4-4

《とある少年の冒険・4》



「はっ。はっ……。ん、ぐ」


 体が乾いていた。

 口を閉じてどれだけねばっても、唾液が湧いてこない。

 酸素が足りない。

 ただ開いているだけの目がひどく痛い。

 胸いっぱいに息を吸い込みたいのに、それをすれば口の中の水分がさらに奪われるというジレンマ。


 僕は今、灰色の地獄の中にいた。

 視界を埋め尽くす、大小様々の枯れ木のオブジェ。ヌルメンガードに侵攻したグリフィンドルの兵士たちを襲った二つの災厄のうちの一つがこれでもかと敷き詰められたその建物で、僕はついに膝をついた。


 最初は、なんとなく喉が渇いたとしか感じなかった。

 異世界の冬でも空気は乾燥するんだな、なんて呑気なことを考え、目に映る範囲の畑を焼き尽くした僕は、その石造りの建物に入っていった。

 窓がないその内部は暗く、僕は田中さんに作ってもらった魔法のランタンに魔力で火を灯した。

 一瞬牢獄かと思ったそこは、恐らくは牧場なのだろう。

 柵で仕切られたいくつもの小部屋の中で、もはや元の形が分からない――それでも人間でないことは辛うじて分かる――生き物が、例の枯れ木のオブジェの中に捕らわれ、絶命していた。


 寒気がした。

 元から外は凍えるような氷点下の気温だったが、僕は自分の周りに障壁を張り、内部の温度をおおよそ15度前後に保っている。そのはずなのに、背筋がぶるりと震え、冷たい汗が頬を伝うのを感じた。

 ふと、喉に痛みを覚えた。

 その時、口の中がからからに乾いていることに気づいたとき、僕はこの建物から出るべきだったんだ。

 けど、僕はそれを緊張のせいだろうと思い、そのままその建物の奥へと進んでしまった。


 一つ扉を開けたそこには、前の部屋とほとんど変わらない光景が広がっており、僕は眩暈を覚えた。

 間違いない。ここはこの不気味な植物の実験場なんだ。

 だとすれば、何かしらの資料が残っていてもおかしくない。

 

 さらに一つ、奥の部屋へと進んだとき、視界がぼやけた。

 何となく、頭がぼうっとする気がする。

 おかしい。

 これは流石におかしい。

 視界がチカチカする。

 指先が痺れる。

 一息吸う毎に喉がヒリヒリと痛む。


 毒?

 いや、今の僕の障壁をすり抜けられる毒物はこの世界には存在しない。

 

 くらくらする頭の中で、遠い日の記憶が蘇った。

 立ち込める砂煙。滝のように流れる汗。汚れに塗れたサッカーボールの匂い。

 顧問の先生の野太い声。


『全員、こまめに水分補給しとけよ。今の時期は時にな。でないと――』


 そうだ。

 これは毒なんかじゃない。

 脱水症状だ。


 あの灰色の枯れ木は、憑りついた人間の水分を根こそぎ奪って干からびさせる。

 けど、それだけじゃないのだとしたら?

 対象を憑り殺した後も、水分を、つまり空気中の水分を奪い続けているのだとしたら?

 今まで、あれは屋外でしか目にしなかったから気づかなかった。

 けど、ここは採光窓も存在しない密閉空間だ。

 バカみたいな言い方だけど、この枯れ木は特大の乾燥剤なんだ。


 僕はこの建物に入った瞬間から、空気を介して体の水分を奪われ続けていたんだ。


 そこまで考えたところで、僕はとうとう膝をついた。

 まさか、こんな方法で僕にダメージを与えるなんて。

 僕の障壁は触手も毒ガスも寄せ付けない。

 僕の肌は魔法も物理攻撃も跳ね返す。

 けど、呼吸をする以上、空気だけは通すしかない。


『夏場の熱中症には気をつけましょう。脱水症状は、ときに命の危険を招きます』


 嘘だろ?

 こんなことで僕は死ぬのか?


 手に、足に、力が入らない。

 意識が薄れていく。


 水。

 水がほしい。

 一口だけでいい。

 なにか――。


 その時。

 倒れ込んだ僕の懐で、なにか丸いものが腹に当たった。


「う……」


 そうだ。

 どうして今まで忘れていたんだ。



『おい、あんた――』

『はい?』


 今朝がた、一人で駐屯所を出発する僕に、兵士の一人が声をかけてきたんだ。


『一人で行くのか?』

『……ええ。その方が手っ取り早いですから。これは戦争じゃないですので、僕だけで行っても大丈夫でしょう』


 僕たちに課せられたルール――あくまでグリフィンドルの兵士たちの手助けをするだけ――のことは周知してある。


『そうか。飯は食ったか?』

『……いえ。あんまり食欲がなくて』

『あんたには余計なお世話かもしんねえが、なんかしらは腹に入れといたほうがいい。いざって時に力がでねえぞ』

『はあ』

『ほら。これ持ってきな』


 そう言って、その兵士は僕に小さなリンゴを投げ渡してきた。


『ありがとう、ございます……』

『こっちのセリフだ。頼んだぜ、勇者さま』


 その言葉に、僕はひどい罪悪感を覚え、どうしてもそれを食べることができなかった。かといって突き返すわけにもいかず、捨てるわけにもいかず、ずっと懐に仕舞っておいたんだ。


「う……」


 朦朧とする意識の中で、僕はそれを掴み取った。

 必死に口元へ運び、汚れも気にせず齧りついた。

 酷く酸っぱい。けど、確かに存在する水気が喉を通り、ほんの僅かに、僕の意識に力を与えてくれた。


「う。お。……お、お」


 呼吸を一つ。

 魔力を全身に漲らせる。

 


 ――顕現せよ、我が力。七つの輝きをもって。



 膝をついて立ち上がり、掌に湧く魔力の本流を制御する。

 イメージは虹。

 大空にかかる弧。


 きゅごっっっ!


 溢れだした魔力は半月の形を描き、石造りの建物の壁を、天井を、さらに反対側の壁までを纏めて砕き割った。


 その瞬間、薄灰色の空から日差しが差し込み、風と共に全身を包んだ。

 ぱらぱらと崩れ落ちる建物の残骸が、障壁に弾かれて僕の足元に積まれていく。

 僕はリンゴの残りにむしゃぶりつき、芯まで嚙み砕いた。


 荒い息を吐き、ステータスを確かめる。

 HPとMPがごっそりと減っていた。

 こんなダメージを受けたのは久しぶりだ。

 そして、魔力MPが減っていたということは、この枯れ木は水分だけでなく魔力まで奪う代物なのだろう。


 やはり、この場所は罠だったんだ。

 僕を殺すための罠。

 ということは、この瓦礫の残骸をどかして調べても、特に大した情報は得られないのかもしれない。きっとそうだ。そういうことにしよう。早く帰りたい。

 正直、リンゴ一個で脱水が治るとも思えない。


 しかし――。



 どぅん。



 その、胎動は。


 どぅん。


 僕の足元から聞こえてきた。


 ああ。

 そうだよな。

 この枯れ木は魔力を吸い取っていた。

 吸い取って、どうする?

 立ち枯れたオブジェみたいなこいつらに、ただ魔力を吸わせて、それで、その後は?


 どぅん。


 当たり前だ。

 吸い取った魔力を、集めて、利用する何かが他にあったっておかしくない。


 ど。

 ど。

 どどどどどど。


 地響きが伝わってくる。

 そして、その馬鹿みたいな魔力量も。


 どごっ!!!


 そして、それは現れた。


 灰色の木の根。

 それが集まり、捩じれ、寄り合わさって、形を作っていく。

 野太い手足。

 長い尾。

 天を覆う翼。

 虚ろな眼窩から、めらめらと燃える魔力の燐光。



 龍樹ナーガ・ルジュナ


 

 じゃおぉぉぉぅぅぅうう!!!!


 牙も見えない木の洞のような口から、絶叫が迸る。

 びりびりと空気が震え、僕の全身を打つ。


 …………ああ。

 やだな。

 本当に、僕のどこが勇者なんだ。


 膝が震える。

 歯が震える。

 背筋が凍り付く。


 怖い。

 怖い怖い怖い。


 いつだってそうだ。

 自分がどれだけ強くなったって、ステータス上では絶対に負けないと分かってる相手にだって、僕の心はいつまでたっても日本の根暗な高校生のままで。

 僕は勇者なんかじゃない。

 怖くて怖くて仕方がないんだ。


 それでも。


『君は間違いなく勇者だ』


 あんな。

 あんな、適当なセリフで。

 

『こっちのセリフだ。頼んだぜ、勇者さま』


 分かってる。

 みんな僕らを体よく利用してるだけだ。

 僕のことを認めてるわけじゃない。僕の持ってる力に用があるだけだ。

 なのに――。


『勇者さま』


 どうして僕の心に、勇気が湧いてくる?

 僕を信じてくれるシスターの顔を、僕にリンゴをくれた兵士の顔を思い出すと、頑張らなきゃって、ここで踏ん張らなきゃ、って、そう思ってしまう自分がいるんだ。


 足を開いて、瓦礫だらけの地面を踏みしめる。

 縋りつくようにして、手に顕した虹色の剣を握りしめる。

 カチカチと鳴る歯の根を、根限りの力で噛みしめる。


 いつも通り。

 いつも通りにやれば大丈夫だ。


 さあ――。


「う、うぁああああ!!!!」


 情けない僕の絶叫が、虹色の輝きに乗って放たれた。

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