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《とある少女の忍耐と、少年の帰還》
まず我慢ができなかったのは匂いだった。
この世界の人間は、基本的に臭い。
なんでって、お風呂に入る習慣がないから。
私が最初にこの世界に来た場所は、寂れた地方の農村だったんだけど、老若男女一人残らず目を背けたくなる悪臭を発していて、私は嘔吐を堪えるのに精一杯だった。
『あなたに使命を与えましょう』
そんなことを言われて、一瞬でもその気になってしまった自分が、呪いたくなるほど馬鹿らしい。
異世界の危機を救うため、聖女となって戦ってほしい。だってさ。
なぜ自分がそんなことを、と憤慨する気持ちと裏腹に、特別な力を授かって活躍するマンガやアニメの主人公のような自分を想像し、まんざらでもない気持ちが僅かにあったのは確かだ。
中世のヨーロッパのような文明レベルと聞いて、レンタルDVDで見た『ロード・オブ・ザ・リング』のような世界観を想像したとき、ワクワクさせられたのも認める。
だけど、そのときの私には圧倒的に想像力が足りてなかった。
映画やアニメでその場の匂いまで再現できるはずがないし、再現したら絶対にダメなのだ。
この世界の人や町はとにかく臭い。
汗臭いし泥臭いし生臭い。
なんて言ったって下水道がない。
人口の多い都市で辛うじて下水道(に相当するなにか)が現れるだけで、そこそこの規模の町や村などでは汚物は川や路上にそのまま捨てているのだ。
初めて家の窓から汚物が投げ捨てられているのを見て私は絶叫したが、私の他には誰もそれを気にしていない。
それがこの文明レベルの人間たちの普通なのだ。
当然デンタルケアなんて概念もないから、口臭も酷い。正面を向いて会話しているだけで吐き気を催す匂いが漂ってくる。
もしも私がアルウェンだったら、アラゴルンにキスを迫られた瞬間はったおして逃げているだろう。
『あなたには、特別な力を授けます』
与えられたスキルポイントを消費して自分が思い描いた魔法を創造するスキル。
私が真っ先に創ったのは、『
それを見て、『……え!?』などと驚愕していた佐藤くんの顔を思い出すと、またイライラがぶり返してくる。
自分だって何回もこの魔法の世話になるくせに。
そう。
佐藤くんだ。
なんでこいつが私のパートナーなのだ。嫌がらせにもほどがある。
それこそ、最初この世界に来た直後は、元の世界の人間が一人でもいたことに安堵した。なんなら、こういう展開に随分詳しいみたいだったので頼りになるかも、なんて思ってしまった。
元の世界で、私は彼と同じクラスだった。ただ、彼のことは『派手な男子のグループの端っこにいて、話の輪に加わってる振りをしてるけど、誰にも相手にされてないちょっと可哀そうな男の子』くらいにしか思っていなかった。サッカー部なんだっけ?
どっちかというと、教室の隅っこで固まってるオタクな連中たちとの方が気が合いそうなのに、なんで無理してひっついているんだろう。
選択の余地なく彼とこの世界を旅するうち、日一日と私のストレスは溜まっていった。
まず致命的にコミュニケーションが下手くそだ。
会話の振り方が不自然で、突然話しかけてきては一方的に言いたいことだけ言って、こちらが別の話題を振ると「うん」とか「そうだね」とかだけ言って後は黙り込む。
意思の疎通を図るのも難しく、こちらの言いたいことが伝わらないし、向こうが何を言いたいのかも分からない。
冒険者ギルドで仕事を請け負い出したときも、向こうが率先して仕事を取ってくるくせに、仕事の説明を聞いてもちゃんと理解できていない。私の方が「え、今のそういう話じゃなくない?」と思って後で確認しようとしても「大丈夫大丈夫」などと聞く耳を持たず仕事を進め、結局あとになって私の考えが正しかったことが分かるという、そんなことが何度かあった。
モンスターの討伐にダンジョンまで潜ってるときも私の歩幅に気を使えない。
私が興味ないアピールをしているのにも関わらず延々と異世界転移のテンプレやらなんやらについて語り続ける。
こっちが気を使って質問してやると「しょうがないなぁ」みたいな上から目線の顔をしてまた蘊蓄を垂れる。
いるんだよ、こういう男。
こういう奴がバイト先の冴えない大学生の男の人みたいになるんだろうなぁ。
生理用品なんてこの世界にあるはずもなくて、一度だけ油断してズボンに血を付けてしまった私に、「いつの間に怪我したの? 大丈夫?」なんて聞いてきたときにはマジでブチ殺そうかと思った。少しは私の顔色を見ろ。
バイトなら友達の女の子たちと陰口を叩けるのに、こいつと二人で行動するしかない以上、不満も愚痴もどんどん私の中に堆積していく。
モンスターはサクサク倒せるから達成感もない。
周りの人間は弱すぎて頼りにならない。
馬車はスプリングがなさすぎて5分でお尻が痛くなる。
どこへ行っても料理は味付けが薄すぎて食欲が湧かない。
本当に、何から何まで気に入らないことばかり。
でも。
それも、元の世界に帰るまでの我慢だ。
グリフィンドルをこの戦争に勝たせる。
それが私たちの使命。
グリフィンドル軍がスリザールの首都を落とした暁には、私たちを無事に元の世界へ還してくれる約束なのだ。
そのために、グリフィンドルの中で冒険者として力をつけ、名を売り、国の中枢に食い込んだ。
いよいよ戦争が始まった直後は楽勝ムードかと思ったけど、あのクソ女が敵国のスリザールに加担していると知ったときは再び
こんなところに来ても、あのクソ女はクソ女のままなのだ。それなのに、一緒に行動しているのはいかにも頼りになりそうな男子だ。ふざけるな。こっちと交換しろ。楠君のことはよく知らなかったけど、なんでも変装と交渉の達人なんだとか。交渉の達人? そいつもこっちに寄こせ。
男子二人侍らせていい御身分よね、本当に。絶対ヤることヤってるわ。キモチワルイ。
我慢ならなくて、私はまだ劣勢でもなかったグリフィンドルに積極的に肩入れすることにした。幸い佐藤くんも篠森くんに思うところがあるらしく(みみっちい話だ)、賛成してくれた。
戦争で傷ついた兵士たちを、一人残らず私の魔法で治療してやったのだ。
その代わり、胸糞悪い略奪行為は禁じてもらって、平和的にこの戦争を終わらせてやろうとしたのだ。
それを邪魔してきたあのクソ女たちをブチのめしてやったときは溜飲が下がったが、佐藤くんがまたヘマをやらかして三人を逃がしてしまった。
そこからだ。どんどん雲行きが怪しくなって行ったのは。
私が毒を盛られて腹痛に苦しんでいるときに、佐藤くんは自分の目の前で連中を取り逃がした。
あのメイドさんは信頼できる、とか言ってたくせに、見事に裏切られた。
その代わりにもならないけど、そのころから一緒に行動するようになったシスターは、せいぜいお茶汲みくらいにしか役立たない。聖術の一つも使えないってどういうことだよ。いや、使えても私が全部できるから意味ないけどさ。
まあ、佐藤くん以外で話し相手になってくれる人ができたのはいいけど、ちょっと思考回路がアブない人みたいで、あんまり長く関わりたくない。
それより、その先の戦争が進まなくなってしまったことの方が問題だった。
予定じゃ今頃敵国の首都を包囲しながら、徐々にそれを詰めていくはずだったのに、私たちのいる部隊だけ全然足並みが揃ってない。
遅れを取り戻そうと北進したところで、またあのクソ女の妨害だ。
気持ち悪い。
ホントに気持ち悪い。
しかも、聞けば、この世界に危機をもたらすとかなんとか言ってた向こうの貴族の男に与しているらしい。なんなんだ、あの女は。これじゃ本当にただの悪役じゃないか。
私はもう心底うんざりして、かなり大げさに精神が参ったふりをして、この領土の制圧は佐藤くんに任せることにした。大体さ、私が兵士全員治す必要ある? 勝手に罠にかかって自滅した人とか放っておけばよくない?
もう無理だよ。私の忍耐もそろそろ限界だ。
私は久々に丸一日休養を貰えることになって、駐屯地でのんびりさせてもらった。なんでも北の方に白龍とかいうバカデカいモンスターが出て、スリザールの砦を襲っているんだとか。
がんばれー。ついでにあのクソ女踏み潰してくれないかな。
なんてことを、思っていたら。
「なあ、聖女様よぅ」
私は、若い兵士の男に声をかけられた。
人目につかない廊下の隅で、なにやら下品な笑みを浮かべて私の体を舐めるように見ている。
キモ。
「なにか用?」
「あの話、本当か?」
「は?」
口臭がキツい。
顔がいやらしい。
声がキモい。
なんなんだ、こいつは。
私はもう、本当にギリギリのところで頑張っているんだ。
本当なら今すぐここの連中全員振り切って一人でスリザールの首都まで飛んで行って都中焼き尽くすことだってできるんだ。
けど、それじゃこの国の人間のためにならないからって、わざわざ足並みを揃えて戦争に付き合って、怪我人が出た時は魔法で治してやってるんだ。
それなのに。
そんな私に、この男は――。
「あんた、幾らでヤらせてくれるんだ?」
私の視界が、赤く染まった。
……。
…………。
僕が
定番っちゃ定番だけど、再生能力を備えた厄介な魔獣で、土地の魔力を完全に吸い尽くしてようやくMP切れを起こしたヤツに止めを刺した時には、僕はもう疲労困憊だった。
当然のようにまたレベルが上がり、新たなスキルが習得できた。それを見て、思わず苦笑してしまう。今更こんなもの貰ってもなぁ……。
地面に大の字になって寝そべって見上げた空は灰色で、それも、僅かな雲の切れ間から冬の日差しが差し込んで、暖かな温もりをくれていた。
喉がカラカラだった。
あの、リンゴをくれた兵士に、ちゃんとお礼を言わないと。けど、名前が分からない。
僕は今更ながら、ウィーズリーさん以外の兵士たちのことをほとんど覚えていないことが恥ずかしくなった。オリバーさんとかシェームズさんとか、名前は憶えてるけど顔が思い出せない人とか、その逆とか、もうそれなりに長い間行動しているのに、それってどうなんだろう。
僕は、もういい加減、この世界の人たちに向き合うべきなのかもしれない。
この世界は僕に都合のいい物語の舞台なんかじゃない。
『君は間違いなく勇者だ』
そう言ってくれた言葉の意味を、もっとちゃんと聞くべきなのかもしれない。
認めよう。いや、とっくに気づいていたことだけど、言葉に出してはっきりさせよう。僕は主人公なんかじゃない。でも、それは僕に役割がないってことじゃない。
この世界の人たちが僕を受け入れてくれないのは、僕がこの世界に受け入れられるのを拒んでいるからだ。心の中で、彼らを見下していたのは僕のほうだ。
きちんと向き合おう。
今こうして言葉にすると、いかにも心機一転、新たなスタートを切れそうな気がするけど、どうせ僕のことだからまたヘタれてグダグダになっちゃうだろう。でも、それでも前に進まなきゃ。時間がかかってもいい。
できるかどうかは分からない。でも、やらなきゃなにも変わらない。変わりたいんだ、僕は。
深呼吸を一つ。
まずはリンゴをくれた兵士を探してお礼を言おう。
時間をおいて決心が鈍る前に、早く――。
僕は、そう心に誓って、転移の魔法を発動させた。
虹色の光が僕を包み込む。
これは、一度マーキングした場所へ一瞬で移動できる魔法だ。
今は駐屯地に座標を設定してある。
すぐに重力が弱まり、自分の体がふわりと浮き上がる。
一度目を開けて転移をしたら酔いが回って大変なことになったので、目を閉じるの忘れずに。
そして、再び重力が僕の体を捉え、地に足が着く。
そして――。
「…………え?」
僕が見たものは、炎上する駐屯地と、黒焦げになった兵士たちの死体だった。
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