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 あの、痛ましい犠牲を出したゴイル侯爵との戦いが終息してから、私は王宮での仕事に忙殺され、城下に出る機会も減っていた。

 しかし、使いに出ていたメイドたちや知り合いの騎士たち、出入の業者などから、聞きたくもない噂話は伝え聞いていたのだ。


 それは例えば、街中の商店で鬼のような剣幕で値切り交渉をしていた少女。

 それは例えば、街の外壁の外を猛然と走り回っていた半裸の大男。

 それは例えば、酒場で久し振りに再会した昔馴染みの青年。


 少女が店主の耳元で何事かを囁くと、それまで喧々諤々とやりあっていたはずの店主が急に顔を蒼くし、すごすごと値引きに応じたこと。

 朝に見かけた大男が、夕方には逆立ちしながら同じコースを周回していたこと。

 前日に再会し旧交を温めたはずの昔馴染みが、翌日になってまるで今日初めて会うかのような素振りで話しかけてきたこと。


 そんな噂話を、そういえば最近聞かなくなったな、と思ったのはいつ頃だったろうか。

 久方ぶりに傭兵組合へ顔を出し、ボトル・ベビーたちの近況を訪ねたついでに、あの三人の様子を伺ったところ――。


『連中なら、もうとっくに帝都ここを出たぜ?』


 不思議そうな顔をした番頭役の傭兵に、そんなことを言われた。


『おかしいな。あんたには最後に挨拶してく、とか言ってたと思ったんだが……』


 もちろん、別れの挨拶などされてはいない。

 それを聞いて、薄情な、と思わなかったと言えば嘘になる。

 しかし、すぐにその滑稽さに気づき、私は肩を竦めた。

 あの連中に対して、とは!


 そもそもの出会いが、偶然だった。

 私と彼らの関係は、一体何だったのだろう。

 仲間になったわけでも、ましてや友人になったわけでもない。

 互いに雇われたわけでもなければ、契約を交わしたわけでもない。


 私はその日の晩、一人寝所にて、乳白色の艶を放つ飛竜の短剣を月光にかざしていた。

 剣身の根元に掘られた、絵のような、字のような、直線と曲線の混じり合った奇妙な紋様。


『それね、僕たちの国の文字』


 無邪気な声が耳元で聞こえたような気がして、思わず振り返る。

 すぐにでも、あの堂に入った女装姿で、詐欺師の少年が現れるのではないかと想像してしまう。

 けれど、そんな時がもう来ないことは、とっくに分かっていたはずだった。


『だって、この国、もうじき滅びるじゃない』


 あのクズの少女があの時言ったセリフは、それまでに聞いたどんな汚い言葉よりも深く私の心を抉った。

 そうだ。あれだけ国の中枢に出入し情報を集めていた彼らが、この国の現状を知らないはずがない。そして、あの桁外れの知性を見せる少女が客観的に見た結果、この国に未来はないと言われたのだ。


『ついてくるなら、あんた一人くらい連れてってもいいけど?』

 そんなことを言われたことも、今思えば奇跡のようなものだ。

 もしも、私が名もないボトル・ベビーの一人であったのなら、一も二もなく(いや、散々悩んだ挙句の苦渋の決断として)彼らについていっただろう。

 しかし、今の私には、見捨てるわけにはいかないものたちが多すぎる。


 王家などどうでもいい。

 国土などどうでもいい。

 それでも、私の手の届く場所にいる人たちを護るために、私は逃げるわけにはいかなかった。

 負けるわけにはいかなかった。

 戦わないわけには、いかなかったのだ。


 聞けばあの連中は、ゴイル侯爵を嵌める際に陥れた司祭の代わりに役得を得た僧侶の一人とパイプを繋いでいたのだとか。

 その伝手を辿り、巡礼者に紛れてハーフルバフとの国境に面したホグズミード領へと旅立ったとのこと。

 我が国スリザールは北方を海に、その他三方を他国に囲まれている。東部は峻険な山脈によって天然の国境線が引かれており、その南端に位置するホグズミードは、東国ハーフルバフへの唯一の玄関口であると同時に、国教会にとっての宗教上の重要地でもある。


 今ごろはもう、あの三人組は国境を越えているかもしれない。

 これでよかったのだ、と、不意にそんな考えが頭を過った。

 この国はもうじき、戦火に見舞われる。

 そこに巻き込まれていたなら、彼らは己の身を護るために戦っただろう。それはきっと、私たちスリザールの人間の利になったことだろう。


 けれど。


 けれど、なんだろう?

 私は、彼らの身を案じているのだろうか?

 あの、殺しても死にそうにない連中のことを?


 分からない。

 私と彼らは仲間ではない。

 ましてや、友でもない。

 互いに雇われたわけでも、契約を交わしたわけでもない。


 ただ行きずりの、赤の他人――。


 分からない。

 何が分からないのか、それすらも。




 そして。

 水が低きに流れるように、夜に日が沈むように、まるで歴史書にそうと定められているかのように、我が国は戦争状態になった。

 私が陛下に虫で染色したオレンジジュースを飲ませた翌日、私は騎士団の総団長から直々に呼び出しを受けた。

 流石に戦のことについて意見を求められても困るのだが……。


 大いに困惑する私に、総団長もまた、困惑しきった顔で国の地図を広げて見せてきた。


「メイド長。今、戦線が徐々に押されていることは承知しているかね」

「ええ」

 地図上にて、戦争の始まる前に既に占拠されていたトラバーユ領には、敵国を示す赤の旗が建てられている。そこからじわりじわりと、赤の旗が北上しているのだが、奇妙な点が一つあった。


「私はことがここまでに至った以上、一度戦線を大きく下げて防衛ラインを密にすることを考えていた。だが……」

 兵法のことはよく分からない故、それがこの状況下での最適解なのだろう。しかし、そのためには地図上に一つ問題がある。

 北へ北へと進んでいるはずの敵国のラインが、東部の一端だけ微動だにしていないのだ。

 そのせいで右に大きくへこんだ奇妙な戦線が築かれている。

「私の当初の予測では、かの領土は早々に敵国へ降伏するものと思っていた。記録上の戦力では、かの国の侵攻を抑えきれるはずがない。それに反して随分粘ると思っていたが、これは少々異常だ」


 聞けばかの領地は、並列するその他の領主が反抗の末、あるいは無抵抗に降伏してから後、もうかれこれひと月近くもの間孤軍奮闘しているのだという。

 異常だ。

 確かに。

 けれど、私には、その異常がむしろ起こるべくして起こった事態であることが分かった。


 二方向を赤の旗に囲まれ、それでもいまだ緑の旗を立て続けるその領土は、ホグズミード。


 三悪党が、最後に訪れたはずの地だった。

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