隣にいたそうだ。
立ち位置なんて、気にしている余裕はなかった。
道連れにされたのが自分じゃなかったのは、本当にたまたまだったと、震える腕を抑えながら自嘲気味に呟いた。
およそ、三十分。
それが、三千人の戦力で、たった一人の男を仕留めるのにかかった時間だった。
こちらの負傷者は数えきれず、死者は二百を越した。
そしてその中には、部隊の総隊長を含めた将兵たちが含まれているのだという。
さらには、輜重部隊も壊滅的な打撃を受けたそうだ。
「撤退だ」
その判断を下せる立場の人間は軒並み殺されていたが、大隊全員の、それは総意だった。
あと少しで、スリザールの帝都だった。
グリフィンドルとレイブンクリューに先んじて、俺たちハーフルバフ兵が帝都を制圧することで、戦勝の権益をもぎ取る算段だったのだが、そんなことを考える余裕がある奴は残っていなかった。
間違いない。あの男の狙いはそれだった。あいつは、たった一人で俺たちの侵攻を食い止めたんだ。ならばこの戦いは、あの男の勝利に違いなかった。
ウシオ・シノモリの遺体は、原型を留めていなかった。
最後の力を使い果たしてこと切れたその体を、恐怖に駆られた兵士たちが破壊しつくしたのだそうだ。
腕の一本でも残しておけば、それが動き出して兵士の首を捩じ折るのではないかと、そんな子供じみた恐怖に兵士たちは支配された。そして、いざその死体を破壊しつくした後になって、今度はアンデッドとなって復活しやしないかと別の恐怖に駆られ、ありあわせの道具と知識で供養の祭壇が組まれたのだとか。
俺はいつまでも痛みの引かない自分の顔を撫でさすり、あの時の衝撃を反芻していた。
俺の命が助かったのは、明らかに俺の怯懦のせいだった。
あの時、俺の腰は完全に引けていた。殴られたその勢いに全く耐えることなく倒れたからこそ、逆に勢いを殺すことに成功したのだ。
眼前に迫る、巨きな拳。
それが、いつまでも脳裏に焼き付いていた。
俺たちは、一体なにと戦ったのだろう。
三千人の大軍に、一人で、素手で喧嘩を吹っ掛けた男。
自己犠牲?
愛国者?
この戦いの結果だけを誰かが聞けば、そんな言葉であの男の動機は片付けられてしまうかもしれない。
けど、直に対峙した俺たち全員、そんな理由では納得できないだろう。あの顔は、あの獣のような笑みは、戦いそのものを愉しんでいるようにしか見えなかった。
あいつは気が狂っていたのだろうか。
それとも、そもそも人間ではなかったのだろうか。
ただ一つ、俺が確かだと思えることは、あいつが限りなく純粋な何かであったことだ。
俺は、あの刹那の一瞬で、あいつの拳に光を見ていた。
その中には、なんの濁りもなかった。
真っ白だった。
俺はきっと、今後一生、あの時見た光を忘れないだろう。
不意に、俺の目から涙が零れ落ちてきた。
ぎょっとした顔でそれを見る友人の目からも、また。
俺たちは無言で肩を抱き合い、背中を叩き合った。
故郷に帰りたい。
母のスープが飲みたい。
そう思うと、涙が止まらなかった。
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