6-2
これは、後から聞いた話だ。
国王陛下――ユースタス・サラザ・スリザールは、その日、ずっと街の門の前にいたのだという。
誰かを待っていたのか、何かの知らせが届くのを待っていたのか、それともやることがなく適当に時間を潰していただけだったのかは定かでない。ただ、彼の目の前で門扉は破壊され、ほどなくしてたった一人の侵入者と騎士たちとの戦闘が始まった。
仮に、そこで彼が脇目も振らずに逃げ出し、王宮なりゴイル邸なりに避難していればその先の様々な結果は違ったものになっていただろう。
彼は、住民たちに避難を呼びかけるために奔走したのだ。
後日、決して少ない数の住民たちが、やけに偉そうな態度の若者に王宮へ避難するよう呼びかけられたと証言している。
そして、目抜き通りで逃げ出した騎士たちとそれを押し留める騎士たちとの間で諍いが起きているのを目にし、彼らを叱咤したところを凶刃に貫かれたのだという。
彼は誰に対しても自ら身分を明かさなかった。
帝都に生きる一人の人間として、人々を活かし、生かすために体を張った。
そしてそれは、それを受け取るべき人々に正しく伝わったのだ。
彼が何も言わずとも、兵士たちは、彼を自分たちの王と認めた。
しかし――。
「誰ですか、その男は」
それは、ただ一人の女によってなかったことにされた。
「は?」
呆然とする兵士たちに、私はあらん限りの力を込めて平静を保ちながら冷たい言葉を投げた。
「国王陛下? 何を馬鹿なことを。陛下がこんな場所にいるはずがないでしょう」
「あ。いや、しかし。え?」
「非常事態に混乱する気持ちは分かりますが、しっかりしてください。陛下ならば今も王宮にて玉座を守っておいでです」
「そ。そんな。で、では、このものは一体――」
「私が知るはずがないでしょう。確かに背格好は似ているようですが」
兵士たちに新たな動揺が広がる。
力を入れ過ぎて腹筋が痛い。奥歯がかたかたと震える音が漏れやしないかと気が気でなかった。
しかし、そこで私の後ろから救いの声が齎された。
「そのものは俺の影武者だ」
全員が振り返ったその声の主は、どこから見ても、誰から見ても、この国の王に相違ない立ち姿をしていた。
「へ、陛下!?」「な、なぜ!?」「では、やはりこの男は――」
ほんの僅かな時間で騎士から国王へと姿を変じたレンタロウ様が、威厳に満ちた声で言葉を発する。
「戦争が始まった折、万が一の事態のため、俺に似せた男を用意させていたのだ。この聖女の策でな」
顎をしゃくって指した先で、腕を組んだミソノ様が顔を顰めたまま頷く。
どよめいた兵たちが顔を見合わせる。
「極秘のこと故、王宮内部でも知るものはおらん。もちろんメイド長。貴様にもだ」
そして、王に最も近しいと巷間で囁かれる
「し、しかし、そのようなものが、なぜ――」
「こやつの出番はもっとずっと先になるはずであった。それまでは市中に潜ませていたが、それが徒になったようだ」
「は、はあ……」
「聞け」
レンタロウ様は兵たち一人ひとりの顔を見渡し、ことさらに言葉に力を込めた。
「このものは、この国と、この町と、人々を守るために戦った英雄だ。こやつの存在を明るみに出すわけにはいかんゆえ、お前たちにもこのものについて語ることを禁じねばならん。だが、せめてその胸のうちにこのものの為した
それは、酷い冗句のようにも、自己中心的な懺悔のようにも聞こえ、私の心を抉った。
だが、兵士たちには当然別の受け止め方をされ、彼らの首を深く垂れさせた。
「し、しかと、承りました……」
レンタロウ様は膝をつき、横たわる本物の陛下の体を抱き上げた。
「へ、陛下、なにを……?」
「すまんが、せめて俺の手で最期を看取りたい。立ち入らないでくれ」
そう言って、無人の大通りの中の家屋の一つを選んで彼を中に運び、私とミソノ様に目配せをくれ、扉を閉じた。
ミソノ様は一瞬だけ体を硬直させ、私の袖を掴んで、一緒にその扉へと足を進めた。
「お、い。 ……レンタ、ロウ。医者と、薬を、持ってこい。手が、動かん」
「うん。今呼んでる。もうちょっと待ってて」
「さむい……」
「うん。大丈夫。毛布も持ってくるからね」
中では、床に直接寝転がされた陛下の横で、レンタロウ様がいつになく優し気な声で彼に言葉をかけていた。
「ちっ……。なに勝手なことしてんのよ、クソ陛下」
いつもよりも細く、高い声で悪態をついたミソノ様が、その横に並ぶ。
それに続いた私が言葉に詰まっていると、こちらを見上げる陛下が眉を潜めた。
「……? おい、誰だ、貴様らは」
「は? あんたの大好きなメイド長と聖女様よ。感謝しなさい」
「く……ふ。嘘を、つくな」
「あん?」
「メイド長も、ミ、ソノも。そんな
「ちっ」
「ま、あ、いい。おい。医者はまだか」
その顔色が、秒を数えるごとに青白くなっていく。
「ごめんね。もうすぐ着くから。一回寝ちゃいなよ、王様」
「ま、ったく、役立たず、どもめ……」
「うん。ごめんね、王様」
「ん……ぐ。ま、あい、い。おい。聖女を、名乗る女よ。ミソノ、に伝えておけ」
「なに?」
陛下の口元が、僅かに吊り上がった。
「あやつが、以前に、言っておった。ケンカは、……先にビビった方が、負けだと」
「それが何よ」
「あいつはビビっていたぞ」
「は?」
「不敬にも、俺を、刺した男だ。一瞬、だったが、顔を見た。あいつは、何かに脅えていた」
「……わかった。覚えとくわ」
「この、ケンカ……。我らの、勝ちだ」
「うん」
足元に、ぽたぽたと雫が落ちた。
私の握りしめた拳から流れた血だった。
「お、い。明かりを、くれ。暗い。目が、見えん」
「うん。王様。大丈夫だから。寝ちゃってて。ゆっくりしててよ」
「れ、れん、たろう。おれは。なあ、おれは、しぬのか」
「やだな。なに弱気になってるのさ。大丈夫。助かるよ」
「は。は。おまえの、こころは、まるでみえん……」
「うん。ごめんね」
陛下が、震える手で胸元をまさぐりだした。
「そこの、メイド。たのみ、が、ある」
「なんでしょうか、陛下」
もう、隠しようもないほど、私の声は震えていた。
膝をついた私に、陛下は何かを手渡そうとしていた。
その手には何も握られていない。
懐にわずかに見えた紐をレンタロウ様が手繰り、取り出された首飾りを陛下の手に乗せてやった。
「お、ねえ、ちゃん、に。これ」
「……は?」
「さくら、おねえちゃんに。これ」
「陛下?」
王宮で初めて彼の世話を命じられてから今日までの、膨大な時間が塊となって私の頭を殴りつけた。
苦しみと、痛みと、ほんの少しの暖かさが。
怒りと、絶望と、ほんの少しの微笑みが。
一瞬で私の全身を通り抜け、透明な風となって去って行った。
私の血塗れの手にかかった首飾りは、なにかの獣の爪を使った品のようだった。
私は、その首飾りを、氷のように冷たくなった陛下の手ごと握りしめて、縋りついた。
もう、顔を上げられそうになかった。
私の隣で、ミソノ様が膝をついたのが分かった。
「あんたが護りたかったものは、私が全部護ってやるわ。だから、安心して寝てなさい」
「なあ……ぼく、は……なにものだ」
「王様よ。みんな知ってる」
その言葉が、果たして届いただろうか。
確かめる術は、もうなかった。
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