5-3
《とある兵士の憧憬》
ひゅるひゅると、風が流れた。
静まりかえった世界に、ばさり、ばさりと、龍の大翼の羽ばたきが聞こえている。
俺もまた、固まったまま動けなかった。
俺が隠れている地下倉庫の入口の、少し離れた先に、黒髪の男の体が沈んでいた。
動く気配はない。
当たり前だ。
龍の攻撃をまともに食らったんだぞ。
いや、そもそも、生身の人間がなんの武装も魔法もなしに龍と殴り合ったんだ。
むしろさっきまで生きていたことのほうが奇跡だった。
だけど――。
(おい……。ふざけんなよ)
もう終わりかよ。
夢の時間は終わりかよ。
「立て……」
分かってるさ。
そもそもってんなら、こうして俺が生き残ってることだって奇跡なんだ。
こんな、都合よく、助けがきてくれて。
それが、一人で龍にも勝てちまうような英雄で。
そんな、可能性を考えるのも馬鹿らしいくらいの奇跡が。
そんなことが、あっちゃいけないっていうのかよ。
俺はもう、夢を見れないっていうのかよ。
なあ、神様。
あんたクソ野郎だ。
(頼むよ。なあ)
「立てええええええええ!!!!」
吠えていた。
気づいたときには飛び出していた。
あの男の元に駆け付けることしか考えられなかった。
頭の奥で冷静な自分が呟く。
ああ。これで俺も死ぬ。
それでも、俺は止まれなかった。
「おい! おい! しっかりしろ!」
陥没した地面の中にめり込んだ男の背中に腕を差し込んだ。
一目見て分かる重体だった。
片目は潰れ、一体何本骨が折れているのかも分からない。
どす黒い痣が何か所も。
そして、近くで見れば、想像以上に男の顔が若いことに気づいた。
下手すりゃそこらの新兵と変わらない年齢なんじゃないか?
微かに息がある。
畜生。
俺は腰に帯びたままだったロングソードを抜き放った。
先ほどから汚い喚き声を散らす俺に、白龍はとっくに気づいている。
ゆっくりと、その巨体がこちらを向いた。
ふざけんな。
真正面から相対して、改めてはっきりと分かる。
なんだこの化け物は。
こんなやつに、この男は拳で殴り掛かったってのか。
次から次へと涙が湧き、それが片端から凍り付いていく。
だけど。なあ。
こいつをこのまま死なせるわけにはいかねえだろうが!!
何年もかけて培ってきた兵士としての経験と矜持が、砂のように崩れ落ちていくのがわかる。
白龍が、そのサファイア・ブルーの瞳を細めた。
爪か。
顎か。
尾か。
それとも、ブレスか。
なあ、白龍。
俺は、どうやって死ぬんだ?
「……………たんだ」
その時。
俺の足元から、呻き声が聞こえた。
「あの、時……」
むくりと、男が起き上がったのが分かった。
だけど、それを振り返ることはできなかった。
「ソノ子は、務…を果た、た……。レン太も、自分の役目を果たした……」
男の声が譫言を繰り返す。
まずい。
意識が戻ってないんだ。
「俺が負けなきゃ勝ってたんだ」
それなのに、俺は自分の正面から感じるのと同量の
ごぽ。
俺の足元に血反吐が吐かれた。
「俺は、勝たなきゃいけねえんだ」
この男は、一体何を背負っているというのだ。
こんな、ボロボロの体で、それでもまだ龍に立ち向かわなければならないほどの、一体何を――。
「けど――」
俺の肩に手を置き、男が前に出た。
その、一瞬の交錯に、俺は見た。
「そういうのは、もうどうでもいい」
片目になってなお、ギラギラと光る眼光。
耳元まで吊り上がりそうな獰悪な笑み。
この期に及んで、俺はようやく理解した。
「そんな理由じゃ、俺は強くなれねえ」
こいつは、自分が背負っていたなにかを投げ出してここにいるのだ。
こいつは、英雄でもなんでもない。
こいつは、こいつは。
ただの――。
「さあ、ラウンド2だぜ」
俺がその答えを言葉にする前に、男は駆け出していた。
あれほどの怪我を負ってなお、その速度には陰りが見えない。
振り下ろされた鉤爪の一撃をなんなく躱し、懐へ。
踏み込み。
地面が砕ける。
腕が振られる。
がら空きの龍の脇腹へ。
「ダメだ。そこはっ――」
攻撃が通らない!
しかし。
ずぱんんん!!!
龍の羽毛が、爆ぜた。
ぎゅぅああああ!!!!
龍の悲鳴が濁る。
見れば、その脇腹が真っ赤に染まり、皮膚が露出している。
それを為した男の掌もまた、真っ赤に染まっていた。
後肢を引いて体勢を入れ替えた白龍が、逆の腕を横薙ぎに振るう。
それを、羽のように軽やかな動きで避けた男が、着地と同時、再び地面を陥没させた。
踏み込みだ。また腕を振りかぶっている。
再び、破裂音。
純白の羽毛が舞い散り、血飛沫が混じる。
二回目のそれを見てようやく目が追いついた。
男の拳は開かれ、掌を見せていた。
そして、龍の両脇についた生々しい傷跡を見て思いつく。
あれは、鞭の痕だ。
鞭打ちの刑に処された罪人の背中につく傷にそっくりなのだ。
そして。
ぶん。
と、遮二無二振り回される龍の尾を、再び軽やかな動きで躱した男の脚が、赤い傷跡を上から蹴りつけた。
絶叫。
後退し、翼を畳んだ。
守っている。
あの、規格外の魔獣を、守勢に追い込んだ。
鞭による打擲というのは、皮膚に対するダメージだ。その内側にどれほどの筋肉や脂肪があったとしても関係ない。
なぜ刑罰に鞭が用いられるかといえば、死なないように加減するのが簡単だからであって、つまり加減次第では非常に強力なダメージを与えることができる。
龍に対し、今のところ有効なダメージは喉元と頭部にしか与えられていない。しかし、そこを狙うには人の身では高さが足りず、一々跳躍することで反撃を受けてしまう。
あの男は、自らの腕を鞭のようにしならせ、龍の皮膚から上を削った。
そう。
急所が遠いなら、届く場所に急所を作ればいい!
「おおおあああああ!!!!」
「ぎゅぉぉああああ!!!!」
咆哮が交錯する。
翼が広がる。
宙へ逃げるつもりだ。
だが、その時には既に、男の体は龍の足元へと走りこんでいた。
どれだけ広大な翼を持とうと、空へと飛び立つその一瞬だけは後肢を使って跳ね上がる必要がある。
その力を溜めた足の指を、男の脚が踏みつけた。
ぼきり、と。嫌な音が響く。
ぎゅぁ。
体勢が崩れる。
男が飛びあがり、龍の前肢を掴む。
(いけ!)
その巨体が、斜めに傾き。
「おおあああああああ!!!!」
づぅぉおおおん。
轟音と共に、地に沈んだ。
(なんて野郎だ)
龍の尾が苦悶にのたうち回り、翼がはためき、周囲に暴風が吹き荒れる。
(龍を、投げ飛ばしやがった!)
長い首がもたげ、その嘴の先に青白い魔力が溜まった。
白い爆発。
てんで見当違いの方向に放たれたそれは、しかし、さらなる暴風をもたらして男の動きを奪う。
その隙に起き上がった龍と、風に耐えきって構えを取った男の視線が交わった。
咆哮。
暴風。
絶叫。
鮮血と薄氷が散り乱れる。
俺は、再び自分の目から涙が溢れ出ていることに気づいた。
こんな男がいたのか。
こんな闘いがあったのか。
氷の鎗が男の肩の肉を抉る。
鋭い回し蹴りが龍の爪を砕く。
龍の顎が男の頭を掠め、男の拳が氷の壁に阻まれる。
長い尾が振り落とされる。
拳で返す。
鋭い爪が襲い掛かる。
拳で返す。
氷雪のブレスが吹き荒れる。
拳で返す。
見ろよ。
誰か。なあ。
あの男を見ろよ。
血みどろで。
ズタボロで。
泥まみれで。
たった二つの拳を握りしめて闘う、あの男を見ろ!!
俺の両目からとめどなく涙が溢れ、頬がぱきぱきと凍り付いた。
それでも、俺はその闘いから目を逸らせなかった。
それは、俺が今までに見たどんなものよりも、限りなく純粋な、魂の輝きだった。
光が弾け。
風が暴れ。
血煙が、凍った。
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