8.旅路の果て

8-1

《とある騎士隊長の勝利》



 空が穢れていた。

 黒い煙と、紫色の魔力の残滓が棚引いて消えて行く。

 至る所から、苦痛に喘ぐ兵士たちの声が聞こえ、それもまた消えて行く。


「なんなのだ、一体……」


 自分の声が、かつてないほど弱々しく細っていることを自覚する。

 腹に負った傷口がまた開いたのか、包帯が湿っていく感覚がある。

 背筋に力が入らない。深い絶望が、僕の体から最後の気力を奪おうとしていた。

 それでも――。


「貴様は、一体なんなのだ……! ビンセント・ゴイル!!」


 右腕からどくどくと血を流す老人に、僕は剣を突き付けて叫んだ。


「あまり大きい声を出しなさるな。死を早めますぞ」


 もとより青白い肌をさらに蒼褪めさせたゴイル侯が、脂汗を流しながらそれに応える。

 腕の傷はかなり深い。この男こそ、なんの処置もしなければいずれ失血死するだろう。

 

「せっかくの勝利だ、ホラス・スラゴーン隊長。いやはや、あの状況からよもや生き残るとは。拾った命、せいぜい大事になさればよかろう」

「ふざけるな! こんなものの……。こんなものの何が勝利だ! 何故僕の部下たちを犠牲にした!?」

「功罪を数えましょうか? 一つ。あなた方が敵方の謀に気づかなかったせいでウシオ・シノモリは誘い出されてしまった。二つ。あなた方が敵方の進行をこの町で抑えてくれたおかげで龍樹の餌を確保することができた。三つ。あなたがちんたらと戦っていたせいでオドラデグの種を味方を除いて植えることができなかった。四つ。あなたの部下たちのおかげで十分な魔力が確保できた。ウシオ・シノモリは帝都に辿り着けるでしょう。その先のことまでは分かりませんが」



 それは、わずか数分前のこと。


 戦場に、悪魔の樹が生えたのだ。


 ゴドリック防衛戦。市民たちを後方に避難させ、押し寄せるグリフィンドル兵たちを僕たちは懸命に防いでいた。僕たちが破れれば、背中にいる市民たちは虐殺される。そして、この町を拠点に、奴らは帝都への進軍を開始するだろう。

 戦場は混沌を極め、もはや現状の優勢劣勢も分からなくなっていた頃、それまで後方支援に徹していたゴイル侯が不穏な動きを見せた。


 僕はゴイル侯とウシオ君が戦場に駆け付けた時から、ずっとこの老人を見張っていた。

 だから気づけた。しかし、防げなかった。

 ゴイル侯がずっと携えていた一輪の花。いや、様々な薬種や魔道具に紛れ、その花だけが特に目立つということはなかった。彼が不意に、本当になんの前触れもなく、なんの説明もなく、それに僅かに魔力を通したのが分かった時には、もう手遅れだった。


 戦場の至る所で敵味方を問わず兵士たちが苦悶の声と共に倒れ、やがてその身に褐色の木の根を纏わりつかせ、老人のように枯れていった。

 その変化に気づいた瞬間、僕はゴイル侯の腕を斬った。

 血飛沫が上がり、花が地に落ち、真っ赤に染まる。


 そして、さらなる怪異が戦場を襲った。


 萎れた兵士たちの体から伸びる褐色の木の根。

 それがやがて地に張り付き、脈動し、天に昇り始めた。

 一体何本になるのか数え切れぬほどのそれは、やがて戦場の中心部で絡み合い、捩り合わされ、固まりとなっていった。

 そして――。


 じゃぁぁあおおおうううう。


 野太い咆哮と共に、巨大な怪物となったのだ。


 誰もが言葉を失う中で、その怪物は生き残った兵士たちに牙を剥いた。

 悲鳴。絶叫。慟哭。

 地獄だった。

 その場の誰もが混乱と絶望に飲み込まれていた。

 ただ一人を除いては――。


龍種ドラゴン!!』


 爛々と目を輝かせ、耳まで裂けそうな獰猛な笑みを浮かべる、黒髪の大男。

 今日だけで一体何人の敵兵を屠ったのか、その全身の至る所に裂傷と打撲傷をつけている。

 今にも文字通りに飛び出していきそうだったその男の背に、しわがれた声がかかった。


『待ちなさい、ウシオ君!』


 ゴイル侯だった。

 僕に斬られた腕から血を流し、その逆の腕で真っ赤に染まった花を拾い上げ、彼に放り投げた。


『既にめいは吹き込んである。あの龍樹はこれから帝都に飛んで向かう。君ならばしがみついていけるだろう』

『ああん?』

『帝都に戻れ。龍種などよりもっと面白い相手がいるぞ』

『…………あんたやっぱ、ソノ子に似てるぜ』

『……今までありとあらゆる罵倒を浴びせられてきたが、一番酷い言葉を聞いたよ』

『かかっ』


 そして、ウシオ君はその血塗れの花を握りしめ、呻き声を上げるスリザールの兵士たちを一顧だにすることなく怪物の背に飛び乗ると、そのまま飛び去って行った。

 後には、三々五々に逃げ出していくグリフィンドルの兵士と、呆然とその場に立ち尽くすスリザールの兵士、そして、干乾びて横たわる大量の犠牲者たちがその場に残された。


 幸い、後方部隊より背後、つまり避難させていた一般市民たちの間に被害者はいない。

 つまり、この町と住民たちを守るという目的は達されたことになる。

 敵は逃げた。あれほどの被害だ。部隊の再編など絶望的だろう。


 守るべきものを守り、倒すべきものを倒した。

 そして、ウシオ君を誘い出し足止めするという敵方の策も挫いたことになる。

 つまり、これは…………勝利なのだ。


 だが――。



「ふざけるなぁ!! なんなのだ、一体なんなのだ、貴様は!? ああ認めよう。確かにこの戦場は我々の勝利だ。あの魔獣がいなければ成しえなかった勝利だ。あのままでは我々は負けていただろう。だが、…………だが、この結果をどう受け入れろと言うのだ!? 何故貴様はこんな真似ができる!? 貴様は一体なんなのだ、ビンセント・ゴイル!?」


 僕が突き出した剣の先で、そのやつれた老人は壁にもたれかかり、座り込んだ。

 息は荒く、目の光は弱い。


「対偶ですよ。ホラス・スラゴーン」

「…………なんだと?」

「人間の行動倫理を仮に四種類に分けるとしましょう。一つは自らの行いを正義と信じ正しいことを為すもの。二つ目は自らの行いを正義と信じ悪しきことを為すもの。そして、三つ目は自らを悪と認めながら正しいことを為し、四つ目は自らを悪と認め悪しきことを為す」

「なんの話をしている?」

「あなたは一つ目の人間で、私は四つ目の人間なのです」

「開き直るつもりか」

「それをするのは二つ目の人間です。私は二つ目の人間が好きでしてねぇ。実に扱いやすい。この国には、そんな人間がたくさんいたんですよ。少し前まではね」


 老人は薄ら笑いを浮かべ、剣を通じて僕を見上げた。


「あなたに私の行動原理が理解できないように、私にもあなたの行動原理が理解できない。あなた、その腹の傷は一体なんです? どうせ戦場で部下を庇って負った傷なのでしょう。下らない。優先順位というものが分からないのですかな? そもそもこの町の防衛にして、なぜ市民全員を避難させる必要があったのです? 戦力などいくらあっても足りないのだ。民間人とていくらでも利用する方法はあったでしょうに。だが、それは全てあなたにとって当たり前のことなのでしょう? ならば私たちは、お互いに理解し得ない間柄なんですよ」


 ああ、そうだ。

 分かっている。この怪人と分かり合えないことなど最初から分かっている。

 だが、だからこそ


「では、何故ウシオ君を行かせたのだ……?」

「…………はて」

「あの花は魔獣の制御装置なのだろう? あれを使えばこの場で自分だけが助かることもできたのではないのか? いや、そもそも何故貴様はこの場所に来たのだ。雲隠れするタイミングなどいくらでもあったはずでなはいか。まさか、この期に及んで私が貴様を見過ごすとでも思っているのではあるまいな」

「は。は。は。なんででしょうなぁ……」

「ゴイル侯爵……」


 この男は、友の仇だ。師の仇だ。家族の仇だ。仲間の仇だ。

 ずっとずっと、この男を殺したかった。頭蓋を砕き、腸を引き裂き、四肢を貫き、泣き喚いて命乞いをするこの男に言ってやりたかった。貴様が今まで何人の命を食い物にしてきたと思っているのだ、と。


 だが、なんだこれは。

 なぜこいつはこんなにも穏やかな顔をしている。

 これが悪党の死に顔だとでも言うのか?


「……ああ、そうでした。約束したんでしたなぁ」

「約束だと?」

「ええ、大層出来の悪い教え子とね。私の長年の労に報いて、私の望みを叶えてくれるそうで……。は。は。は。まったく、馬鹿な約束をしたものだ……」

「欲に目が眩んだか」

「生きることには、とうに飽いたが……」


 不意に眩暈がした。血を流し過ぎたんだ。

 いけない。僕が死にかけてどうする。

 さあ、今こそ、決着をつけよう。

 半分ほど感覚が消えた両手で、力の限りに剣を握りしめる。

 穏やかな微笑と視線を合わす。


 そのまま振り上げて――。



 振り下ろした。

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