5-4

《とある兵士のそれから》



 それから、どれほど時が経っただろう。

 俺はもう身を潜めることも忘れ、男と龍の闘いをただ茫然と見ていた。


 男の体は、ボロ雑巾のようだった。

 背筋は曲がり、膝は折れ、立っているのが精一杯のありさまで、それでも、まだ拳を固く握り締めていた。


 対する白龍は、それを静かに見下ろしていた。

 嘴には罅が入り、爪の何本かは砕け、その純白の羽毛のあちらこちらに赤黒い血がついている。


 男の脚が、一歩を踏み出した。

 それは、踏み出したというよりも、前に倒れそうになるのを辛うじて堪えたようにしか見えなかった。

 喀血。

 自らの膝にかかる。


 ふりかざした拳が、芋虫の這うような速度で進み、龍の脚に当たった。

 白龍は、ただじっと、それを見ていた。


 夢の終わりだ。

 それを悟った俺は、男の元に歩み寄った。

 分かってるさ。

 この男が、俺を助けに来たんじゃないってことぐらい。

 最初に卵を返したのだって、ほとんど口実みたいなものだったのだろう。

 こいつはただ、自分の拳で龍と闘いたかっただけなのだ。


 それはまるで、脳みそまで筋肉でできているような――。


 それでもいい。

 俺は男の横に並び立ち、ロングソードを地面に突き立てた。

 血反吐に塗れた男の口が、もごもごと聞き取りづらい言葉を発した。


「お……の、えも、の……だぜ」


 ああ。分かってる。

 俺は手を出さねえよ。


「俺はマルコだ。ジェルガ村のマルコ」

「……あん?」

「あんた、名前は?」

「……ウシオ。シノモリ、ウシオだ」


 聞き慣れない名前だった。

 けど、その名前は、この男に相応しい、どこか力強い響きを感じさせた。


「いい闘いだった。ウシオ」

「ま、だ、終わって、ねえよ……」

「そうだな。悪い」


 この男は、死ぬまで闘うことをやめないのだろう。

 きっと、そういうふうに生まれついて、それを是として今まで生きてきたのだ。


 自分でも怖いくらい、自分の心が凪いでいるのが分かった。

 俺の魂は、今、真っ白だった。

 この男と龍の闘いが。

 その真っ白な闘いが、俺の中の何もかもをまっさらにしていたんだ。


 風が吹いている。

 冷たい風が。


 ぴしり、と。

 頭上で何かがひび割れる音がした。

 仰ぎ見れば、こちらを見下ろす白龍の額に生えた水晶のような角が、ぐらりと揺れて折れ――。

 落ちた。


 俺とウシオの目の前の地面に突き刺さったそれは、欠け落ちてなお、神々しい輝きを放っていた。

 いつの間にか、分厚い灰色の雲が割れ、日が差していたんだ。

 陽光のきらめきを複雑に跳ね返すその角を、龍は見下ろすこともせず、天を仰いだ。

 翼が広がる。

 純白の羽に血糊を付けた大翼。


 こぉぉぁあああああああ。


 澄んだ鳴き声。

 空が、晴れていく。

 何本かが折れた爪が凍り付いた地面を噛み。

 羽ばたいた。


 その一瞬。

 飛び立つ力を溜め、長い首が屈み、初めて俺と龍の目が同じ高さになった。

 そのサファイア・ブルーは、息を吞むほど美しく、信じられないほど穏やかな色をしていた。


 風が吹き荒れる。

 それだけで倒れそうになったウシオの背を支え、俺は自分が今見たものを頭の中で反芻していた。

 龍の体が空へと昇っていく。

 長い尾がそれを追う。


 風が舞う。

 氷の華が散る。

 きらきらと。

 眩い光を優しく跳ね返して。


 白龍は、もう見上げるのに首が痛くなるほどの高さに昇っていた。

 空中でひと泳ぎ。

 その進路を東へ向けた。


 去っていく。

 山へ帰っていく。

 それを目で追うことすら出来なかったウシオが、ぼそぼそとした声で俺に問うた。


「……おい。ヤロウは、どうした?」

「帰ったよ」

「……そうか」


 膝が折れた。

 仰向けに寝転んだウシオが、手足を投げ出した。


「……にげ、られちまったら、しょうがねえな。

「アホ言え」


 片や、悠々と空を泳ぎ、五体満足で山に帰り。

 片や、全身血塗れ痣だらけで寝転がり、もう一歩も動けそうにない。


 だけど。

 龍は最初、片手間にこの男を殺そうとし、途中からは本気で殺そうとし、男はそれに抗い、はねのけた。

 龍の目的であった卵は返した。

 ここから東には山以外に何もなく、あの龍がこの国の人間に害をなすことはもうないだろう。

 俺は生きてる。

 ウシオも生きてる。

 なら、それは――。


「お前の勝ちだ、ウシオ」

「…………そうか」


 俺はウシオの横に腰を下ろし、空を見上げた。

 龍の瞳のように澄みきった青空が、広がっていた。



 ……。

 …………。



 それからどうなったかっていうと、余韻に浸るには気温が低すぎたせいで一分くらいで正気を取り戻した俺が、荒野と同化した砦跡を駆けずり回って天幕と薪の材料を集め、ウシオと自分の命を繋いだ。

 地下倉庫には回復薬も残っていたので、取りあえずそれを使って傷口の止血。

 内臓も痛めてるだろうし骨折はどこがどう折れてるのか全部を把握できるわけもなかったが、とにかく今死なないことが最優先だった。

 幸い、それからすぐに救援隊が到着し、俺は隊の生き残りたちと合流することができた。

 ウシオはというと、あいつとおんなじ髪色をした、えれえ美人のメイドと、一緒についてきたえれえデカい態度のチビ女に交互に蹴りを入れられ(おい)、ぐるぐる巻きにされてどっかへ連れていかれた。


 それから、俺がいた砦を修復するのは現実的ではないと、隣の砦に駐屯していたゴーント伯爵が判断し、彼の部隊に俺らの部隊は吸収されることになった。

 もうそんな決定に反応する気力があるやつなんて残ってなかったから、すんなりそれは受け入れられたんだが、そうすると伯爵家が保有できる戦力の上限に引っかかるとかなんとかで、何人かの兵士たちは帝都行きが決まった。

 なんと、あの美人メイドは王宮務めの官僚だったらしい。なんでメイド服なんて着てんだ?(そして嘘くさいことにあの態度のデカいチビ女が教会公認の聖女だとか)


 当然ウシオのやつもそいつらに着いていくらしいことを聞いて、俺もよっぽど同行を志願しようかと思ったんだが、やめておいた。

 あいつらは、きっとこれからも闘いを続けるんだろう。

 ウシオだけじゃない。あの聖女を名乗るチビ女も、美人メイドも、俺たち一兵士とは目の色が違っていた。いや、ウシオのやつとおんなじ目をしていた。

 きっと俺じゃ、それに着いていけねえ。


 どうやら白龍は無事にお山に帰ったらしく、三日もすると東の空から猛烈な寒波がやってきた。

 白龍の息吹ホワイト・ブレス

 延々と続く吹雪は世界を白く染め上げ、敵の侵攻もぴたりと止んだ。


 噂によると、帝都に向かったあのメイドたちは、途中小競り合いを続けていた砦の戦にいくつか介入し、全ての戦場で敵を撃破。グリフィンドルを退かせた。

 その中で、ひと際輝かしい武勲を挙げた一人の男と、それを指揮した一人の女の名前は、いつしか勇者と聖女として人々の間に広まっていった。


 万夫不当ジ・インビンシブル――ウシオ・シノモリ。

 天網恢恢アイズ・オブ・ゴッド――ミソノ・イテクラ。


 その後帝都に帰ったそいつらは、国王陛下の庇護を受けることに成功したらしい。

 なんでも今の国王陛下は政治も戦争もほっぽりだして贅沢三昧のクソ野郎だって話だったが、大丈夫なのかねぇ。


 ま、そんなことはこんな端っこの砦を守る一兵士には関わりのないこった。

 俺は生き残った仲間たちとのんびり冬ごもりをし、時折東の山を見ては、懐に仕舞いこんだ龍の角の欠片を握りしめて、あの日のことを思い出していた。

 きっと冬が明ければ、また戦争の続きが始まるのだ。

 勝つか負けるか、今はまだ分からない。

 けど、きっとその時、俺は去年よりも雄々しく闘うことができるだろう。


 どんなつわものが攻めてきたって、あの脳筋男と白龍よりは、怖くねえだろうさ。




 ああ、そういや、気になったことが一つだけ。

 もともとこの砦の指揮を執ってたゴーント伯爵。いつの間にか雲隠れしちまったんだよな。

 別に副官の人が上手く砦は回してくれるから、まあお飾りの大将がいようがいまいが外様の俺には影響もないんだけどな。

 あんなにピンピンしてたのに、どうしちまったんだか。



 第六部『勇気一つを友として』 了

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