5-2

《とある兵士の希望》



 白龍ホワイト・ドラゴン

 この世界で最強の魔獣と言われる龍種の一角。

 氷雪の魔力を自在に操る天の災害。

 ここらの土地に住む人間であれば、誰だって子供の頃におとぎ話を聞かされる。

 ある日、一夜にして氷漬けになった古の都と、それを為した白き龍の伝説。

 だが、大人たちはみな知っている。それは、今もなお東のお山に生息する魔獣であることを。なんなら一生に一度か二度くらいは、お山の上を典雅に舞う純白の龍の姿を見ることだってできる。


 そのシルエットを表わすなら、翼と四肢が生えた巨大な蛇というのが一番近い。

 頭から尾までを仮に一直線に伸ばしたとして、人間の大人7~8人分くらいの長さになるだろうか。

 全身を純白の羽毛に覆われ、その口は大鷲のような嘴の形をしている。

 額には、水晶のような一角。

 それは美しく、神々しく、見るもの全ての目を奪う。


 だけど、俺はこんなもの見たくなかった。

 その瞳が、透き通ったサファイア・ブルーであることも。

 その広大な翼が羽ばたく度に無数の氷片が花吹雪のように舞い散ることも。

 その長大な尾の先端に氷の鎗が備えられていることも。


 そして、その天災に真正面から殴りかかる大馬鹿野郎がいることも。



「ぜぇいああ!!」


 その拳が、白龍の脇腹を横から殴りつけた。 

 俺だって兵士になってもう何年も経つから、こと戦闘に関しちゃそれなりに経験はある。

 素手で殴るでも武器で斬りつけるでも刺しこむでも、とにかく体重をどれだけ乗せられるかでその一撃の威力が決まる。

 腰を入れた体の捩じりだとか反対の腕の振り方だとか色々あるんだが、分かりやすいのは踏み込みの足だ。

 そこが一番最初に体に起こる力だからな。


 ずごっ!!


 


 たった一人の男の、たった一発の拳を打ち込むための踏み込みで、固く凍り付いた地面がひび割れて沈み込んだんだ。

 男の体は、『敵を殴る』という行為の完全な形を為しているように見えた。

 完璧な体捌き。

 完全なタイミング。

 完全な角度で打ち込まれた、男の拳が――。


 ぽすっ。


 そんな間抜けな音を立てて、白龍の体に止められた。

 男の表情が強張ったのが分かった。

 龍は微動だにしていなかった。

 その分厚い羽毛か、皮膚の固さか、筋肉の厚みか、脂肪の弾力か、あるいはその全てによってか阻まれた男の拳は、なんのダメージも龍にもたらすことはなかった。


 しかし。

 そんな蚊の刺すような攻撃でさえ、己に害をなしたの存在を、いかにして許す道理があるだろう。

 風がうねった。

 それは、人間が蚊を払う程度の動作だったのだろう。

 白龍の長い長い尾が横薙ぎに振るわれた。

 それだけで起こる突風に周囲の瓦礫が吹き飛ばされる。

 

 男はそれをしゃがみこんで避けていた。

 いや、巻き起こされた風に飛ばされないように地面にしがみついていた。

 だが、それは、龍にとっては決して渾身の一撃ではないのだ。

 続けざまに前肢が振りかぶられ、一本一本が湾刀のような鉤爪が襲い掛かる。


 男の上半身が消えた。

 少なくとも俺にはそう見えた。

 だが、次の一瞬で、腰から上をありえない柔軟性によって横に倒し、爪の一撃を避けていたのだと分かった。

 そして、その捻転の反動をつけて下から白龍の腕をカチ上げた。

 空いた胴体に、一歩。


「じぃぇあ!!!」


 後ろ回し蹴り。

 真正面から突き刺さる。

 だが、やはりそれは頼りない音と共に龍の腹に吸い込まれ、無力化される。

 男の頭上に、龍の顎が迫った。


 身の竦むような音を立ててその咬合が空を噛む。

 二回。三回。

 自在に空をうねる龍の首が、後ろ飛びでそれを避ける男の体に迫る。

 ついには背に瓦礫を負わされた男は、逆にそれを蹴りつけ、前へと転がった。

 再び懐へ。

 しかし、それを待ち構えていたかのように、龍の鉤爪が掬い上げるような動作で男を襲う。


 全身で弾かれたように跳躍。

 回避したかに見えた男の体が龍の腕の振りに合わせて宙を泳いだ。

 爪が引っかかった――いや、男が爪を掴んでいる。

 そのまま曲芸のような動きで体勢を変えた男が龍の腕を足場に宙を飛ぶ。


「うぅぉらぁあ!!」


 その一撃をなんと呼べばいいのか、宙で縦に回転した男の踵が、龍の喉を蹴り込んだ。


 どむ。


 今までにない音が鈍く響き、龍の体が揺らいだ。

 ダメージが通ったのだ。

 男がもう一度ぐるりと回転し、着地した。

 そして、次の瞬間――。


 ばほっっ!!!


 純白の大翼が、拡がった。

 一瞬で周囲に氷の華が撒き散らされる。

 龍の胸部が大きく膨らんだ。


 こぉぉぉぁああああああああ!!!!


 氷雪の息吹ホワイト・ブレス


 万物を凍てつかせる白龍の吐息。

 己の足元に向けて真っ直ぐ吹き付けられたそれが、瞬く間に世界を白く染め上げる。

 いつの間にか後ろへ大きく下がっていた男へ、その向きを変えたブレスが襲い掛かった。


 真横へ駆け出す。

 瓦礫を避けながら獣の如き速度で走る男を、龍の首が巡ってブレスで追いかける。

 その軌跡に、一瞬で凍り付き砕け散った砦の残骸が崩れ、舞った。

 たっぷり十秒程は続いたブレスからとうとう逃げ切った男は、その走る勢いをそのままに龍の背後へ回り、瓦礫の山を駆け上った。


 跳躍。


「ずぅえああ!!!」


 再び、龍の頭がぶん殴られる。


 たたらを踏み、それでもすぐに体勢を整えた龍の口から漏れた呼気が、ぱきぱきと空中で凍って白い煙となった。



(すげぇ……)


 俺は一体、何を見ているんだ。

 

 あの男は一体、何をしているんだ。


 白龍の甲高い咆哮が響き渡る。

 暴風が吹き荒れ、その巨体が宙に浮く。

 瓦礫に身を隠してその風圧を凌いだ男に向け、白龍の尾が空から襲い掛かる。

 一突きで男が隠れていた瓦礫が吹き飛び、黒い影が飛び出す。

 龍の巨体を宙に留めるための羽ばたき一つで、吹き飛ばされそうな暴風が男を襲い、それと交互に氷の鎗を備えた尾の刺突が繰り出される。

 それを、避ける。

 避ける。

 避ける。


 そのギラギラと光る瞳に、耳まで吊り上がりそうな口元の笑みに、凶暴な相を浮かべて。


 ああ。

 あの男は、本気なのだ。


 最初は、龍を怯ませて逃げる隙を作ろうとしているのだと思った。

 なにか余程強力な支援魔法バフ・マジックをかけているだと思った。

 彼が時間を稼いでいるうちに援軍が来るのだと思った。


 それが、俺にギリギリ理解できるこの状況の解釈だった。


 だが、違った。

 逃げる隙ならもう何度もあった。

 こんなに効果が持続する支援魔法は存在しない。

 どこを見渡しても、援軍が到着する気配はない。


 目の前の現実を、俺はようやく理解した。

 この男は、本気だ。


 一人で。

 武器もなく。

 魔法もなく。


 この男は、本気で龍を倒そうとしているのだ。



「どぅぉおらああああ!!!!」

「きゅぉぉあああああ!!!!」


 男の野太い怒声と、龍の甲高い咆哮が交錯する。

 たった一体で砦一つを崩壊させた魔獣。いや、砦どころの話ではない。伝説の中では都市一つを滅ぼした天災そのもの。


 暴風と共に空に留まり、その野太く長い尾を振り回し、獣のような動きで駆けずり回る男を襲っている。

 男の腕が瓦礫を掴み、投擲する。

 龍は僅かに首を傾げてそれを避ける。

 その隙に死角へ回った男が、龍の羽ばたきによって吹き荒れた吹雪に晒され、叩き落される。


 龍の胸部が膨らみ、ブレスが――いや、先ほどの直線的なブレスではない。魔力の塊が嘴の先で膨らみ、周囲の空気が収束していく。

 龍の頭部ほどのサイズとなった青白い魔力の塊が、地に下された。


 それは、男を直接襲うことはなく、静かに地面へと触れた。

 その、瞬間――。



 



 俺は咄嗟に地下へ身を隠し、扉を閉じた。

 一瞬遅れて、真っ白な光が木製の扉の隙間を透かしてでさえ俺の目を焼いた。

 数秒後、恐る恐る扉を開けた俺が見たものは、数秒前とは全く違う景色だった。


 氷の山だ。

 白龍の足元を中心に、魔力の爆発がそのまま氷の姿を為して現れ、四方八方に伸び拡がる巨大な氷山が出来上がっていた。


 その、はずれに、男の足が捕らわれていた。

 逃げきれなかったのだ。

 すぐさま拳を振り下ろし、自分の足を拘束する氷の塊を砕いた男を、影が覆った。


 大きな。

 大きな嘴が、がぱりと開いて。

 男の肩に嚙みついた。


「んんん!!」


 苦悶の声が上がる。

 男は咄嗟に腕を寄せて組み、顎の中に滑り込ませていた。

 辛うじて噛み潰されるのを防いでいるその体が、浮かび上がる。


 ああ。

 ダメだ。


 二度三度、空中で男を振り回した龍は彼を嚙み殺すのは諦めたらしい。

 ひと際大きく首を振り。

 男を投げ飛ばした。


 男の巨体が矢のような速度で吹き飛び、氷の山に激突した。


「かっ……」


 それを受けた氷山の一角が崩れ落ち、男の体が、地に倒れ込む。

 その上に、龍の尾が、ゆらりとかざされる。

 

(やめろ)


 既にぴくりとも動かない男の体に――。


(やめてくれ!!!)


 振り落とされた。


 轟音が響き渡り、男の体が、見えなくなった。

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