6-3

 その日、大規模な侵攻作戦を展開していた、いや、しようとしていたグリフィンドルの軍勢を、ホグズミードの戦力が奇襲をもって迎え撃った。

 グリフィンドル側の動きをほとんど完璧なタイミングで読み切っていた聖女により、三日かけて分散させた兵力(それは、その時点のホグズミードに捻出できる最大戦力に近い)を、進軍を開始したばかりの敵の軍勢に向け、一斉に仕掛けたのだ。


 その戦の記録を残した資料は、後の世にはほとんど残っていない。

 グリフィンドル側が執拗な執念をもって記録を抹消したが故、兵力の詳細が分からないのだ。ホグズミードの将兵たちが残した手記による記録は数字がまちまちで、一説には戦力は五分五分だったとも、敵2,000対味方500の戦いだったとも、極端なものでは10,000対1,000の戦いだったとも記されており、判然としない。


 ただ、確かなことは、結果ホグズミードは大勝し、敵兵力をトラバーユまで退けることに成功したということ。

 そしてその最大の功労者は、間違いなくたった二人の異国の若者――黒髪の勇者と聖女であったということだった。



「ああっ。くそ。きったない」


 戦の興奮も冷めやらぬ戦場跡で、一人の少女が掠れ切った声で悪態をついていた。

 転げた死体からはみ出た腸から、糞便が撒き散らされていたのである。

 それをまともに踏みつけてしまった黒髪の少女は大いに顔を顰め、負傷者の手当てをしている戦場跡をふらふらと歩き続ける。

 血と泥と、その他なにやらよく分からない液体に塗れた敵の死体や、生きている味方の兵士たちにすれ違いそうになる度、顔を顰めながらそれを避けて歩いていく。


 そこに、年嵩の僧兵が歩み寄り、竹筒を差し出してきた。

「聖女様。少し休まれてはどうか」

 半日に渡る戦の間中、拡声と伝声の魔道具を使い分けながら方々に指示を出し続けていた少女の顔色は、貧血を起こしたように青白い。

「……こっちの被害は?」

「2割、といったところでしょうな」

「……多いわね」

「正直、あの戦力差を覆したにしては、奇跡としか思えぬ数字かと。……ああ、いや、奇跡なのでしたな、そういえば」

「ちっ。……敵兵力が多すぎたわ。この一か月あんだけ削り取ってやったってのに。国の連中がよっぽど雑魚いのか、それとも……」

「聖女様?」


 ぶつぶつと独語を漏らす黒髪の少女に僧兵が不審そうな声をかけるが、彼女にそれを構っている余裕はないようであった。受け取った竹筒から薬湯を飲み干すと、それを無言で押し付けてまたふらふらと歩きだす。

 その歩みの向かう先から、ぼろぼろの少年兵が涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら駆け寄ってきた。


「聖女様! 隊長が、隊長が……!」


 彼の背の向こうでは、血塗れとなった一人の騎士が、同じく血塗れの蓆に寝かせられていた。その胸元にしゃがみ込んだ一人の僧兵が脂汗を流しながら癒しの奇跡を施していたが、その光は弱々しく、とても効果を発揮しているようには見えない。

「……もう、よせ」

「……申し訳ない。……申し訳ない」

「もういい。……その力、他の者に……」

「隊長!!」


 その周りを囲む、みな一様に満身創痍の騎士の集団が――恐らくは死の床に伏せる男の部下たちが――必死に声をかけ続けている。


 そこへ、頼りない足取りで、黒髪の少女が歩み寄った。


「……おお。……クソガキ聖女」

「なによ。元気そうじゃない」


 それは、一月前、聖女との盤上演習でコテンパンに負かされ、人間椅子の刑に処されていた騎士隊長だった。

 そして、防衛作戦中の独断専行で部隊に人的被害を出し、自らその責を負う形で、今回の作戦の最も過酷な役割に志願し、見事にそれを果たした男だった。


「聖女様。どうか。どうか隊長を……!」

 必死の形相で、自分より一回りは小さな少女に縋り付く少年兵へ、少女は青白い顔に虚無の表情を宿し、首を振った。

「無理よ。見れば分かるでしょ」


 血が、滾々と。


 腹と胸の二か所に開いた穴から、命が流れ出ていく。


「しかし!」

「よせ。……お前ら。……こんなチビガキ女、困らせてんじゃねえよ」

 ほとんど喘鳴のような声で、男はそれでも口元に笑みを浮かべた。

 渾身の力を振り絞り術をかけ続ける僧兵の手に己の掌を重ね、顔を寄せた彼に耳打ちをする。

 苦渋に満ちた顔で後ろに回った僧兵が、その上半身を助け起こした。


「隊長!!」

 虚ろな瞳が、辛うじて目の前の少女の姿を捉える。


「……どうだ。クソ…キ。……少し、は。役に、……た――」


 その言葉が、形になる前に。


 戦場の埃に塗れた黒髪が、ふうわりと揺れて。


 小さな聖女が膝をつく。


 その場の誰もが、言葉を失った。



「お疲れさま。助かったわ」



 血みどろの体を抱きしめた聖女が、掠れ切った声で、それでも未だかつて誰一人聞いたことのないような優しい声音で、戦士を寿いだ。

 

 一瞬、大きく見開かれた騎士の瞳に涙の珠が浮き、その奥に確かにあった光が、失われた。


 その光景は、その場にいた者たちの心のうちの、どこか柔らかい部分を打った。

 騎士が、僧侶が、傭兵が、その場に跪き、静かに頭を垂れた。




 その後、しばらくして。

「これで、ようやく君の策が完成するわけだな、ミソノ君」

「……あんた、こんなとこで何してんのよ」


 戦場跡に設えられた天幕の中で、聖陽教のトップたる教皇グリンゴッツ9世と、黒髪の少女が向かい合っていた。

 天幕の入り口では、黒髪の大男が体中を包帯塗れにし、敵の騎馬をばらして手に入れた肉に齧りついている。


「なに、戦果をこの目で確認したくてな。ヘンギストやティモシーと違って、私なら自分の身くらいは自分で守れる」

「あっそ。勝手にすれば」

「……酷い声だな。どれ、見せてみなさい」

「触んないで。それより、グリフィンドルに送る和平の使者は準備出来てんでしょうね」


 節くれだった教皇の手が聖女の喉元に伸ばされ、それが力なく払われる。苦笑した老人は、静かに円座に座り直した。

「ああ。気合の入った文面を拵えていたよ」

「ふん。正直、これ以上は続けらんないでしょうね。上手くいかなかったらトンズラするから、あと宜しく」

「……正直、一月前にそのセリフを聞いていたら何が何でも君たちを排斥していただろうがね。このホグズミードにとって、君たちは間違いなく恩人だ。ヘンギストとてこれ以上は求めまい。逃げる時間くらいは稼いでやるとも」

「はっ。善人ぶってんじゃないわよ」


 その悪態も、掠れた声では聴きとりづらい。

 顰め面で視線を逸らした先で、少女の瞳が天幕の支柱の一つを捕らえた。


 青草を潰しながら突き立てられたその柱の傍に、白い花の群が見える。

 雛菊デイジーであった。


「ねえシオ。シスターどこ行ったか知ってる?」

「あん? お前と一緒だったんじゃねえのか?」

「戦の最中はそうだったけど……」

「彼女がどうかしたのかね」

「別に」


 不審げに問いかける教皇に素っ気ない言葉を返し、黒髪の少女はふらふらと立ち上がり、天幕の外に出た。

 いまだに負傷者の治療は続いており、帰還の目途が立たない本陣は、絶え間なく人が行きかっている。


「……ったく、あいつ、離れるなっつったでしょうが」


 手ごろな僧兵に声をかけて、彼女を見つけたらすぐにここへ来るように言付を託す。

 しかし、軍が戦場を引き払い、町へと引き返す段になっても、シスター・ベラトリックスはついぞ姿を現わさなかった。

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