2.発つ蛇後を濁して
2-1
いわゆる、悪党と呼ぶべき人間たちを、私は今まで数多く見てきたが、彼らの中でもその悪辣さで上を(下を)行く連中に共通する点として、切り替えが早いということが挙げられるように思う。
「ヌルメンガードは放棄しましょう」
ゴイル侯爵は事もなげにそう言ってのけた。
本来、彼は、彼の祖父が謀殺し、乗っ取ったヌルメンガード領主バクスタ子爵家を隠れ蓑にして、この戦争を生き延びるつもりであったらしい。
己の傀儡と化した偽のバクスタ子爵をグリフィンドルに降伏させて、属州に成り下がらせる。あちらの国からこの土地を統治しようと人が寄こされるなら、それを魔術なり薬物なりを使って新たな傀儡とすればよい、と。
だが、それは己の存在を徹底的に秘匿し続けることで成り立つ策だ。
異国の少女の手でグリフィンドルに自分の存在が認識されてしまった以上、そこは隠れ蓑たりえない。
だから、捨てる。
そもそも、この土地に満足な戦力などありはしないのだ。
かろうじて存在する騎士団は当然のように員数の報告を水増ししており、練度も士気も低く、ホグズミードにおける戦力の半分にも満たない。
この土地に防衛線を張って敵の進軍を阻む、というのが無理難題であることは確かであった。
「しかし、それでは帝都への包囲網が完成してしまうのでは……」
「そうはなりませんとも、メイド長」
「は?」
ゴイル侯爵は部屋の壁面に設えられた戸棚をいくつか開けると、何種類かの薬包を取り出し、すり鉢にあけた。
そして、懐からなにやら奇妙な文様の描かれた紙片を取り出すと、卓上に置いたそれの上にすり鉢を乗せ、ゆっくりとすり始めた。十数秒程経って、桔梗の花に似た香りが室内に漂い出すと、彼はすり鉢の中身を匙に取り、部屋の隅に寝転がされていた彼の護衛へと近づいて行った。
「置き土産をしていきます。いくつか候補はありますが、このあたりなどはいかがですかな?」
ウシオ様により昏倒させられ、私によって拘束されていた男の束縛を解くと、自らの口元をハンカチで覆い、護衛の男の口元へ匙を傾ける。
気絶したままそれを吸い込んだ男の体が、びくりと震えた。
目が開く。
その瞬間、彼の口から、「ひぃ」と引き攣れたような声が漏れ、仰向けのままじたばたと暴れ始めた。
しばらくして体をひっくり返すと、うつぶせのまま伸ばした手足をがさごそと動かして、床を這い廻る。
その異様な光景に私が絶句していると、彼はやがて部屋の明かりを嫌うようにソファの背後にするりと入り込み、動かなくなった。
どういうことだ。
あれではまるで、害虫の動きではないか。
「あの。彼は、一体……」
「ふむ。……効果が出るのが早すぎるな。個人差が出るのは投与法に問題があるか……。しかし、熱変化に耐えるかどうかはまた別の……」
「ゴイル侯!」
「ははは。そう慌てずとも宜しい、メイド長。なに、命に別状はありませんとも」
そう言って不気味に笑う老爺は、また別の薬包を棚から取り出すと、今度は無造作に水差しに放り込み、軽く揺すって攪拌したそれを、ソファの隙間に上からかけた。
「ぎゃっ」
短い悲鳴と共に、男がソファから這いだした。
「しゃぁああ」
四つん這いのまま歯を剥き出しにしてゴイル侯を威嚇し始めた彼は、しかし、ほどなくしてその顔に困惑の色が浮かべ、床に座り込んで自分の体をまさぐり始めた。
「わ、私は、今、何を……」
その声は、普通の人間のそれと何も変わらないように見えた。
彼に改めて近づいたゴイル侯が優し気な声で彼に語り掛ける。
「気が付いたかね。今日はもう下がって宜しい」
「ご、御当主さま。しかし、私は、彼らは――」
「ああ。彼らは私の客人だ。君に説明していなかったことは謝ろう。さあ、下がりなさい。明日以降の君の役目については後で話し合おう。いいね?」
「……かしこまり、ました」
悄然として部屋を去った彼の背が消えるのを見届けると、それまで興味なさげにそれを見るともなしに見ていたミソノ様がようやく口を開いた。
「また変なお薬作ったってわけ?」
「ええ。他にやることもないのでね」
「自由研究なら夏休みにやりなさいよ。なにあれ、アルカロイドでも入ってる?」
「それが何かは分かりませんし、製薬法を説明するなら講義が半日必要になりますが、まあ簡単に言うと人を虫に変える薬です」
「虫に変える!?」
なんだそれは。
そんな薬物も魔術も聞いたことがない。
だが、確かに先ほどの彼の様子は、虫の挙動にそっくりであった。
「ま、まさか、あのまま放置していると、体まで虫になってしま――」
「んなわけないでしょ、サク。落ち着きなさい」
「し、しかし――」
「ただの幻覚作用よ。『ある朝夢から覚めると、ザムザは自分が一匹の毒虫に変わっていることを発見した』っつって。そういう風に思いこんじゃうんでしょ。光に対する負の走性。知能も虫並みになっちゃうってわけだ」
つまり、なんらかの方法であの薬品をこの土地を侵略したグリフィンドル兵に投与させるというわけだ。
一体どれほどの量を生産できるのかは知らないが、連中の足止めに有効と思われる程度には用意があるのだろう。相当な混乱が起こることは想像に難くない。
「今のでよくお判りになりますな、ミソノ嬢。ところで、『ざむざ』とは何のことですかな?」
「どうでもいいでしょ、そんなこと」
「いやいや。実はこの薬、つい先日完成したはいいのですが、名前が思いつかなかったのでね。折角だ、異世界の名前でも結構。拝借いたしましょう」
「は?」
今、何と言った?
「ん? あなた方三人は異世界から来たのでしょう? グリフィンドルに現れた勇者と聖女と同じ場所から」
だから、なぜお前がそれを知っている……。
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