5.白い戦い
5-1
《とある兵士の絶望》
寒い。
静止した時間の中で、魂まで凍り付きそうな闇の中に、俺はいた。
頭の上を、ひゅうひゅうと風が通り抜ける音がする。
その風が、時折不規則に流れを変える。
なにか巨大なものが風を切っているのだ。
その身の揺らぎが風音の変化となって耳に聞こえるほどの、なにか。
そいつは、俺たちが守る砦に突然現れた。
俺はその時、払暁時の見張り番を終えて寝床に向かうところだった。
しかし、俺と代わって見張り台に上った連中が警鐘を鳴らしやがったもんだから俺はブチ切れそうになったんだ。
敵襲。グリフィンドルの連中か。
くそったれ。来るならなんでもっと早く来ねえんだ。
この砦は防衛線の東端にある。その先にはドルニ山脈が聳え立ち、天然の国境線を敷いている。ここより東を敵が通ろうとすればこの砦から丸見えで、そこから国のどこをどう目指そうが俺たちはそいつらより早く先回りができる。
そんなことは向こうだって分かってるから、わざわざこの砦の東を抜けようなんて奴はいない。ここを落とすんだったら真正面から来るか、ここより西側から来る(西側から来たときは降伏する。味方との連携が断たれてるってことだからだ)。
そいつは東の空から来た。
魔獣だ白頭巨鳥だ飛竜だなんだと喚き散らす見張りの野郎の声の中に、「嘘だろ」なんて声が聞こえた時には、もう地獄は始まってた。
こぉぉぉぁあああああ。
その聞き慣れない甲高い声と共に、砦の上の方が吹っ飛んだ。
何が起きたのか分からなかった。
頭上から木片や石くれに混じり、馬鹿でっかい氷の塊が落ちてきた。
一歩横にずれてれば俺の頭に直撃していたであろうそれは、ガチガチに凍り付いた人間の上半身だった。
こぉぉぉぁああああああ。
突風。
悲鳴。
怒号。
砦の中は一瞬で昏迷の極みとなった。
俺の周りで俺と一緒に右往左往する仲間たちの顔には、まだ恐怖よりも混乱の色の方が濃かった。
自分の隊の仲間も上司もどこにいるのか分からないし、なんならさっきまで俺と一緒に見張りをしていた同僚の姿も見えない。とりあえず盾と剣だけは装備したが、これを持ってどこに行けばいいのかも分からない。他人に指示を出せる奴なんか一人もいなかった。そもそも、自分たちが一体何に襲われているのかも分からない。
しかし。
ひと際大きな轟音と共に、砦の壁が崩壊し。
全身に叩きつけられた突風によって、俺の体が浮いた。
吹き飛ばされる。
流れるように遠ざかっていく景色の中に、俺は見た。
真っ白な空。
その中に広がる純白の翼。
優雅に天を舞う長大な尾。
一瞬で目に焼き付いたその光景は、すぐさま天地上下がかき混ぜられ、意味を失くした。
背中に衝撃を感じた時には、崩落する瓦礫に視界は塞がれ、俺は死を覚悟した。
だが、一体なんの奇跡が働いたのか、俺はたまたま地下食糧庫の扉の上に落ちたらしい。
そのまま扉を破って階段梯子を転がり落ちた俺は、辛うじて瓦礫の下敷きになるのを免れた。
呼吸が詰まり、苦痛に身をよじって耐えている間も、頭の上の方で悲鳴と破壊の音が断続的に聞こえていた。
俺は動けなかった。
怪我は大したことはない。
体は動く。
頭も働いてる。
そして、だからこそ動けなかった。
今、この場を動き、外に出たら、今度こそ確実に死ぬ。
ふざけるな。
ふざけるなよ。
あれは……。
あれは、
なんでお山の天辺に巣食ってるはずの龍がこんなとこに降りてきて俺たちを襲ってる?
もうダメだ。
田舎のカカアが、今年は干害が酷く満足な蓄えもできないと嘆いていたのを思い出した。これは何か大きな災いの予兆だとか国自体に呪いがかけられたとかなんとか騒いでいたが、こんなものを見せられてはそれも与太話ではなかったのだと分かる。
こんなわかりやすい天変地異があるか?
こぉぉぉあああああああああ。
轟音。
悲鳴。
馬の蹄の音。
誰か逃げ出したんだ。いや、救援を呼んだのか?
分からない。
全ては俺の頭の上で起こっている。
ごん。
と、ひと際近い場所で鈍い音が聞こえ、俺が落ちてきた入口――瓦礫で半ば塞がれてる――に人影が見えた。
誰だか分からないが、仲間の兵士だ。
無事かどうかは分からないが、もし生きてるなら、ここに匿えば助かるかもしれない。
俺は縺れる手足を必死に動かして梯子を上った。
「おい! こっちだ! ここに隠れられる!」
俺の声に、そいつが反応したのが分かった。
「ひっ。ひっ」
まともな言葉を失い、それでも生きるために瓦礫を押しのけ、自分の体をねじ込もうとしている。俺はそいつの血塗れの手に腕を伸ばして――。
こぉぉぁああああああああ。
5秒程かけて、そいつが氷漬けになっていく様を正面から見た。
白い闇が。
帳を降ろした。
……。
…………。
それから、どれほどの時が経っただろう。
俺は暗い地下倉庫の中で、一人凍えていた。
もう指の感覚がない。
幸い、保存食だけは大量にあった。到底、一人では食べきれない量。けれど、これを食べる人間はもう俺しかいない。
一頻り暴虐の限りを尽くしたあの龍は、この砦周辺に動くものがいなくなると、しばらくして何処かに飛び去って行った。
途方に暮れた俺は一度外に出てみたが、当然馬など残されていない。今の俺の状態で歩いて隣の砦まで行くのは無理だ。ここで引きこもって味方が来るのを待ったほうがいいと判じた。
それが、大きな間違いだった。
龍が帰ってきたのだ。
一体ここに何の用事があるのか知らないが、やつは日が沈む前に再び現れた。
俺は恐怖で張り裂けそうな心臓を抱えて地下倉庫に転がり込み、ひたすら膝を抱えて震えていた。
どうやらここにいる限り見つかる心配はなさそうだったが、もう俺自身、自分がどうなっているのか分からなかった。
そこから先は、時間の感覚も失せた。
一日経ったのか。三日経ったのか。それともまだ半日も過ぎていないのか。
ただでさえ極寒の土地柄、ましてや地下にいては気温の変化など分からない。たまたま倉庫にあった布切れで体をぐるぐるに巻いて体温の低下を防いでいたが、それももう限界だった。
自分の中の命の火が消えかけているのを感じた。
その時だった。
「…………?」
俺の耳に、規則正しく刻まれる蹄の音が微かに届いた。
それと同時に、車輪の音。
馬車だ。
味方?
救援?
いや。どう頑張って耳を澄ませても馬車一台分の音しか聞こえない。それも小型だ。三、四人乗るのがせいぜいだろう。
近づいていた馬車の音が、止まった。
頭上を流れる風の音が、僅かに流れを変えたのが分かった。
ダメだ。
龍はまだいる。
馬鹿野郎。たった一台きりでなにしに来た!?
「よう。あんたが
そんな気楽な声が、小さく聞こえた。
男の声だ。若い。
「いい朝だな」
一人?
俺は恐る恐る梯子を上り、瓦礫の隙間から外を見渡した。
「まずはお届けもんだ。これ、あんたのだろ。悪かったな」
その男はすぐに見つかった。
この極寒の気候のなか、正気を疑うような軽装で一抱え程もある木箱を馬車から降ろしていた。
なんのことだ?
男が木箱の封を力づくでこじ開けると、乳白色の巨大な卵が現れた。
龍の卵!?
まさか、この龍はずっとあれを探していたのか!?
風がうねった。
陣風が走り、巨大な質量が宙に浮かんだのがわかった。
影が差す。
そして、すぐさまそれが着地し、地面が震えた。
目が離せなかった。
真っ白な龍が、男の正面に降り立っていた。
その視線は、彼の足元の卵に注がれているように見えた。
なぜそんなものを彼が持っているのか。
なぜそれが龍の元から失われていたのか。
事情は何一つ分からない。
いや。
ひとつだけ分かる。
ここに至るまでにどんなやりとりがあったのかは分からないが、彼はそれを返しに来た。
あの男は、死ぬ気だ。
怒れる龍の元に、失われた卵を返しに行く。
無事で済むわけがない。
だからこそ、彼は一人で来たのだ。
自分一人の犠牲で、龍の怒りを鎮めるために。
その巨体からは想像もできないほど静かな挙動で、龍は首を垂れた。
それは、神々しさすら感じる美しい光景だった。
大鷲の嘴のような顎を大きく開き、龍は卵を咥え、飲み込んだ。
その行為がなんの意味を持つのかは分からない。
あれで卵が保護できているのか、それとも、一度人の手に渡った卵を不要と断じて食っただけなのか。
だが、これから何が起こるのかは容易に想像がついた。
「さあ。探し物は返したぜ。どうする? もう帰るか?」
男の顔は見えない。
だが、その声が異様なほど穏やかなのは分かった。
そして、龍の胸部がわずかに膨らんだのが見えた。
ブレスだ。
「まあ、そうなるよなぁ」
男の声が、僅かに上ずった。
やめろ。
逃げてくれ。
あんた、どう見ても兵士じゃないじゃないか。
「なら――」
俺の体が動いた。
一瞬だけ、恐怖を忘れた。
瓦礫を押しのけ、扉を開けた俺が見たものは――。
ごう。
白龍の口から放たれた
誰もいない地面を通り抜けていく。
そして。
白い空に舞う、黒髪の男の姿。
その口元に浮かぶ、獣の如き獰悪な笑み。
そして。
「
男の拳が、龍の頭をぶん殴った。
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