4-3
「皆の者、聞けぃ!!」
払暁の砦に、ゴーント伯爵の雷声が響き渡った。
「本日より、我らゴーント騎士団に、聖女ミソノ・イテクラを参謀として迎え入れる!」
少なくとも、私の見える範囲でこれを聞いているものに、彼が本物のゴーント伯であることを疑っている様子はなかった。
彼は壇上で声を張り上げ、ミソノ様が『
そして――。
「この若者、ウシオ・シノモリこそ! ハングルトン村を襲った
どよめきが起き、ゴーント伯の後ろに立つミソノ様とウシオ様に視線が注がれる。
二人は神妙な様子で佇立し(いや、よく見ればウシオ様は僅かに踵を上げて爪先立ちをしている)、彼の語るに任せていた。
『ろ、籠城戦でありますか!?』
昨晩、副団長を含めた数人の幹部には、前もって作戦を伝えてあった。
当然のように、彼らは狼狽した。今日の今日まで勇猛果敢(猪突猛進)に白龍へと吶喊する作戦を唱えていた将軍が180°に方向転換をしたのだ。
『諸君らの懸念は分かる。果たしてこの作戦が栄えある我らゴーント騎士団の勇猛さを証明する戦足りえるのか、私も甚だ疑問である』
しかし、今彼らが相対しているのは、故国において実の父親をも欺き陥れた稀代の詐欺師だ。
『だが、諸君らも東砦の敗残兵を見たであろう。仮にも同じ大スリザールの御旗を掲げる彼らがあれほどまでに軟弱であろうとは、私とて夢にも思わなんだ。あれでは露払いの役目も果たせはせんだろう。しかし安心したまえ。我らは既にもっと強力な手駒を有しているのだ』
そうして、ミソノ様とウシオ様を利用する作戦を披露する頃には、既に彼の言葉を疑うものはいなくなっていた。
彼の背後にて、その説明を補佐しつつ控えていた私でさえ、本物のゴーント伯が語り聞かせているようにしか見えない。いくら鎧兜で顔が見づらかろうと、長年彼に仕えてきた部下たちに全く違和感を覚えさせることがないとは。
ただ、では彼らの中にほんの一抹疑いの心が起こったとして、いや当初の予定通り砦の外で白龍を討ちに出るべきだなどと具申するものはいなかっただろう。
当然だ。遮るもののない平地でどうやって
自在に天を翔ける魔獣からどうやって頭上を守る?
昨日までのゴーント伯が唱えていた作戦など、ただの前向きな集団自決に他ならない。
敵国の兵と戦って散るのなら本望と思う兵士もいよう。しかし、わざわざ自分から龍に喧嘩を売って国全体を危険にさらし、無意味に命を散らすことが一体なんの誉になるというのか。
数人の幹部たちの緊張した顔に、僅かながらに安堵の色が浮かんでいた。
そして、翌朝。
幹部の数人を主導とし、突貫工事で砦の魔改造が進んでいった。
東砦の生き残りから聞き出した白龍の情報を元に、ミソノ様とゴイル侯が対策を立てていったのだ。
まず、現状、白龍は自身が崩壊させた東砦に陣取り、その周辺の空を回遊して盗まれた卵を探している。
このまま卵が見つからなければ捜索範囲を広げるだろう。その時、果たして白龍がどこに向かうか、誰にも予測がつかない。もしも僅かにでも魔力の感知される方角を目指し――つまりは帝都方面などを目指すことがあれば、それこそ隣国との戦争どころの話ではない。
建国以来の、未曽有の大惨事だ。
今回の作戦の目標は、白龍の討伐ではなく撃退。
ゴーント伯爵が所有していた白龍の卵――魔力を遮断する箱に納められている――を開放し、白龍をおびき寄せ、卵を差し出す。
かの魔獣がそれを受け取ってくれるかどうかは分からないが、少なくともそれを差し出した我々を許してくれるということはあり得ないだろう。
これ見よがしに構えられた砦を攻撃目標にしたところで、決して無視できないダメージを与え、巣へと逃げ帰らせる。
『熊の撃退と同じよ。野生動物ってのは合理的なの。一度痛い目見たところへはもう寄り付かないわ』
矢を射かけるための狭間を廃し(どの道何本射ったところで白龍には通じない)、兵たちがブレスを避けるための空の堀や細かな土塁を砦の周りに無数に配し、破城槌を投擲するための装置を建設し、櫓には縄を張り巡らせて罠を張った。
仮に、平時に自分たちの砦にこんな装置を取り付けることを命じられたなら、兵士の誰一人として納得などしなかっただろう。
これでは敵の歩兵が攻めてきたときになんの守備力も発揮できない。
だが、この日、兵士一人一人の目に合ったのは、明確な恐怖と焦燥だった。
これを完成させれば白龍を退けられる。
昨日に東砦の敗残兵たちの様子を見ていた彼らにとっては、自分たちが同じ目に合うかどうかの瀬戸際なのだ。
ミソノ様から幹部たちへ、幹部から一兵卒へ、淀みなく指示は行き渡り、どうにかこうにかその日の夕に工事は完成した。
卵を開放するタイミングは、翌朝、日の昇りきったとき。
魔力を察知して白龍がこの砦にやってくる時間を正午にあて、出来るだけ日照を味方につけようという算段である。
英気を養うためにその晩は僅かながらに酒も振舞われ、その日一日の不慣れな土木作業による疲労と、明日来る襲撃への不安と恐怖によって、どこか空々しい高揚感が砦を包み、日は沈み切った。
私はと言えば、鼻の曲がりそうな廉価品の獣脂蝋燭の灯を頼りに帝都への通信と他砦への連絡、各地に散在する聖陽教会への物資供出の根回しなど、昼間溜めた事務仕事をこなしていた。
そして、今となっては、遠い昔のことのように思える半年前の出来事を思い出していた。
晩夏の風が心地よく吹く草原と、望郷の歌。
長閑な農村の牧場の匂い。
朝靄を晴らす東天の光。
湿った土のような、それでいて甘やかな果実のような、
私は、筆ペンをしまい込み、書類を仕分けると、凍り付いたような夜気に身を震わせながら、砦の裏門へと向かった。
そして――。
「よう、サっ子。いい夜だな」
木箱を抱えた、ウシオ様と鉢合わせた。
流石の彼もこの気温下では肌の露出はできないらしい。それでも、彼は私からすれば正気を疑いたくなるような簡素な外套を身に纏い、松明の明かりを頼りにボロボロの荷馬車へ木箱を積み込んでいた。
それは、内容物から魔力を遮断する魔道具。
東砦を滅ぼした魔獣の失せ物。
「どこへ行かれるのですか?」
私の問いかけに、彼は悪戯が見つかった子供のような、それでいて悪びれることのない、聖者のような穏やかな笑みを浮かべた。
「なあ、サっ子。俺のいた世界によ、こんな話がある」
「はい?」
「水夫がバカでかい船に積み荷を運んでたんだ。中身は爆薬。強い衝撃を与えると爆発しちまう。一人の水夫はそんな危なっかしいもんを運んでるようには見えないくらい、平気な顔してひょいひょい運んでいく。もう一人の水夫はへっぺり腰でびくつきながら一個一個慎重に運んでく。
それを監督する偉いやつが部下に聞くんだ。『勇敢なのはどちらの水夫だ?』ってな。部下は前者を挙げた」
「…………」
いや。それは違う。
勇気とは、そういう類のものではないはずだ。
「だが、お偉いさんは後者だと言った。前者は自分が危険な代物を運んでる自覚がないただの阿呆だ。後者は、その危険をちゃんと理解してて、それでも自分の務めを果たすために勇気を振り絞って仕事をこなしてるんだ、ってな」
「……その話が、どうかしましたか?」
「俺はどっちだと思う?」
東の夜空を望み見る彼の目は、松明の火を宿し、きらきらと光っていた。
「俺はよ、怖くねえんだ。
「……ええ。そうでしたね」
ぽつり、ぽつりと、彼の紡ぐ言葉が、深く暗い夜闇の中に消えていく。
「なあ、サっ子。俺は『勇者』なんかじゃねえよ。俺はただ……ただ、なんだろうな。わかんねえけどよ。それはきっと、俺がもらっていいもんじゃねえんだ。そうだろ?」
それは、私が見た、最初で最後の、彼の弱音だった。
私は、この男になんと言ってやればよかったのだろう。
こんなとき、あのシスターならなんと言って異世界の勇者を慰めるのだろう。
「どうでもいいんじゃないですか」
私の口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「あん?」
この砦の人間の、誰一人として、ウシオ様が何を考えているのかなど興味がない。
そして、ウシオ様にとっても、この砦の人間が彼をどう思っているかなど、それこそどうでもいい話だ。
そうだ。
倫理も道徳も、正義も悪性も、本物の勇気の在り処も。
そんな、些細な問題は――。
「いいんじゃないですか、勇気なんかなくても」
彼の往く道には、必要ない。
「そうか?」
「ええ。いいんですよ」
「……そうか」
「らしく行きましょう、ウシオ様。それで、いいことにしましょう」
そして、私の仕事は、彼の力を使役すること。
彼の心を労わることではない。
ミソノ様が敗残兵たちの命を救ったように。
レンタロウ様がこの砦の兵たちの命を明日へ繋げたように。
ウシオ様はウシオ様の、私は私の仕事をしよう。
しばらく虚空を見つめたウシオ様の口元が、吊り上がった。
目が大きく見開かれ、焔を宿したように力強く輝く。
「じゃあ、ちょっくら往ってくるわ」
「ご武運を」
それは、今日一日の砦の兵たちの労力を無に帰す行為。
それどころか、白龍を暴走させ被害を拡大させかねない最悪の一手。
それでも、万が一成功したなら、この砦とこの国に希望の光を灯す奇跡の一手。
私の見慣れた、獣のような獰悪な笑みを浮かべて、一人の悪党が、闇の中に消えて行った。
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